月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

1910年生まれのヒルデおばあちゃんは、ドイツ激動の時代を生き抜いた人です。戦前から終戦直後までの、彼女の思い出話を綴っています。

シュルツ牧師は語る3.善き力に守られて

 1939年、私は神学第一次試験に合格し、ヴィカールの真っ最中でした。ヴィカールとは指導牧師のもとで牧師見習いをする修業期間のことで、これを経て、初めて神学第二次試験を受験する資格を得られるのです。

 私はベルリン・ヴェッディング地区にある教会での主日礼拝、夕礼拝、聖餐式、結婚式、葬式、堅信礼、洗礼式などの実習、教区の信者たちとの交流、慈善事業への参加、牧師養成クラスの受講など大変な忙しさでしたが、充実した毎日を送っていました。

 私を指導するハンセン牧師は飄々としたユーモラスなお爺さんで、いつも鼻歌を歌いながら小さな身体で教会内をチョコチョコと動き回っていました。この辺りは労働者の多い騒々しい地区ですが、ハンセン牧師の楽しい人柄もあって、日曜礼拝は常にほぼ満席、普段から牧師らしからぬ冗談を言っては、私を笑わせてくれたものです。

「ここの信者は厚かましいのが多くて困ったもんだよ。この間なんか礼拝堂でタバコを吸い出すじゃないか。あんまり驚いて懐のスキットル(蒸留酒の水筒)を落としそうになったよ。」

 また堅信礼クラスでは、毎週火曜日の夕方、12~14歳の子供たちが30人ほど集まります。夕食前なので、皆、テーブルに置かれたお茶とビスケットが気になって仕方ありません。

「授業が終わるまで食べてはいけないよ。神は見ておられる。」

子供たちはハンセン牧師の言葉に「はい。」と神妙に答え、恥ずかしそうに席に着くと、牧師はウィンクしてこう言うのです。

「神がこのビスケットを見ているうちに、急いで台所に行きなさい。サンドイッチがあるよ。」

子供たちの弾ける笑顔を見ながら、ハンセン牧師も私も顔を見合わせて笑うのでした。 

 この教会は最新の素晴らしいパイプオルガンを持ち、カントーア(教会専属オルガン奏者・合唱指揮者)のドレヴス氏の演奏を聴くためだけに礼拝に参加する人もありました。ドレヴス氏は寡黙な男性ですが、鍵盤に触れた瞬間、生まれ変わったように情熱的になります。フランツ・リストそっくりの長髪を振り乱しながら魔術師のように鍵盤の上を指が動き回るかと思うと、バレエダンサーのようにつま先で軽々と足鍵盤を操るのです。ブクステフーデ、 バッハ、クープランなどのバロックの名曲を一心不乱に弾きこなすその姿は、男性でありながら、まるでヴァルプルギスの夜に踊り狂う魔女そのものです。大きな教会で目を閉じて聴いていると、低音は地の底から、高音はまさに天上のから舞い降りてくるような神々しさ!そこにいるすべての者が信仰深くなる、人を超越した演奏なのでした。

 私たち牧師は信徒の悩みを聞き、受け止め、共に考え、祈ると言う役目も担っています。その悩みは本人にとっては大ごとなのでしょうが、私にとっては取るに足らないことばかりで、すっかり辟易していました。ある時は年配の女性が泣きながら嫁への不平不満を一時間も話し続け、ハンセン牧師はふんふんと辛抱強く頷いています。

「嫁は器量だけでなくて頭も悪く、家事も育児も何一つ満足にできないのです。息子と孫たちが不憫で不憫で・・・。」

「わかります、わかります。」

「窓ガラスも汚れていて、掃除だっていつしたんだか・・・。」

「わかります、わかります。」

「牧師様、いったい私はどうしたらいいのでしょう。」

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよと神は言われました。お嫁さんのために祈りましょう。」

そして次の悩める隣人がやって来ます。

「牧師様、私はどうしたら恋人ができるでしょうか?このまま一生ひとりものなのでしょうか?」

「牧師様、息子が悪さばかりして・・・。」

「牧師様、夫がどうやら浮気しているようなんです!」

私が6年間学んできた神学も哲学も、ここでは無価値な塵芥であることをすぐに悟りました。私はいったいここで何をしているのだろう?理想と現実の狭間に置かれるのがヴィカールである、とは聞いていたのですが、ここでの虚無感は何とも表現しがたいものでした。

 ハンセン牧師は5年ほど前に夫人を亡くしてからは、一人娘のカーティアと牧師館に二人で暮らしていました。三十代後半のカーティアはとても痩せていて背が高く、黒かグレーの服しか着ない無口な女性でした。教会の事務作業を一手に引き受けているのですが、それ以外の人との交流を遮断したい雰囲気を全身から醸し出していて、必要最低限なことだけをボソボソと話すだけでした。

 ある日、いつものように事務机で仕事をしているカーティアの青白い顔に、真っ赤な唇が浮き出ていているのに気付きました。口紅を塗るなんて、いったい彼女にどんな心境の変化があったのでしょう?

「カーティアさん、今日はお綺麗ですね。よくお似合いですよ。」

私が褒めると、カーティアはうつむいて、フッフッフッと口を押えて嬉しそうに笑い、その日からいつも口紅をつけて事務室に座るようになりました。恋人でもできたのでしょうか?どことなく表情も明るくなったような気がします。一本の口紅で、こうも女性の所作は変わるものなのでしょうか。

 ハンセン牧師は特にナチスの熱烈な支持者というわけでも、反体制派というわけでもなく、政治的関心は希薄なように見受けられました。(私にはそれが時に歯痒く、苛立ちを覚える時もありましたが。)この時代を聖職者としてどう生きるかということが、これほど信仰の試金石になった時代が他にあったでしょうか?

 当時のプロテスタント教会は、ヒトラーに肯定的な牧師がほとんどでした。それは第一次世界大戦後のワイマール共和国において、プロテスタント教会が置かれていた危機的状況に起因します。

 中世末期以降、ドイツでは領邦国家の諸侯が実質的な教会主導権を握り、プロテスタント教会は領主や貴族に庇護され、両者の関係は密接で安定していました。しかし、第一次世界大戦によって事情は変わっていきます。敗戦後に発足されたワイマール共和国は、民主主義と「中立的世界観」といった進歩的な基本理念を持っていました。貴族たち特権階級の地位はそのまま維持されましたが、新憲法は「国家と教会の分離」を明確にし、これによって教会はこれまでの庇護を失いかねない不安定な状況にありました。この『民主主義を掲げる新政府』と『権威主義的志向を持つプロテスタント教会』の関係が相容れないものであったことは、想像に難くないでしょう。

 そこに現れたのが、「救世主・ヒトラー」だったのです。当時、国民全体でプロテスタント信者は63%、カトリック信者は33%でしたから、キリスト教会を敵に回すわけにはいかないことを、ヒトラーは十分承知していました。ラジオでは頻繁に「ナチスのイデオロギーの根底に流れる思想はキリスト教であり、教会は庇護されなければならない。」と演説し、プロテスタント総裁監督をちょくちょく訪問しては二人の満面の笑みを映画ニュースに使うことで信者を安心させました。

 

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上:「ドイツに忠誠を!」ナチスの選挙用ポスター。救世主キリストのポーズをとるヒトラーと聖霊の象徴である鳩の代わりにナチス鷲章が描かれている。ナチスはキリスト教会との協調性の喧伝を試みたが、キリスト教徒にとってはただのメシアのパロディであり、失笑を買った。 

 

 プロテスタントの牧師の中でも、特にナチスのイデオロギーに賛同する牧師たちによってDC(Deutschen Christenの略。「ドイツキリスト者」)が誕生しました。政府とDC共通の目標は、すべての連邦教会を統一・画一化して帝国教会を作り、そのトップに帝国監督を据え、アーリア条項を教会に導入することでした。こうして熱烈なヒトラー信奉者であるルートヴィッヒ・ミュラーが帝国監督に選ばれ、すべてのユダヤ人聖職者はを教会から追放されました。たとえキリスト教に改宗していても、血族的にユダヤ人であれば迫害の対象となったのです。

 

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 上:DC(Detsche Christen)の旗と牧師たち。

 

 最初からヒトラーに好意的だったプロテスタント教会とは異なり、カトリック教会はヒトラーが首相になる以前からナチス党に批判的でした。それはナチス党と対立関係にあったドイツ中央党がカトリック系政党であったこと、そしてヒトラーの主義主張、特に宗教観、学校教育、人種差別は「キリスト教の精神とは対極にあるもの」であったからです。司教たちはナチス政党を非難し、カトリック教徒がナチス党に登録することを禁止しました。

 しかし、ナチスが政権を掌握した1933年になって状況が変わってきます。まずヒトラーは副首相にドイツ中央党のフランツ・フォン・パーペンを任命し、「教会の尊厳を守り、権限に立ち入るべきではない」という慈悲深い言葉で手のひらを返すように軟化したことによって、カトリック司教たちは譲歩し始めたのです。司教は「政府が宗教への不可侵性を公然と厳粛に公言したことは評価されるべきである。」と、これまでの警告を取り下げ、信徒のナチス党入党を許可したのです。結局、カトリック教会は新政権への期待に湧く国民感情も無視できなくなり、「共産主義への抵抗」というナチス政府との共通目的を見出すことで折り合いをつけたのです。

 こうして1933年7月、バチカンとドイツ政府の間に、ライヒスコンコルダート(政教条約)が締結されました。これはカトリック信徒、ミッションスクール、施設、慈善団体の保護を確約したものである一方で、聖職者が政党に参加することを禁止しており、つまりこれは聖職者が所属するドイツ中央党の解散を意味していました。

 

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上:1933年8月、ベルリンで開催されたカトリック青少年大会で、忠誠宣誓をする聖職者たち。「私はドイツ帝国と民族の総統アドルフ・ヒトラーに忠実で従順であり、法を順守し、職務を全うすること誓います。神よ私を守り給え。」この宣誓を拒否する者は逮捕された。政府はダッハウ強制収容所に「神父棟」を設け、1945年までに3000人の反体制派の聖職者を送り込み、そのうち1000人を殺害した。圧政に恐れをなしたほとんどの聖職者は自分の命を守ることに専念し、政府に服従するしかなかった。

 

 ヒトラーはバチカンからのお墨付きをもらったことを早速プロパガンダに利用しましたが、カトリック教会はこの条約が反故にされたことに次第に気付き始めます。聖職者への迫害はますます強まり、カトリック新聞は厳しく検閲され、ミッションスクールや慈善施設は党員に押し入られ、様々な嫌がらせに会いました。 ドイツ司教たちが政府に条約違反であると抗議し、教皇ピウス11世もナチス政府を公的に批判しましたが、後の祭りでした。

 

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上 : 1934年、ヒトラーを歓迎するドイツプロテスタント帝国監督のルートヴィッヒ・ミュラー(中央)とカトリック僧院長のアルバヌス・シャッハライター。宗派は異なるが、共通して熱心なヒトラー信奉者であった。

  

 私はその年に堅信礼を受ける生徒たち全員に、何かプレゼントをしたいと思っていました。ヴィカールとはいえ、最初に担当した思い出深い子供たちです。そうだ、私がその年頃に読んで感銘を受けた本にしよう。レッシングの『賢者ナータン』ならば戯曲で読みやすいし、宗教の寛容は今の時代に最も必要なことではないか。早速ハンセン牧師に相談すると、喜んでくれるどころか、眉間に皺を寄せて顔を曇らせました。

「いや、それはいい案とは思えないな。」

普段、機嫌のいい牧師がイライラしています。

「なぜですか?」

「なぜって君、賢者ナータンはユダヤ人だよ。」

呆然として、咄嗟に言葉が返せません。

「しかし・・・これはドイツ文学の傑作だと思います。」

「いや、どう考えたって駄目だね。演劇では上演禁止になっているし、ギムナジウムでも推薦図書から省かれたらしいからね。面倒は起こさないでほしいんだ。他にも良い本はあるだろう。」

 この話を神学部時代の友人マルクスに話している間、彼はただシニカルに笑いながらビールをあおっています。チューリンゲン州出身の彼は、ギムナジウムの校長をしている父親が最近ナチ党に登録したことで、いきり立っていましたから、酒量は増すばかりです。

「その程度ならいいじゃないか。うちの指導牧師なんか、堅信礼にヒトラーの『我が闘争』を贈ったんだぜ。」

「まさか。」

「本当さ。3年も堅信礼クラスに通ったあげくに14歳の子供たちに与えられるのが、人種差別と病的国粋主義の象徴というわけさ。うちのプファッフェ(牧師の蔑称。「糞坊主」の意。)らしいな。祭壇にはDCの旗まで飾ってるんだよ。」

「なんてことだ。それじゃ教会の存在意義はいったい何なんだ。無いほうがましじゃないか。」

「まあマルティン・ルターだって、ユダヤ人嫌いだったからな。我々ルター派もマルティン君に忠義を尽くしていくってわけかな。」

 マルティン・ルターは16世紀初頭の宗教改革の中心人物であり、プロテスタント教会の源流を作ったことで知られています。免罪符販売で荒稼ぎをする当時のカトリック教会に異議を唱え、「聖書だけがキリスト教の根源である」と、庶民のために聖書をドイツ語に翻訳した神学者・聖職者でした。権力に怯まぬ放胆な行動力、明晰な頭脳、高邁な精神。

 ところが彼は『ユダヤ人と彼らの嘘について』という論文の中で、ユダヤ人は「下劣な偶像崇拝者」であるから、「シナゴーグやイェシーバー(ユダヤ教聖典を学ぶ学校)を、徹底的に焼き払え」、「ユダヤ人が所有する家を打ち壊せ」、「宗教書を取り上げろ」、「ラビの伝道を禁止し、それに従わない者は処刑せよ」、「ユダヤ人を農奴として働かせよ」などと、信じられない事柄を書き残していたのです。このことはその後のプロテスタント教会の歴史においてはすっかり忘れ去られていたのですが、ナチス政府とDCは早速この古い論文を掘り起こして国民の眼前に突きつけ、ぬかりなくホロコーストの正当化に利用したのです。

 

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上:マルティン・ルター (1483 ~1546) は、ドイツの神学者、大学教授、聖職者。ルターの著作の中の反ユダヤ的発言をナチス政府が利用したことについて、現代でも多くの論争がある。16世紀におけるヨーロッパのキリスト教とユダヤ教の関係を慮れば、ナチスのホロコーストと同等と考えるのは公平ではない、ルターは改宗しないユダヤ人に対して業を煮やしており、既述の発言はカトリック教会の伝統的な思潮であった、と主張する学者たちがいる一方で、ルターは当時のカトリック教会よりも、より厳しくユダヤ人を糾弾している、と主張する学者もある。

  

 ハンセン牧師と二次試験の説教について指導を受けている時です。

「シュルツ君、二次試験の主日礼拝だけれども、使徒信条の前に忠誠宣誓をしなくてはいけないよ。」

忠誠宣誓?耳を疑いました。神ではなく、ヒトラーへの忠誠を礼拝堂で誓えと言うのでしょうか?沸々と湧いてくる怒りをを抑えるのに必死でした。

「できません。」

「気持ちはわかるがね、君の第二次試験の審査員は、全員DCの連中だよ。なに、右手を挙げてオウムのように軽く暗唱すればいいだけさ。それほど真剣になることはないさ。」

 同じ時期に二次試験を受けるマルクスに、そのままそれを伝えると、彼は黙り込みました。第二次試験に合格しなければ、大学で得た学位も一次試験合格証もヴィカールも、私たちには意味を持ちません。DCの連中を陰であれほど罵倒していた私たちも、結局は彼らの思う壺にはまっていくのです。欺瞞、暴力、脅迫、誹謗の潮流に流されながら、右手を挙げてファシストに忠誠宣誓してまで牧師になることに、いったい何の意味があるのでしょう?「ドイツ帝国と民族の総統アドルフ・ヒトラーに忠実で従順であることを誓います!ハイルヒトラー!」と叫ぶことに?

 もうひとつ、憂鬱な出来事がありました。ある日の夕方、帰り支度を始めていると、ハンセン牧師が「ちょっといいかな?」と改まった調子で私を椅子に座らせました。

「シュルツ君、試験に合格したら、どこで副牧師をする予定なのかな?」

ああ、そのことか、と納得しました。二次試験に合格したら、二年間副牧師となって再び修業を積み、その後やっと正牧師となれるのです。

「故郷のダンツィヒの教会に行きたいと思っています。私が堅信礼を受けた教会なので、牧師も私をよくご存知なのです。」

「それは残念だな。ここで引き続きやってもらいたかったんだが。私も来年で隠居しなくちゃいけないからね。君に引き継いでもらえたら嬉しいのだがね。」

ハンセン牧師が定年であることは知っていましたが、私を後継者に推薦しようと思っていることは想像もしていませんでしたので、大変驚きました。

「それで君に相談したいのだがね。カーティアのことだ。」

「はあ。」

「君のことをとても気に入っていることは、わかっていると思うがね。」

何のことやらさっぱり理解できず、私は阿呆のようにぽかんとしていました。

「出来れば一緒になりたいと思っているようなんだ。自分のことを綺麗と言ってくれたと喜んでいてね。君もまんざらではないようだと言っているんだよ。」

私は、あっと小さく叫びました。カーティアの真っ赤な唇を思い出したのです。あの時、軽い気持ちで褒めたことをまざまざと思い出し、額から汗が噴き出してくるのがわかりました。

「ハンセン牧師。それが・・・。」

どう説明するべきでしょう?カーティアをその気にさせてしまった私の責任なのでしょうか?フッフッフッと口を押えて笑うカーティアの姿が頭をよぎりました。

「里に婚約者がおりまして、近々結婚する予定でいるのです。」

咄嗟によくそんな嘘がつけるものだ、と自分に感心している冷静な自分がいました。

「カーティアさんはいい方だと思うのですが、誤解をさせてしまったのだとしたら、申し訳なく思います。」

ハンセン牧師は肩を落とすと、悲しそうに私を見つめて言いました。

「そんなことだろうと思っていたよ。そうか、それではダンツィヒに戻るのも当然だね。いや、君みたいな立派な青年に、恋人がいないはずがないとは思っていたんだ。カーティアももうすぐ40になろうと言うのに、人と交流が出来ない、かわいそうな子でね。どうか気にしないでください。」

娘の将来を案ずるハンセン牧師が気の毒で、そして思わせぶりをしてしまったのではないかという罪悪感で、何とも後味の悪い夜でした。

 憂鬱な毎日が続きました。悩み相談で嫁の悪口や夫の愚痴に余念がない信徒たち、『賢者ナータン』より『我が闘争』を重宝がる牧師たち、右手を挙げてヒトラーへの忠誠を誓えと言う指導牧師、赤い唇のかわいそうな牧師の娘。

 うんざりしている私のところに、マルクスが足取りも軽くやってきました。

「ボンヘッファー博士がアメリカから戻ったそうだよ。」

「えっ!てっきりアメリカに亡命したのかと思ったよ。それは嬉しいな。」

「うん。ゲシュタポのブラックリストのトップに載っているらしいのに、逮捕覚悟で帰国したそうだ。」

 私たちはベルリン大学に入ったばかりの頃、神学者ディートリヒ・ボンヘッファー博士の「キリスト論」の講義に出席していました。当時、博士は27歳という若さでしたが、揺るぎない信仰が礎石となった彼の講義は、祈りから始まる礼拝堂にいるかのように荘厳で霊的なものでした。政治的な発言を極端なほど避けていた他の教授たちとは異なり、堂々と反ナチであることを表明する断固とした態度に、私たち神学生は感動し、講義室は常に満席でした。

 1933年にナチスが政権を掌握すると、ボンヘッファー博士、マルティン・ニーメラー牧師を始めとする反ナチの牧師たちは、同年9月に牧師緊急同盟を結成しました。神学的見地から作られたバルメン宣言「我々はキリストのみに従う」を信条とするこの同盟は、真っ向からDCに対抗するものであり、これがいわゆる教会闘争の始まりでした。牧師緊急同盟にはプロテスタント牧師の三分の一が加盟し、やがて告白教会という全国組織に発展していったのです。告白教会は非合法の牧師養成所も創設し、ボンヘッファー博士はそこで指導牧師、所長となりました。

 しかし告白教会の中でも、すべての牧師が志を同じくしていたわけではありません。政府と妥協するべきだと主張する穏健派牧師は、あくまでも教会の自由を侵害されることを恐れていたのであり、人種差別を含めた非人道性に危機感を抱くボンヘッファー博士とは異なっていたのです。

 やがてボンヘッファー博士はベルリン大学から解任され、牧師養成所も強制閉鎖、ニーメラー牧師は逮捕されて強制収容所に送り込まれました。ボンヘッファー博士は著作、指導、礼拝を禁止され、今年(1939年当時)になってアメリカに亡命したと聞いていましたから、マルクスの言葉に驚きました。

「なんでも『困難なこの時期を信者たちと共に生きなければ、戦後ドイツのキリスト教的生活の再建に預かる権利がない。』と言って帰国したそうだよ。」

 ニーメラー牧師が逮捕されて告白教会は事実上解散していましたし、 去年の水晶の夜についても教会側からの公的なメッセージはありませんでした。同志が収容所に繋がれているのに、自分だけ外国に逃げることは、博士の信仰心が許さなかったのでしょう。

 

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上:マルティン・ニーメラー (1892~1984)は、プロテスタント神学者、牧師。ヒトラー首相就任当時はナチスを支持していたが、政府がユダヤ人政策を開始してからは反ナチスに転じ、告白教会を創設してナチス抵抗運動を行った。1937年から終戦まで強制収容所に収容されたが、生還し、戦後は反戦主義者、反核運動家として活躍した。有名な詩『ナチスが共産主義者を連行した時』は、彼が戦後に作ったものである。「ナチスが共産主義者を連行したとき、私は黙っていた。共産主義者ではなかったから。社会民主主義者が投獄されたとき、私は黙っていた。社会民主主義者ではなかったから。労働組合員が捕まったとき、私は黙っていた。組合員ではなかったから。そして私が連行されたとき、反対する者は誰ひとり残っていなかった。」

 

 ボンヘッファー博士がベルリン市内で非公式に執り行う夕礼拝に、マルクスと参加しようということになりました。

 それは素晴らしい礼拝でした。大学時代の講義よりも確固たるものを感じ、怖いほどでした。「キリスト者にとっての総統は神だけ」であり、ヒトラーではないと名指しし、「神の前では人類は皆平等」であるから、何者も迫害されることは許されず、しかも「キリスト自身、ユダヤ人だったことを忘れてはならない」と言い切ったのです。また、「我々はキリスト者からのみ学ぶことができるわけではない」と、ガンジーの非暴力主義を称え、今こそここに我々の目指すものがあると力強く言い放ちました。「剣を取る者は皆、剣によって滅びる」と、マタイ福音書の言葉を繰り返すのでした。

 やがて博士の祈りの声は、朗々と教会と私たち信者の心に響き渡りました。

 

  主よ。

  この悪しき日々は私たちを苦しめ、悩ませます。

  しかしこの苦い杯があなたが差し出されるものであるならば、

  私たちは喜んでそれを受け取りましょう。

  いつの日かあなたの光が、この闇の中で輝くことを知っています。

  あなたの善き力に守られて

  私たちはあなたと共に生き、歩んでいきます。

  アーメン

 

 そこにゲシュタポが、DCメンバーが、SSが座っているかもしれないのです。それにも怯まず言行一致した博士の生きざまは、当時の暗い聖職者の前途を照らす光明そのものだったのです。 

 魂が震えるような感動を覚え、私の心を占めていた失望は消え去り、満ち足りた気持ちで教会をあとにしました。

 

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上: ディートリヒ・ボンヘッファー(1906~1945)は20世紀を代表するドイツのプロテスタント神学者、牧師。ナチス政府に抵抗し、告白教会を創設した。国防軍防諜局の反ナチグループと結託し、表向きには国防軍から派遣されたスパイとしてスウェーデン、ノルウェー、スイスなどに渡り、懇意にしている聖職者を通して連合軍との和平交渉を試みた。1943年、ユダヤ人逃亡に協力したかどで逮捕され、後にヒトラー暗殺計画に加担していたことが発覚、ドイツ降伏の一ヶ月前に処刑された。多くの著述を残し、戦後キリスト教会に大きな影響を与えた。

 

 同じ頃、故郷ダンツィヒの父からの手紙が、町に不穏な空気が漂っていると伝えてきました。

 ダンツィヒはドイツの飛び地でしたが、第一次世界大戦でドイツが敗戦国となってからは国際連盟保護のもと、ドイツから切り離されて自由都市となりました。住民の95%はドイツ人で、その他にはポーランド人、オランダ人、スコットランド人、ユダヤ人、カシューブ人(カシューブ語を話すスラブ系の少数民族)などが住んでいましたが、私が子供の頃は特に大きな諍いも差別もなく、町の雰囲気は平和的でした。 

 1938年にドイツ政府がオーストリアを併合し、その半年後にはチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得すると、ダンツィヒ市民は「次は我々がドイツ帝国に戻る番だ!」と湧き立ちました。ダンツィヒ市は第一次大戦以前はドイツ領の一都市だったわけですから、「ドイツへの返還」と「ドイツ人住民の解放」こそが悲願であるとヒトラーは演説で繰り返しました。町にはナチスの旗がはためき、ヒトラーユーゲントの子供たちがナチス党歌を歌いながら行進しています。

「ドイツ軍兵士がぞくぞくと町にやって来ている。この間はゲッベルス宣伝相がやって来て愛国心を煽る演説をぶち、市民は歓喜の声をあげていた。」

父からの手紙を読み、ヒトラーは今度は何をたくらんでいるのだろう?と胸がざわつきました。

 1939年9月1日早朝、ダンツィヒ港に親善訪問という名目で停泊していたドイツ軍艦が、突然ポーランド防衛軍に向けて砲撃を開始し、ポーランド侵攻、つまり第二次世界大戦が勃発しました。ドイツ政府側は「ポーランド国内でドイツ系住民がポーランド人に虐殺されたため、自衛権を正当に執行」と噓八百の開戦理由を並べたてたのです。

 

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上:1939年9月1日、ダンツィヒ港で砲撃を開始したドイツ軍の戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン。これが第二次世界大戦の開幕だと言われているが、実際にはこの5分前にドイツ空軍がポーランドのヴィルニエ市への奇襲攻撃を行っていた。その際、町の75%が破壊され、1200人の市民が死亡した。

 

「戦争だ!戦争だ!」

道行く人々は暗い顔で号外新聞を奪い合い、カフェでも職場でも皆がラジオを取り囲んで神妙な顔をしています。1914年に第一次世界大戦が勃発した当時は、国を挙げての好戦ムードに沸き、老いも若きもカフェや路上でダンスを踊り、幼い子供たちまでが軍服を着ておもちゃの銃を持って、はしゃいでいたそうですが、今回はそのようなお祭り騒ぎはどこにも見られません。敗戦から20年を経ても、悲しい記憶がまざまざと蘇るのでした。

「また戦争だなんて!もうごめんだわ!」

「なんて卑怯で野蛮な奴らだ!ポラッケ(ポーランド人の蔑称)め!」

正当防衛ならば仕方がない、徹底的に痛めつけてやれ!数週間でこの戦争は終わるだろう、というのが当時の大方の国民の見解だったのです。 

 その晩、私はヨハネスと居酒屋「酔っ払い熊」で飲んでいました。彼は司法試験に合格した後、ベルリン市内の弁護士事務所で見習いを始めていましたが、当時も学生時代のようにちょくちょく会っては、こうしてビールを飲んでいました。ヨハネスがタバコをふかしながらブツブツ言っています。

「胡散臭い戦争だな。まあ戦争なんて胡散臭いものなんだが、この胡散臭さは跳び抜けてるよな。」

「どうして?」

「ソ連との不可侵条約を締結してすぐにポーランドでドイツ系住民が虐殺されたって胡散臭いと思わないか?政府お得意の自作自演なんじゃないか?あまりにタイミングが良すぎるよ。独ソの間で、きっと何か密約があったに違いない。」

今思い出しても、ヨハネスの冷静で鋭い精察力には感嘆します。開戦9日前にドイツ政府はソ連との間に不可侵条約を締結していましたが、同時に秘密議定書(裏取引)が存在していたことは、当時、国民には知らされていなかったのです。それは、独ソによるポーランドの分割、バルト三国とルーマニアの一部をソ連勢力圏に併合とする、といった恐るべき内容でした。ドイツ軍がポーランド侵攻を開始した約二週間後、ソ連も密約通り、東側からの侵攻を始めたのでした。

「僕たちもそのうちに召集されるかもしれないな。」

ヨハネスの言葉に私は暗い気分になりました。

「いや、ポーランド軍は弱小だし、イギリスもフランスも援軍を送るつもりはなさそうだし、僕たちの出番はきっとないよ。」

「ふむ。ワルシャワはもうすぐ降伏するだろうけど、果たしてこれで終わるのかな?」

自分が武器を持って前線に行くなど、想像もできません。深刻な顔をしている私を見て、ヨハネスは明るく言いました。

「まあ君はとにかくヴィカールをやり遂げて、二次試験に合格してくれ。結婚式は君に挙げてもらいたいからな。」

ヨハネスは恋人が出来るたびにそう言うのですが、いったいこれで何度目でしょう?私は笑って聞き流しました。

 女給のウルリケが大きなビールジョッキをテーブルに置くと、満面の笑みでヨハネスの横に座りました。

「やあウルリケ、今夜も綺麗だね。」

「うふふ。ありがとう、ヨハネス。ねえ、聞いて。私の兄が兵隊に志願して、ポーランドにいるの。ドイツ軍は素晴らしい快進撃を続けてて、ポラッケの弱小軍は壊滅状態ですってよ。もうすぐソ連と分割占領することになるわ。すごいわねえ、総統は。最初は戦争なんて嫌だと思ったけど、ドイツが発展していくのは素晴らしいことだわ。ポラッケだってその方が幸せよ。きっと総統に感謝するわ。」

 開戦して一ヶ月も経たないうちにポーランドは降伏し、ドイツとソ連とでポーランド分割の境界線を定めた「独ソ境界友好条約」が締結されました。その「友好」の陰では、たった一ヶ月足らずの間にポーランドの531の町や村が焼き尽くされ、15万人の民間人が殺害されていたのです。

 

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上:1939年、ドイツ空軍によるワルシャワ爆撃の犠牲者たち。

 

 翌年、私はヴィカールを終え、神学二次試験に合格しました。あれほど憂鬱だった忠誠宣誓は強制されることなく取り越し苦労に終わり、ほっと安心したものです。

 ベルリンを去るにあたって、この8年間が私の人生にとってなんと意義深い日々であったのかと感慨深いものがありました。

 ハンセン牧師に礼を言うと、私に固い握手をしてヴィカールの労をねぎらいました。

「君は立派な牧師なれると確信しているよ。神の御加護がありますように。」

 カーティアがここのところ私を避けているのがあからさまで気が重いのですが、それでも別れの挨拶をしないわけにはいきません。私は事務室の机に這いつくばって小さな数字を出納帳に書き込んでいるカーティアの横に立ちました。

「カーティアさん、お世話になりました。私はこれでお暇しますが、どうぞお元気で。」

カーティアは眠そうな顔で私をちらりと見上げると、「さようなら。」と消え入るような声でつぶやき、また出納帳に目を落としました。唇はカサカサに乾いていて、赤くも微笑んでもいませんでした。

 その晩、私はヨハネスとふたりで居酒屋の中庭のベンチに座っていました。6月の黄昏時はどこからともなくバラの芳香が流れてきて、祝杯を挙げている私たちを包みます。しかしカーティアの一件で私の気は重いのに、ヨハネスは涙を流して笑うのです。

「きれいだ、なんて言うからだよ。期待させた君が悪い。」

「君だってしょっちゅう言ってるじゃないか。」

「僕は相手を選ぶからね。」

「よくわからないな。女心は難しいな。哲学書より難解だ。」

「うん。でも哲学書よりずっと美しいんだ。この喜びをショーペンハウアー(女嫌いで有名だった)に教えてあげたいものだ。」

ふとエディットを思い出し、胸の奥が痛みました。ドイツ軍はノルウェー、デンマークフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻し、その頃、エディットの移住先フランスはドイツに降伏したばかりでした。ニュース映画ではドイツ兵が凱旋門の前を行進している光景を映していました。占領国のユダヤ人も迫害されることは間違いなく、エディット一家がすでにイギリスかアメリカに移住していることを願うばかりでした。

 憂鬱な顔をした私の目の前に、ヨハネスが突然リボンのかけられた小さな箱を差し出しました。

「合格おめでとう!」

リボンをほどくと、モンブランの万年筆マイスターシュテュックが光り輝いているではありませんか。

「ありがとう!こんな高級品、いいのかい?」

「もちろんさ!ダンツィヒの婚約者との結婚式はこれで署名してくれ。」

ヨハネスは笑い、私も吹き出しました。

 翌日、ヨハネスも私も召集令状を受け取ることになろうとは、この時は予想だにしていなかったのです。

 

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上:1940年、フランスに侵攻したドイツ軍。 

 

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上:ポーランド侵攻後、ヒトラーを歓迎するダンツィヒ市民。ヒトラーはオープンカーに立っている。

 

 ほとんどの同級生たちが徴兵されており、召集は想定の範囲内ではありましたが、それでも副牧師として働けることを楽しみにしていた私にはかなりの打撃でした。兵役訓練が始まるまでの夏の休暇を、ダンツィヒの両親のもとで過ごすことにしました。

 ダンツィヒの町は鉤十字の旗が飾られて、愛国的な盛り上がりが見られる一方で、至る所に開戦時の爪痕が見られ、胸が痛みました。特に激しい攻防戦が繰り広げられたポーランド郵便局の廃墟は生々しく、ドイツ軍に抵抗した子供を含むポーランド人犠牲者を悼みました。

 副牧師としてお世話になるはずだった教会のヘンツェ牧師を訪ねると、私に召集令状が来たことにいたく同情し、

「この戦争は長くないよ。訓練が終わるころには終戦だ。それに君は従軍牧師で銃は持たないのだからね。」

と慰めるのでした。

 束の間の安らぎの夏の日々を、私はバルト海沿岸の砂浜の上で過ごしました。青い海をただ眺める日もあれば、朝から夕方までひたすら読書にいそしむ日もありました。その他の日は懐かしい同級生、恩師、親類を訪ねたり訪ねられたり。私の両親は久しぶりの私の長逗留に嬉しそうです。

「最初は神学と聞いてあきれたものだったが、いやはや正しい判断だった。」

法律家の父は、私を法学部に進めたかったのです。

「父さん、兵役逃れのために牧師になったわけではないよ。武器は持たずとも、戦場には行くんだから。」

「それはわかっているが、万が一前線に行くようなことになったら、たまったものじゃないからな。従軍牧師で本当に良かった。」

進路で父を失望させたことに多少の後ろめたさがありましたから、その言葉に心が温まりました。

 母は毎日、嬉しそうに私の好物ばかり作ってくれます。カレイのムニエル、ヨーグルトで和えたジャガイモとニシンの酢漬け、魚介たっぷりのスープ、肉団子のレモンソース、りんごパイ・・・。

「軍隊じゃろくなもの食べられないからね。たっぷり食べて行きなさい。まあ訓練中に終戦になってしまうらしいけれど。」

「母さん、こんなに毎日食べたら、太って軍事演習が出来なくなるよ。」

優しい両親、美味しい郷土料理、懐かしい人たち。そしてひとつの運命の出会い、いえ、再会がありました。

 ある日曜日の礼拝後、ヘンツェ牧師と立ち話をして帰宅しようとすると、私を呼び止める女性の声がします。振り向くと、ほっそりとした若い女性がこちらを向いて微笑んでいます。明るい金髪に薄青い眼、透き通るような肌。フィリッポ・リッピの描いた聖母マリアにそっくりで、私はその美しさに息を呑みました。

「マックス、私を覚えてる?堅信礼クラスで一緒だったエリカよ。」

エリカ?眼前の美女から、おさげ髪の14歳の少女を思い出すのに、数秒を要しました。すっかり綺麗になって!と言おうとしてカーティアの一件を思い出し、

「すっかり・・・大人になって!」

とバカなことを言ってしまいました。しまった!真っ赤になっている惨めな私に、エリカは、

「あなたも。すっかり大人になって。」

と微笑みました。

 私たちが子供の頃のギムナジウムは男子校と女子校に分かれており、男女が一緒に授業を受けるのは堅信礼クラスくらいのものでしたから、この宗教的な時間はややもすれば甘酸っぱい心躍るものになりがちだったのです。当時の私たちは照れてしまって、あまり会話をした記憶がないのですが、それでも二年間も毎週顔を合わせていれば特別な仲間意識も強くなり、皆で泳ぎに行ったり、ボートに乗ったりしたものでした。

 堅信礼が終わってからはエリカと会うことはすっかりなくなり、10年の年月はお互いをすっかり「大人」に変えてしまっていました。そしてこの再会は、私のそれまでの堅苦しく窮屈な人生を、全く異なる質のものに変えてしまったのです。

 エリカは師範学校を出た後、女子ギムナジウムのラテン語とフランス語の教師になっていました。信仰深く、ナチス嫌いであることでも意気投合しました。

「私の教えているギムナジウムにもユダヤ人生徒たちがいたんだけど、水晶の夜以降、皆イギリスに移住したらしいわ。突然だったから別れの挨拶もできず、本当に悲しかったわ。生徒がいなくなったことも悲しいけれど、カシューブ人とポーランド人も迫害されて、それはかわいそうよ。窓ガラスが割られて、道を歩いていると石を投げつけられるのよ。」

眼を潤ませながら、エリカはそんな話をしてくれるのでした。学校も夏休みでしたので、次の日も、また次の日も、私たちは会い続けました。何時間もゆっくりと並んで歩き、ありとあらゆることを話すのです。お互いの生い立ち、学校、仕事、家族、趣味、文学、音楽、美術。エリカはリルケとモーツァルトへの愛を、私はシラーとベートーヴェンへの愛を語りながら、何時間もゆっくりと歩き続けました。運河沿いの細い散歩道を、ルネッサンス様式の家が並ぶ色鮮やかな旧市街を、湿ったブナの森の中を。ある時は広場のネプチューン噴水の横のベンチに座り、またある時は三位一体教会のバロック様式の素晴らしい祭壇の前で祈り、そしてまたひたすら歩き続けるのです。時には何も話さず、黙ったままで。ああ、何と世界は美しく輝いていることでしょう!今なら私もショーペンハウアーにそれを教えてあげられそうです。

 やがて軍事訓練の行われるベルリンの演習場に行く日が近付いてきました。

「きっと訓練中に戦争は終わるわ。待っているわ。」

 バルト海の潮の香りに包まれて、私たちは白い砂浜の上でキスをしました。足元ではピンクのアルメリアの小さな花が、潮風に震えていました。戦争さえなければ、私たちはこの至福の時間の中に、ずっといられたはずだったのです。

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上:当時のダンツィヒの町。

 

 ベルリン郊外の演習場で、軍事訓練が始まりました。とはいえ、従軍牧師は他の兵士のように、泥や沼の中を銃を持って匍匐前進するような訓練をするわけではありません。衛生兵としての傷病兵の応急手当、担架移送などの基本訓練、ガス感知器と距離測定器の使用法などの実地訓練の他に、従軍牧師としての任務を勉強しました。

 距離測定器を使っての訓練では、部隊と共に沼や泥の中を重い測定器を担いで走り、攻撃目標を定めると、立ち位置からの距離を測定し、「攻撃目標、2,38km!」などと叫ぶのです。走り回ることよりも、その後の泥にまみれた測定器の手入れが面倒でうんざりしました。

 従軍牧師講座では、典型的DCの老牧師が金属的な声でがなり立てます。

「ロシア人は神を持たぬ共産主義の野蛮人である!」

「ドイツ民族の誇りを守る戦死こそが神の御国においての最高の栄誉である!」

「祖国のために死をも厭わぬ覚悟こそ、神は望んでおられる!」

これらのナチスの英雄イデオロギーも、三日も経てば馬耳東風、私はメモを取っている振りをしながらエリカへの手紙を書いていました。潮風の香り。白い砂浜に揺れるアルメリアの花。

「クリスマスには終戦だと皆が言っています。どうかそれまでご無事で!」

 エリカからの手紙を何度読み返したことでしょう。ああクリスマス!焼きアーモンドの香り、甘いシュトレン、アドヴェンツクランツの蝋燭がひとつ、ふたつと灯されて、エリカのピアノ伴奏でクリスマス讃美歌を歌う聖夜。エリカの手紙には終戦後の私たちのクリスマスの風景が描かれており、心癒されるのでした。

 私の軍事訓練は他の兵士たちに比べれば「楽できれいな仕事」であり、訓練を終えた時点で大尉に、一年後には少佐に自動的に昇格する特権を持っていました。これは軍医と同等の扱いで、中には将校になる聖職者もありました。実はこれには理由があり、従軍牧師は前線の兵士にモラル(あくまでナチス的な)を説く必要があり、そのためには権威ある階級がなければ説得力がない、というわけです。キリスト教会を卑下するヒトラーは、従軍牧師・神父は戦争に意味を持たないと言って撤廃するつもりでしたが、側近たちの「信仰は兵士の闘志向上の最良の武器である」という意見に説得され、1師団に2人から4人までの聖職者が派遣されたのです。

 春になるとドイツ軍はバルカン半島に侵攻し、ユーゴスラヴィアとギリシャを制圧したとのニュースが入りました。もともとルーマニアとブルガリアは日独伊三国同盟に加盟させれていたので、これでバルカン全域を手中に収めたことになります。国民はドイツ軍を大歓迎するアテネ市民をプロパガンダニュース映画で観て、拍手喝采するのでした。

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上:1941年4月、ギリシャを制圧し、アテネで記念写真を撮るドイツ兵たち。

 

 訓練も終わりに近付いた頃、フランスで駐留しているヨハネスから美しいサン・マロの町の絵葉書が届きました。前年からの英空軍との航空戦以来、彼の部隊はフランス北部の海岸線を最新式の高射砲で防御しているのですが、ここのところは平和で、毎日「休暇」を楽しんでいると書いています。花々が咲き乱れる丘陵の美しさ、ブルターニュ料理とワインの素晴らしさを綴った最後に、「これからロシアに移動する。」とだけありました。検閲を恐れてか、詳細は書かれていませんでしたが、これからソ連侵攻が行われることは明白でした。ナチス政府は独ソ不可侵条約を反故にするつもりなのでしょう。

 1941年6月、訓練を終えた私の部隊は、ソ連に送られることになりました。ソ連侵略作戦バルバロッサの発動です。この歴史的全面戦争に、ヨハネスもマルクスも私も同級生たちも一人残らず駆り出されたのです。これが常軌を逸した戦争となることは上層部の誰もが予想しており、その残虐性に耐え得るよう兵士たちの精神的ケアを施すことこそが私の従軍牧師としての任務だったのです。

 出征前の最後の日、そんなことは露とも知らない私は、親しくなった同部隊の兵士たちと真新しい軍服に身を包み、ベルリンの町に繰り出しました。従軍牧師の軍服は基本的には他の兵士と同じですが、肩章を付けず、その代わりに紫地に銀糸で刺繍した襟章を付け、紫と銀の組み紐を付けた帽子を被るのです。写真館で写真を撮り、一枚は両親に、もう一枚はエリカに送りました。私の軍服の内ポケットには、先週送られてきた美しいエリカの顔写真が忍ばせてありました。

 そうして私たちは出征しました。目的地はソ連のスモレンスク、そこを制圧すればモスクワまでは500㎞です。私たち歩兵部隊は列車でポーランドを横断したのち、ソ連領内をトラックで東へと移動します。やがて装甲部隊と合流し、スモレンスクで待ち構えているソ連防衛軍を包囲する作戦なのです。

 素晴らしい青空が広がり、豊饒な麦畑が果てしなく続きます。このロシアの静謐な平原の風景を、私たちはトラックの上から楽しんでいました。まさしくベートーヴェンの『田園』のようなのどかさです。

「いいところだな。」

「うん。ここもそのうちドイツになるんだな。」

本当にここで戦闘があったのでしょうか?ドイツ装甲軍は快進撃を続け、東へ東へとソ連軍を追いやっています。私たちは呑気に冗談を言ったり、うたた寝をしたり、鼻歌を歌ったりしながら、東へ進んでいるうちに、打ち捨てられた戦車を目にするようになりました。ほとんどがソ連軍の新型T-34ですが、ところどころで黒焦げのドイツ軍IV号戦車もあります。その数がどんどん増えていき、私たちは寡黙になって行きました。

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上:ソ連に侵攻するドイツ装甲部隊のIV号型戦車。

 

 やがてスモレンスクの野戦病院に到着し、私はそこで下車、他の部隊は近くの村の民家を兵舎に使い、戦闘準備態勢に入ります。

 ここは野戦病院と言っても、もともとが病院だったらしく、エントランスホールからびっしりと簡易ベッドが置かれ、すでに傷病兵で半分ほどのベッドが埋まっていました。私はここでしばらくは従軍牧師としての任務に就くことになりました。

 

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上:独ソ戦におけるドイツ軍野戦病院。 

 

 私の仕事は礼拝、聖餐式、葬式はもちろん、戦死者の遺族へのお悔み状の送付、傷病兵も含めた兵士たちの心理教育(カウンセリング)などです。毎日、日誌をつけ、三ヶ月に一度は監督官に提出しなければならなかったのは、どの兵士が何を相談したか、といった密告も期待していたのでしょう。

 ここには私以外にもう一人、5歳ほど年上のフックス神父が常駐しており、同業者ということでたちまち気心の通じる間柄になりました。無口で優しい性格ですが、聖職者としての厳しさも併せ持ち、その誠実さが私は好きでした。多くのカトリック教徒の兵士たちが「ゆるしの秘跡」を求めて、ひっきりなしに告解室にやってきたものです。当然のことながら、フックス神父は個人的な懺悔については守秘義務を守ったのですが、

「かわいそうに、かわいそうに。」

と言っては深刻な顔で考え込むことが増えて行きました。

 私たちは主日礼拝の他にも戦闘前には必ず礼拝をおこない、驚くほど多くの兵士が参列しました。中には3時間もかけて歩いてくる兵士もいたのです。

 

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上:独ソ戦での戦闘前の礼拝。

 

 私が来た最初の頃の病院は空いているベッドも多かったのですが、スモレンスクの戦闘が激しくなるうちに、ベッドはいっぱいになりました。病院の中は血と汗と排泄物と消毒薬の匂いが充満しています。痛みに泣きわめく兵士たちを落ち着かせようと、ラジオから大音量で「リリー・マルレーン」が流れてきます。

 

 兵舎の大きな門の前に

 ひとつの街灯があったんだ

 今もまだそこにあるのなら

 僕たちはそこで会うんだ

 昔みたいに リリー・マルレーン

 僕たちの影がひとつになって

 誰が見たって愛し合ってるってわかっただろう

 またあの街灯の下で

 昔みたいに リリー・マルレーン

 

私はベッドの間を歩いて話を聞き、手紙を口述筆記し、兵士の手を取って共に祈ります。近くで看護婦が顔を撃たれた兵士に言うのが聞こえてきます。

「この程度の傷なら大丈夫、来週には退院出来て前線に戻れますよ。」

そうしてまた地獄の中へと送り込まれるのです。手榴弾で手を吹き飛ばされた者、機関銃で腹を撃たれた者、地雷を踏んで足を無くした者、パルチザンに背中から撃たれた者。助かる見込みのない兵士はベッドに寝かされることもなく、廊下に放置されたままでした。

軍医はカルテに書き込む看護婦に容赦なく叫びます。

「見込みなし!次!」

そして看護婦が私を呼びます。

「シュルツ牧師、出番ですよ!」

私は死の間際にいる兵士の枕もとで「臨終の祈り」を行い、看護婦に亡くなった時間を伝え、遺族にお悔みの手紙を書きます。

「ご子息ペーター・ガウルは、1941年7月20日、スモレンスクにて戦死されましたことを、悲しみをもってご報告申し上げます。ご子息は苦しむことなく天の父なる神の御国に迎えられ、魂はいま永遠の平安の中にあります。神の愛がご遺族の悲しみを慰め、強めてくださいますように。アーメン」

 フックス神父の話によると、故人の両親が必ず聞いてくるのは、「息子は苦しんだか?」と「最後に言い残したことは?」の二つだと言うのです。ですから私は必ず「苦しむことなく」と書くことにしたのです。(たとえ苦しみ悶えながら死んでいったとしても。)

 肺を撃たれた兵士マインツの状態が日毎に悪化していきました。まだ二十歳の学生です。マインツが私を呼んでいると看護婦が言うので、彼の枕元に行って、手を握りました。

「マインツ、どうしたんだい?」

「牧師様、両親に手紙を書いてほしいんです。」

私は頷き、椅子を持ってきて座り、紙とペンを出しました。ヨハネスからもらったマイスターシュテュックは、結婚誓約書に署名することなく、こうして遺書や死亡通知を何十通も書くのに使われていました。

「愛する母さん、父さん。」

マインツの声は小さく、細く、病院の喧騒にかき消されないよう、私は耳を彼の口元に近付けて、口述筆記を始めました。

「あなたたちは私の戦死通知を受け取り、今、泣いているでしょう。今の私よりもずっと辛いだろうと思います。でも絶望はしないでください。私は確固たる信仰の中に死ぬことを喜んでいます。どうかあなたがたが神の愛によって希望と力を得られますように。母さん、どうか苦しまないで。それだけが心配です。あなたの息子で幸せでした。ありがとう。愛しています。」

すべてを書き終え、

「サインができるかい?」

と尋ねると、私からペンを取り、震える手でWilhelmとサインしました。私は彼の手を握り、共に使徒信条を唱え、祈り、祝福を施すと、マインツは、

「ありがとうございます。」

と微笑みました。それは神々しいほど美しく、満ち足りた表情でした。マインツはこの後、昏睡状態になり、翌日亡くなりました。

 こうして私は毎日、兵士を看取り、遺書とお悔やみの手紙を書き続けました。息を引き取った兵士の開いたままの瞼を閉じると、「主よ、彼の魂が御許で永遠の平和と安らぎの中にありますように。」と祈ります。私と同世代か、もっと若い兵士たちが、ポトポト落ちる雨だれのように死んでいくのです。かわいそうに、かわいそうに。埋葬式を毎日執り行い、病院裏にある空き地は、白樺の白い枝を組み合わせて拵えた十字架でいっぱいになりました。

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東部戦線で重傷を負った兵士の手紙を代筆する従軍牧師。従軍牧師・神父は、多くの兵士の精神的な支えとなっていた。スターリングラード攻防戦を体験したの兵士は、「従軍牧師・神父は、のたうち回って苦しんでいる瀕死の兵士たちが、天上の平安の中で息を引き取れるよう全力を注ぎ、成功していた。」と回想している。

 

 やがて私のところに、神妙な顔をした兵士たちが次々とやってきました。

「牧師様、今日、私はパルチザン8名を射殺しました。その中に若い女も13歳くらいの少年もいたのです。少年が撃たれる前にロシア語で命乞いをして、最後にドイツ語で『ビッテ!ビッテ!(お願い!お願い!)』と手を合わせて泣いたんです。」

自分とさほど年の変わらぬ若い兵士が、私の目の前でそう告白して泣いているのです。

「その少年のために、若い女性のために、祖国のために闘った人々のために、祈りましょう。彼らは天国で神に迎えられ、平安の中にいます。」

兵士は私と祈りを捧げ、涙をぬぐい、しばらくの間、話をしていると少し落ち着いた様子で部屋から出て行きました。かわいそうに、かわいそうに。この悲しい思い出は、兵士に一生つきまとうことでしょう。命乞いをする少年。ビッテ!ビッテ!

 ある時は、村を焼き討ちしたと言う兵士たちが次々とやってきました。

「牧師様、ロシア人は神を持たない野蛮人だと教えられて来たのに、どの家の壁にもイコン(聖画像)があるのです。」

「家が燃えている間、中から子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえました。」

「ガソリンを家の周りに撒いている間、窓からお婆さんが悲しそうに私たちを見ていました。」

 またある時は、村のユダヤ人を皆殺しにせよと命令を受けた兵士がやってきました。

「牧師様、村のユダヤ人たち全員、壁際に並ばせて撃ったんです。全部で23人、ユダヤ人は全員、パルチザン扱いで射殺しなくてはいけないと少佐に命令されました。まだ小さな子供もたくさんいて、震えながら泣いていました。赤ん坊を母親がかばって抱き締めて背中を向けるんです。私は号令と共に、機関銃で皆殺しにしました。神様は私を許してくださるのでしょうか?」

私たちは犠牲者のために祈り、神はすべてを許すと話し、兵士たちは涙を拭き、再び兵舎に戻って眠り、翌日にはまた誰かを射殺するのです。

 戦争が終わったら、彼らは恋をして、結婚をして、子供を育てていくことができるのでしょうか?小さな息子を見て、息子を抱き締める妻を見て、どうやってあの時のことを思い出さずにいられるのでしょう? 

 私は上官に兵士たちの苦悩を伝えたことがありますが、返って来た言葉はこうでした。

「なに、心配するな。そんなくだらないことを言っているのは最初だけで、そのうちに慣れて何も感じなくなるものだ。君は何とかして彼らの士気高揚に努めてくれたまえ。いいかね?これは戦争なんだ。」

 神の言葉が私の唇から消えていきます。「汝、殺すなかれ。」

 兵士たちの悲しみの深さを知るほどに、彼らの苦悩は私にも伝染し、何も手につかない、何も考えられない鬱々とした時間が増えていきました。そんな時は一人になって森や平原に飛び出し、大地の息吹と木々の匂いで胸をいっぱいにしたいのですが、単独行動も外出も禁止されていたのです。どこにパルチザンが隠れているかも知れないからです。

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上:ドイツ軍によって焼き討ちに会うスモレンスク近郊の村。

 

 数日で終わると見込んでいたスモレンスク戦は苦戦し、二カ月後にようやく終結、私たちは傷病兵をトラックに乗せると、次の目的地へ再び移動しました。私たち中央軍集団は、もともとモスクワに向かって進軍するはずだったのですが、苦戦している南方軍集団に加勢するよう命令を受け、ウクライナへと南下したのです。天然資源豊富なウクライナ占領はヒトラーの悲願でした。

 ある晩、病院の中庭でコーヒーを飲んでいると、青い顔をしたフックス神父が隣に座りました。 

「シュルツ牧師、キエフで大量殺戮があったそうだ。アインザッツグルッペ(SSの特別行動隊)がキエフのユダヤ人を集めて、峡谷まで歩かせて、そこで裸にして射殺したそうだ。何ということだ!」

 

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上:1941年9月29日から30日にかけて、アインザッツグルッペにより、3万3771人のユダヤ人がキエフ近郊の峡谷バビ・ヤールに連行され、殺害された。

 

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上:ユダヤ人の残した衣類の中から貴重品を探す隊員たち。

 

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上:アインザッツグルッペ隊員から子供を守ろうとするユダヤ人女性。

  

 ドイツ軍が進撃によって広げていく占領地に、後からアインザッツグルッペがやって来て、組織的なユダヤ人殺戮を行っていました。こういった機密情報は、瞬く間に兵士たちの耳に入りました。(戦後のニュルンベルク裁判で、ナチス高官たちが「ユダヤ人殺戮を認知していなかった」などと供述していたのは笑止千万、私たちのような下っ端でさえ、知っていたのです。)

 アインザッツグルッペの中には、殺人行為が精神的に耐えられないと精神に異常を来す者や、聖職者のところに懺悔や相談にやって来る者も少なくなかったのです。政府は隊員の精神的負担、時間的浪費などを考慮して、より合理的でシステマティックな殺害方法を編み出していきました。これが絶滅収容所の建設です。毒ガスの効果はT4政策(優生学思想に基づいた安楽死政策)で、すでに実証済みでした。

 

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上:1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人最終的解決」が決議され、ヨーロッパ占領国のユダヤ人はポーランドの6カ所の絶滅収容所に移送され、殺害された。写真はその中でも最も大きな犠牲者を出したアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。 ホロコーストによるユダヤ人犠牲者は510万人と言われており、これは全世界のユダヤ人すべての3分の1、ヨーロッパユダヤ人の3分の2にあたり、特にポーランドでは90%のユダヤ人が殺害された。

 

 秋が深まってきたある日のことです。第Ⅲ師団から私に「一泊宿泊の準備をして来るように。」との通達がありました。第Ⅲ師団は軍法会議所と刑務所がある法務部署です。フックス神父はすぐに理解しました。

「第Ⅲか。脱走兵だな。明日の早朝、銃殺刑だろう。」

処刑される兵士に付き添い、聖餐式を行い、祝福を授けるのも私たち従軍牧師の重要な任務なのですが、私はまだ未経験でした。第Ⅲ師団にも専属の従軍牧師・神父がいるのですが、異動があったり忙しかったりで、フックス神父はすでに何度も出向いて経験していました。

「とても辛い仕事だが、これも我々の大切な任務だ。」

フックス神父はそう言って私の肩に手を置きました。

 夕方、第Ⅲ師団から送られてきた車に乗り、私は現地に向かいました。ゆっくり沈んでいく深紅の太陽と、収穫前の広大な麦畑の美しさに息を呑みました。麦の穂は重い頭を垂らし、沈んでいく太陽の赤に染まっています。

「この道の地雷は撤去しましたが、麦畑にパルチザンが隠れていることもありますからね。注意が必要です。」

運転をしている上等兵はそう言って私を脅かしましたが、30分ほどして無事に第Ⅲ師団に到着し、法務士官が私の任務について説明をしました。

「敵前逃亡を犯したユストス・ヴァルトハイムは、深刻なる軍規違反により、軍法会議で死刑判決を受け、恩赦は棄却されました。明日の6時に銃殺刑が執行されます。シュルツ牧師、執行の一時間前にヴァルトハイムの聖餐式をお願いします。」

士官は何の感情も見せず、抑揚のない話し方で事務的に伝えました。軍規により脱走兵は銃殺刑に処されるのですが、それが本人に知らされるのは執行一時間前なのです。

「ヴァルトハイムにもっと早く会えませんか?」

「軍規は破れません。ここに彼についての資料がありますので、事前に読んでおいてください。」

渡された分厚い資料は、ユストス・ヴァルトハイムの生い立ちと軍事裁判の記録です。とても眠ることなど出来ず、朝までそれを読み漁りました。

 ユストス・ヴァルトハイムは19歳、ポンメルン州の小さな村の出身で、大工の修業中に徴兵され、この前線に送られました。激戦中に腹痛を訴えて壕で休んでいたところを脱走し、麦畑に潜んで隠れていたのを発見されたのです。

 

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上:発見された脱走兵。1945年までのドイツ軍脱走兵は35万から40万人(全体の2%)にものぼり、このうち逮捕されたのが3万人、死刑判決を受けたのは2万3000人であった。戦争後半になると、恩赦により死刑判決は免除され、より危険な地域に送られた。

 

 翌朝、私は身支度を整えると、同じ敷地にある刑務所に向かいました。底冷えのするレンガ造りの刑務所には3人の衛兵がいて、私を見るとすぐに理解し、鉄格子を開けてヴァルトハイムのところまで案内しました。

 ヴァルトハイムはまだ毛布を頭まで被って寝ていました。無理もありません。まだ朝の5時、そして自分の運命も知らされていないのです。衛兵は彼を乱暴に揺すると、

「おい、ヴァルトハイム!起きろ!」

とどなりました。毛布から目をこすりながら出て来た顔があまりにあどけなく、私は愕然としました。

「ヴァルトハイム、こちらはシュルツ牧師だ。」

衛兵が出て行くと、ヴァルトハイムは飛び起きて、私をまじまじと見つめています。痩せて小柄な、まだ少年と言っていいほどの純朴な顔をしています。

「おはよう、ヴァルトハイム。」

「死刑執行ですか?」

もう覚悟を決めているのでしょう、ベッドに座ったまま落ち着いた声でそう尋ねました。

「恩赦はなかったんですね?」

「残念だが、なかったんだ。」

「今日ですか?」

「そうだ。」

「何時に?」

「一時間後だよ。」

ヴァルトハイムは宙を見つめて、ただ茫然としています。

「ずっと君のそばにいるよ、ユストス。」

兵士を名前で呼ぶことは禁じられていましたが、私はあえて姓ではなく名前で呼び、親称のduで話しました。ユストスはいそいそと着替え、顔を洗い、歯を磨き、髪を整えると、椅子に座っている私の前に来て、再びベッドに腰を下ろしました。

「手紙を書こうか?ユストス。」

ユストスは考え込んでいます。

「お母さんに書きたくはない?」

父親が病気で亡くなっていることは資料で読んで知っていました。

「母は私を恥じるでしょうか?」

「そんなことはないよ。」

「脱走兵で死刑ですから、神様も母も私を許さないでしょう。」

「それは軍隊の価値観だよ。人は皆、罪を背負っているけれど、神は私たちを愛し、すべてをお許しになる。お母さんだって君を愛しているよ。恥じるなんてことはないさ、絶対に。」

ユストスの張りつめた表情が、少し緩みました。

「牧師様、何と書けば良いでしょう?母は悲しみますね。」

言葉につまりました。悲しまない母親がいるでしょうか?

「愛していると。君の正直な気持ちを書きなさい。」

ユストスは私からペンを受け取ると、背中を丸めて書き始めました。10分ほどして書き終えると、それを私に渡して言ったのです。

「牧師様、もう一人、書きたい人がいるのです。」

「誰だか聞いてもいいかい?」

「恋人のイナです。でも・・・やはりやめておきます。負担になりますよね。」

「愛し合っているの?」

「はい。とても。」

「伝えたくない?愛していると?」

エリカの面影が頭をよぎりました。私なら伝えたい。愛していると、幸せだったと感謝したい。ユストスはしばらく考えると再び背中を丸め、懸命に便箋にペンを走らせました。恋人の負担になるのではないかと躊躇する優しい青年に、この戦争が耐えられるはずがないのです。

「裏に宛先も書くんだよ。中身は読まないから安心しなさい。」

「はい。ありがとうございます。」

書き上げた二枚の手紙を受け取ると、私は畳んで胸ポケットにしまいました。

「祝福を施していただけますか?」

「もちろんだよ、ユストス。」

私は持ってきた十字架を窓際に立て掛けると、二本の蝋燭に火を点けて両側に置き、聖餐式を執り行いました。ホスチア(薄いウェハース)をユストスの唇にそっとのせると、聖杯の赤ワインを口の中に少し流し込みました。

「パンは私のからだであり、杯は私の血による契約である。」

目を閉じているユストスの頭に私は両手を乗せ、祈りました。白々と夜は明けていき、金色の光が鉄格子窓から冷たい石造りの部屋に差し込み始めました。

「ユストス、君の罪は赦されたんだ。心配することは何もないんだよ。」

あどけない19歳の顔に、静かな微笑みが浮かびました。

「聖書で好きな箇所はある?」

少し考えて、ユストスは恥ずかしそうに言いました。

「私は信仰深く無くて、堅信礼から礼拝にはほとんど行っていないのです。好きな箇所は特にないのですが、イナが詩篇23篇が好きだと・・・。」

私は頷き、聖書を開きました。

 

主はわが牧者なり われ乏しきことあらじ

主はわれを緑の野にふさせ いこいの汀にともないたもう

主はわが魂を活かし 御名のゆえもて、我を正しき道にみちびきたもう

たといわれ死のかげの谷をあゆむとも わざわいをおそれじ

なんじ我と共にいませばなり

 

 ユストスはじっと目を閉じて、私の朗読を聞いていました。やがて衛兵が私たちを迎えに来ると、ユストスは手錠をかけられ、私たちは並んで車に座り、刑場に向かいました。私はずっと彼の手を握り、心配は要らない、神の御国には平安があるのだから、と呪文を唱えるように言い続けました。

 古い工場の中庭のコンクリート壁の前が刑場になっており、ユストスはその前に立たされると一等兵に手錠を外され、白い布で目隠しをされました。

「主よ、感謝します。」

ユストスの張りのある声が中庭に響き渡ると、号令と共に銃殺刑は執行されました。ユストスは顔からドサリと倒れ、軍医が駆け寄って死亡を確認、腕時計を見て「死亡時刻、6時3分!」と叫びました。ユストスの周りに、みるみる血が広がっていきます。これで私の任務は終了しました。

 昨日来た道を、再び野戦病院へと上等兵が車を走らせます。一睡もしていなかったせいか私は疲れきっており、朝日を浴びて金色に輝く麦畑を朦朧と眺めていました。すると突然、穂の中を笑いながら歩いているユストスを見たような気がして、私は振り返りました。もちろんそれは私が生み出したセンチメンタルな幻覚だとわかっているのです。

 主はわれを緑の野にふさせ いこいの汀にともないたもう

不覚にも涙が止まらなくなり、運転している上等兵に気付かれないよう、慌てて反対側に顔を向けて涙をぬぐいました。

 そろそろ野戦病院に使っているロシア正教会の丸屋根が見えてくる頃でしょう。