月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

1910年生まれのヒルデおばあちゃんは、ドイツ激動の時代を生き抜いた人です。戦前から終戦直後までの、彼女の思い出話を綴っています。

シュルツ牧師は語る2.ベルリンオリンピック

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  1936年7月、ベルリンのウンターデンリンデン通りの菩提樹並木は小さな黄色い花をたっぷりとつけ、辺りに甘い芳香を放っています。べルリンオリンピックを一カ月後に控え、浮足立った市民たちでいっぱいの通りには鉤十字の旗と垂れ幕、五輪の旗、参加国の国旗がはためき、世界中からやって来た観光客を乗せた二階建てバスがすぐ脇を通り過ぎていきます。私はヨハネスとブラブラ散歩をしながら、気もそぞろなベルリン市民の様子を眺めていました。

 ここ三年ほどベルリン全体が工事現場と化していましたが、今ではすっかり道路も整えられ、町は新しく生まれ変わったようです。優雅なゴシック建築の街並みの中に突然現れた新しい建造物は新古典主義よりもずっと無機質で冷たく、私は好きになれないのですが、多くの市民は「新生ドイツの象徴」と称賛するのでした。

 なんと平和な風景でしょう。しかし、その前年には前代未聞の「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」ニュルンベルグ法が制定され、事実上ユダヤ人の公民権が剥奪されていたのです。これはドイツ民族の純血を守るために、ユダヤ人との婚姻と性交渉を禁止した法律で、法を犯した者は人種汚辱罪により直ちに逮捕され、刑務所に送られたのです。

 それ以前から行われていた公職追放などのユダヤ人に対する迫害もあわせて、当然、ナチス政府の人種差別は世界中の知るところとなっており、特にアメリカやイギリスではオリンピックをボイコットするべきだという声が高まっていました。人種や宗教の違いを乗り越え、互いの文化を尊重して歩み寄るのがオリンピック倫理です。

 オリンピックをプロパガンダに利用しようとしていたナチス政府にとって、参加選手が最も多いアメリカのボイコットは最大の屈辱です。何としてでもこれを食い止めようと、ヒトラーはユダヤ人への差別を一切行わないと公言しました。外国に亡命していたユダヤ人選手を呼び戻して出場権を与え、いたる所で見られた「ユダヤ人の店で買うべからず」のポスターや、美術館や博物館や映画館の「ユダヤ人入館禁止」の看板は、すっかり綺麗に取り外されていました。公園入口には、引っこ抜かれたばかりの立て札「ユダヤ人と犬は立ち入り禁止」の穴がぽっかりと空いています。新聞にもラジオニュースにも人種差別的な表現は一切なくなり、外国からの客人たちはユダヤ人への迫害を眼にすることがなくなったのです。

 もしかしたら、大学から追放されたユダヤ人の教授の復職やユダヤ人学生たちの復学も近いのではないだろうか?と、私は大きな期待を寄せていました。来年度からは、エディットも再び講義を「座って」受けられるかもしれません。

 エディットが大学から追放されてすぐに、私はヴァンゼーのエディットの自宅を一人で訪ねたことがあります。突然の退学処分となり、私は別れの挨拶もしていなかったのです。

 瀟洒な邸宅の立派なドアのノッカーを叩くと、怪訝そうな表情を浮かべた見知らぬ中年女性が出て来ました。

「失礼します。こちらにアウアーバッハ家がお住まいでは?」

私がおずおずと尋ねると、その女性はいまいましそうに言いました。

「ああ、ここに住んでたユダヤ人たちね。もう引っ越したわ。」

「引っ越した?どちらに?」

「知るわけないでしょう。ユダヤ人なんかと関わってないわ。」

ぶっきらぼうにそう言うと、女性は私の鼻先でけたたましくドアを閉めました。いったいどこへ?彼女の消息は誰にもわからず、その後も不安を抱えたまま大学生活を送っていたのです。

 ヨハネスと私が学生の溜まり場の居酒屋「酔っぱらい熊」に着くと、若い女給のウルリケがいつものように両手に大きなビールジョッキを持って飛んできました。ウルリケはヨハネスにぞっこんで、彼の姿を見ると首まで真っ赤になって嬉しそうです。

「ちょっと聞いて。さっきオリンピック競技場を見学してきたの。そりゃあもう広大なんてもんじゃないわ。世界中がドイツを称賛するわ。私、もう感動して泣いちゃったの。」

ウルリケはナチスのドイツ女子同盟(ヒトラーユーゲントの女子版)でチームリーダーをしていたせいか、その特典に預かることが許されたのです。18歳の誕生日を過ぎたため、女子同盟は退会したのですが、今でも熱烈なナチス信奉者と言っていいでしょう。

 4200万ライヒスマルク(≒1億6千400万ユーロ)を投じて建設された競技場は10万人収容可能というヨーロッパ一巨大なもので、その周囲を近代的な競泳用プール、飛び込み用プール、テニスコート、ホッケー場、馬術場、野外劇場などが取り囲んでいます。

 ウルリケは仕事も忘れて、私たちのテーブルから離れずに話し続けます。

「やっぱりすごいわ、総統は。私の父も兄も失業してたのに、今じゃ就職できたのはもちろん、この夏はバルト海で休暇を過ごすって言うじゃないの。休みをとらなくちゃいけないってDAFが言うのよ。来年あたりは車だって買いそうな勢いよ。つい三年前は仕事がなくて昼間からブラブラしてる男たちが町に溢れてたのよ。信じられる?」

店主がカウンターの向こうから叫びます。

「ああ、信じられるよ、ここにいる!ブラブラしてないで、とっととビールを運ばんか!ウルリケ!」

 ウルリケの言うDAF(ドイツ労働戦線)とは従来の労働組合を解散して作られた、ナチス政府による労働者を管理する組織です。それまでの労働組合の幹部は逮捕され、強制収容所に送られました。このDAFは、①経営者と雇用者を統合し、反体制運動に走らせぬよう監視する。②労働者をナチス組織に組み入れる。③まとまった休暇を与える。④安価なラジオを購入させて、政府放送を聞かせる、といったことを実施していました。バルト海や北海沿岸には休暇用アパート群が次々と建設され、市民のための安価なバカンスという飴をねぶらせたのです。

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ヒトラーは、一般国民でも購入可能な安価な自動車の製造をポルシェに依頼し、フォルクスワーゲン(国民車)が大量生産された。

 

 1932年には失業率40%と600万人もいた失業者が、四年後のこのオリンピックの年には160万人に、そしてその翌年には90万人と激減していきました。ヒトラーが選挙の際に公約として掲げていた「完全雇用」が、ほぼ実現されつつあったのです。 

 ヒトラーはどうやってこれを成し遂げたのでしょう?彼は経済政策の天才だったのでしょうか?失業者にだけ目を向ければ、偉業を成し遂げたと思う人も多いでしょう。ただし、「どんな手を使ってでも」と前置きすればの話です。

 ヒトラーがまず行ったのは、ヴェルサイユ条約の無視と国際連盟の脱退でした。つまり賠償金の返済を勝手にやめて、禁止されていた軍需産業と徴兵制度を再開したのです。アウトバーンの建設、石炭採掘場の開発、軍需産業の再開、バカンス用アパート建設などによる雇用増加政策を実施していきました。

 ところで、これらのための巨額な資金は、いったいどこから調達できたのでしょう?ヒトラー以前のドイツ経済は第一次世界大戦による賠償金返済と大恐慌で破綻していたはずです。いったいどこから?

 ここで活躍するのが経済学者でドイツ帝国銀行総裁ヒャルマル・シャハトです。彼はナチス政権下の経済相となり、「金属調査有限会社」通称メフォというダミー会社を考案し、発注させ、支払いは帝国銀行保証のメフォ手形で行われたのです。

 このメフォ手形の総額は1934年から1937年の間で204億ライヒスマルクにも上ります。これにより失業問題は解決しましたが、国家財政は火の車だったことは、国民には一切知らされていませんでした。この国債の償還期限は5年、当然、償還は不可能、通貨発行を増やせばハイパーインフレとなります。ナチス政府は最後の手段として、他国への強奪と侵略、つまり戦争を始めたのです。ドイツがポーランドに侵攻していったのは、償還期限であった1939年だったのです。

 しかし、戦前の当時はそんな政府の詐欺行為など知る者はいませんでした。私たちは著しい経済成長を続ける「ヒトラーの天才的手腕」に感嘆し、空腹も寒さも失業もない豊かな毎日に酔いしれていました。

 

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ヒャルマル・シャハトは経済学者、帝国銀行総裁であり、ナチス政権下では経済相に任命された。いまだにヒトラーの経済政策を評価する声もあるが、それは間違いである。失業者数が激減したのは、上記の政府による詐欺行為によるもので、結果的には第二次世界大戦を引き起こした。 

 

 オリンピック開幕式の12日前に、聖火リレーが始まりました。ギリシャのオリンピアからベルリンまで3187kmの距離を、各国のランナーひとり1km、総勢3331名が走っていく様子を、ラジオは実況で中継しました。私たちは寮の娯楽室で、あるいは居酒屋で、アナウンサーが伝える風景に聞き耳を立てながら遠い国々に思いをはせ、聖火が少しずつベルリンに近付いていくことに興奮していました。

 

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上: あまり知られていないが、オリンピックで聖火リレーを始めたのはヒトラーだった。政府が事前に調査して決められたこのルートは、最も高低差が少ない最短距離であり、後の第二次世界大戦でドイツ軍が逆方向に侵攻するのに利用された。

 

 開会式直前、外国人選手たちを乗せたオープンカーはベルリンの主要道路をゆっくりと走り、沿道で歓迎する市民たちに白い歯を見せて帽子を振ります。私はブランデンブルグ門前に立ち、和やかな人々の様子に満足していました。

 こうして平和な町ベルリンで、平和の象徴であるオリンピックが1936年8月1日に開幕しました。 49の国と地域から参加した選手の数は4000人、前回を大きく上回り、大変な盛り上がりです。開会式では12万人の観客がヒトラーの登場を今な今かと待ちわびていました。やがてヒトラーが会場に姿を現すと、観客は一斉に立ち上がり、右手をあげて叫びます。ハイルヒトラー!ハイルヒトラー!その様子をニュース映画で観て、私も感動を覚えたものです。

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 開会式では25000羽の鳩が空に向かって放たれると、一斉に十幾つもの大砲が轟き、驚いた鳩たちが一斉に頭上からフンを撒き散らすというハプニングもありましたが。12万人の観客(特に帽子を被っていない女性)の悲鳴は、大砲の音よりすさまじかったそうです。 

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上: 幅跳で優勝したジェシー・オーエンス、2位はドイツのルッツ・ロング、3位は田島直人。ヒトラーはアーリア人の運動能力の高さをこのオリンピックで証明しようとしたが、黒人選手のオーエンスが短距離・跳躍種目で優勝し、四冠王に輝いたことに激怒したと言われている。

 

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上: 芝の上で談笑するロングとオーエンス。跳躍で二度のファウルで落ち込んでいるオーエンスにロングがラインの少し前で踏み込むようアドバイスし、オーエンスは三度目で世界記録を出し、優勝した。お互いの健闘を称えて抱き合い、表彰式の後に二人が腕を組んで談笑していたことに対し、ロングは政府から「ネガーと腕を組まないように」との厳重注意を受けた。当時、法学部学生であったロングはこれを無視、選手村ではコーヒーを飲みながら談笑する二人がよく見かけられたという。オーエンスは自分の先祖がアラバマの綿花摘みの奴隷であったこと、自分は貧困から逃れようとホテルでボーイとして働いていたことなどをロングに打ち明け、ロングもドイツの生活を話した。ロングとオーエンスの友情はその後も途切れることなく、手紙のやり取りはロングが戦死するまで続いた。 後にオーエンスは「私たちは私たちのやり方で、ヒトラーに対抗していたのです。」とインタビューで語っている。

 

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上: グレーテル・ベルグマンは当時、走り高跳のドイツチャンピオンだったが、ユダヤ人であるためイギリスに亡命していた。ナチス政府はアメリカボイコットと言う不名誉を何としてでも避けようと、ベルグマンにドイツ代表としての参加を要請、「寛容なドイツ」を演出するプロパガンダに利用した。ドイツに残っている両親が逮捕されることを恐れたベルグマンは帰国し、ドイツ選手強化合宿に参加したが、アメリカが参加を表明し、選手たちがドイツに向けて出航した翌日、ドイツ政府はベルグマンの出場権を剥奪した。負傷による棄権が表向きの理由である。ベルグマンのトレーナーはこれに抗議したため、逮捕された。


 居酒屋「酔っぱらい熊」でもオリンピックの盛り上がりは凄まじいものでした。ウルリケは私たちに誇らしげに手帳を見せ、

「イェッセ・オヴェンス(ジェシー・オーエンスのドイツ語の発音)のサインよ。ポツダムの宮殿をアメリカ選手たちが見学するって聞いたから、私、わざわざ行ってきたの。すごいでしょ?ニコニコ笑ってサインしてくれたわ。週刊ニュース、観た?すごいわよね、ネガーって。豹みたいに走るのよ。」

 それは素晴らしいオリンピックでした。ジェシー・オーエンスは次々と世界新記録を塗り替え、彼のエレガントなランニングフォームと謙虚な性格は私たちの心を捉え、たちまち大スターとなりました。アーリア人種の優越性を証明するという意味ではナチス政府の目論見は失敗でしたが、ホスト役としてのプロパガンダは大成功であったと言っていいでしょう。

 寛容な国、ドイツ。誰もが繁栄と平和を謳歌していました。「水晶の夜」が来るまでは。  

 1938年11月9日夜、神学部の大学院生だった私は、教会主催の提灯行列の世話をしていました。2歳から10歳くらいまでの30人ほどのかわいい子供たちが、それぞれ自分たちで作った提灯を持ち、歌いながら町を練り歩くのです。

 

提灯よ、提灯よ

お日様、お月様、お星様

燃えろよ燃えろ わたしの明かり

でもわたしの素敵な提灯は燃やさないで

 

 鬱々とした暗くて長い冬の到来は何ともやりきれないものですが、私はこの聖マルティンの提灯行列が大好きです。提灯の中の蝋燭の火をゆらゆらと揺らしながら慎重に歩く子供たちの嬉しそうな顔!暗闇に浮かびあがる太陽や月をかたどった提灯は美しく、温かいのです。その子供たちの手を引いて一緒に歩く父親・母親たちの顔もほころんでいます。

 しかし、この年の提灯行列は、例年とは全く異なる不気味な様相を呈していました。私たちの行列が裏通りに入った時、トーチを掲げた10人以上のSAの男たちが、前からこちらに向かって足早にやって来ました。男たちは子供たちの様子に目を細め、通りすがりに小さな頭を撫でて優しく微笑み、そのまま通りから一軒のアパートの中へと入っていきました。提灯行列の向こうを張って、トーチを持っているのだろうか?不思議に思いながら歩いていくと、背後から女性のけたたましい悲鳴とガラスが割れる音、男たちの怒鳴り声が聞こえました。

「糞野郎!ユダヤ人め!とっとと失せろ!」

どうやら先ほどのSAたちの入って行ったアパートから聞こえるようです。再びガラスの割れる音、何かがドスンと落ちる音、女性の悲鳴、泣き叫ぶ声。何が起こっているのかわかりませんでしたが、とにかく私は子供たちを守るため、急いでその場を離れ、教会に戻りました。親が一緒でない子供は私が送り届けるのですが、道中、やはりトーチを持ったSAたちが笑いながらそこかしこにたむろし、あるいはナチス党歌を歌いながら歩いている光景に遭遇しました。

「何が起こったのですか?」

私は若いSAに声をかけました。

「町の大掃除です。」

SAはにっこりと笑い、通り過ぎていきました。

 この晩から未明にかけて、ドイツ中の177のシナゴーグ(ユダヤ教会)が放火され、7500軒ものユダヤ人経営の商店・百貨店の他に、ユダヤ人の住宅、墓地、病院、学校が破壊されました。その際に殺害、あるいは自殺に追い込まれたユダヤ人は400人、負傷者数は不明です。割れて飛び散ったショーウィンドーや窓ガラスの破片が月明かりに照らされて美しく輝いていたことから、この暴動は「水晶の夜」と呼ばれ、ホロコーストの幕開けとなりました。翌日には3万人のユダヤ人成人男子が強制収容所に連行され、そのうちの多くの人々が拷問、殺害されました。

 その二日前に、ポーランド系ユダヤ人の青年がパリのドイツ大使館の大使館員を暗殺したことがきっかけでした。この17歳の青年は、ドイツのユダヤ人に対する非人道的行為に抗議し、世界にこの惨状を訴えようと試みたのです。これが早速「ユダヤ人一掃」の大義名分となったわけです。

 提灯行列の子供たちの頭を撫でて行った男たちがユダヤ人を襲撃し、殴り倒し、老人をアパートの窓から外に突き落とし、火を放っていたのです。あの晩の悲鳴、ガラスの割れる音、ドスンと何かが落ちる音を、私は忘れることができません。いったい彼らが何をしたというのでしょう?なぜ人間はここまで残酷になれるのでしょう?

 この時になって初めて、あのオリンピックがただの政府のパフォーマンスに過ぎなかったことを知らされたのです。

  

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上:炎上するシナゴーグ(ユダヤ教会)を眺める市民たち。消防車は周辺の住宅に引火しないよう放水するだけで、シナゴーグの消火は行わなかった。

 

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上:襲撃されたユダヤ人の経営する商店。すべての窓ガラスは割られ、商品は略奪され、店主は暴行され、その多くが殺された。

 

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上:水晶の夜の翌日、すべてのユダヤ人成人男子はダビデの星の看板と共に町を行進させられ、その後トラックで強制収容所に移送された。

 

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 上:強制収容所に連行されたユダヤ人成人男子。

 

 12月に入った頃、大学図書館で勉強していると、ヨハネスが私のところにやってきて耳元で囁きました。

「エディットに会ったよ。」

ギョッとしてヨハネスの顔を見上げました。館内での会話は禁止されていたので、私たちは連れ立って中庭に出て、噴水を丸く取り囲むんでいる、アールヌーヴォー調の真鍮製ベンチのひとつに並んで腰を下ろしました。そこは壁一面に蔦がからまる美しい中庭で、6月にはバラ園から流れてくる芳香の中で読書を楽しめる贅沢な場所なのですが、12月の寒空の下で座っているもの好きは私たちだけです。

 ヨハネスは煙草に火を点けると、フーッと一気に煙を吐き出しました。

「どこで会ったの?」

「オラニエンブルグ通り。僕とは顔見知り程度だったけど、覚えていてくれたよ。声をかけたら、ああ、マックスのお友達ね、って。」

「元気そうだった?」

「元気だったよ。ちょっと痩せたかな。相変わらずきれいで、陽気だったよ。」

「そうか。元気なんだ。良かった。良かった。」

胸がいっぱいになり、熱いものがこみあげてくるのを感じて、急いで壁一面を覆う蔦を見上げました。

 エディットがヨハネスに話したところによると、エディットが大学から追放されてすぐに父親は弁護士事務所を畳まなければならず、ヴァンゼーの豪邸は家具ごと没収され、指定されたプレンツラウアーベルグ地区の労働者用アパートに引っ越しました。父親は弁護士資格を剥奪されたので、エディットは家族を養うためにユダヤ人学校の臨時教員として働いていました。ユダヤ人の子供が公立学校から締め出されたため、ユダヤ人学校は生徒数170人から750人に膨れ上がっていたのです。子供好きなエディットは、ここで教えることを楽しんでいましたが、水晶の夜によって生活は激変しました。翌日にはゲシュタポがやって来てエディットの父親は逮捕され、他のユダヤ人成人男子たちと一緒にザクセンハウゼン強制収容所に二週間監禁されたのです。釈放の条件は、不動産を含むすべての財産放棄と国外退去です。父親は他の男たち同様、それらの書類に署名をすると、家族のもとに戻ることを許されましたが、拷問による後遺症ですっかりふさぎこんでしまいました。国外退去せよと言われても、何万人もの難民を受け入れてくれる国はありません。幸運なことに、エディットたちはパリのユダヤ人弁護士協会を頼って、今日、やっとフランスのビザを取得することが出来たのです。

「プレンツラウアーベルグ!そうか。そんな近くにいたのか。かわいそうに、どんなにか辛かっただろう。」 

「君のことを聞いていたよ。」 

私は顔が赤くなるのがわかり、ヨハネスに見られるのを恐れてひたすら蔦を見つめていました。

「君に感謝していたよ。黄色い学生証をもらって以来、変わらないでいてくれたのは君だけだったって。」

黄色い学生証とはユダヤ人の学生が持たされた学生証で、ナチスがユダヤ人学生を弾圧する法律を作った1933年に発行されたものです。

「そんなことはないだろう。みんな彼女が好きだったよ。人気者だったのは君だって知ってるだろう?」

「それは黄色い学生証発行までだよ。あれ以降、みんな彼女を避けていたらしいよ。挨拶さえしてくれなくて、とても辛かったって。」

何ということでしょう。鈍感な私はちっとも気付かなかったのです。会えばいつもふざけて冗談を言っては私を困らせていたエディットです。後悔と自己嫌悪が波のように押し寄せてきました。大切な友人の心の痛みに寄り添うこともできず、いったい何が神学と哲学でしょう。

「全く気が付かなかった。なんて馬鹿なんだ、僕は。」

「いや、いいんだよ、それで。彼女は君といて幸せだったんだから。君が好きだったんだよ。気が付かなかった?」

「まさか。なぜそう思うの?」

「だって彼女が君のことを話してるとき、今の君と同じ顔をしてるから。」

ヨハネスは煙をフーッと吐き出すと、煙は凍てつく空に向かってユラユラと昇っていきました。いろいろな感情が次から次へと押し寄せて、混乱した私は居ても立ってもいられなくなりました。 

「会いたいんだ。住所を聞いた?」

「そう言うだろうと思って聞いたけど、教えてくれなかったよ。君が会いに来たら危険だからって。それに、明日はもうパリに発つそうだ。くれぐれもよろしくと言ってたよ。」

明日!きちんと別れの挨拶さえしていないのです。

「それにしても、おもしろい女の子だね。『私たちの総統がエジプトから私たちを連れ出したりしなければ、今頃はイギリスにいられたのに。』だって。僕たちは笑いながら握手をして別れたよ。」

「私たちの総統」とはユダヤ人にとっての総統、つまりモーセのことです。旧約聖書の「出エジプト記」には、モーセが迫害に苦しむユダヤ人をエジプトから脱出させたという記述があります。エジプトはつい最近までイギリスの保護国だったことから、それをもじったジョークなのでしょう。この期に及んでふざけているエディットの心の内を想い、私は何も言えませんでした。

 ヨハネスは横目で私をちらりと見ると、煙草を足で揉み消し、 「また寮で。」と言って中庭を出て行きました。

 深々と冷え込んでいく外気の中に、懐かしいエディットの姿が次々と現れます。笑った時の両頬に出るエクボ、下がった目尻、理路整然と論じる時の大きく見開いた黒い瞳、額にかかる巻き毛を掻き上げる仕草。

「笑っていいのよ、マックス。」

脳裏に蘇る屈託のないエディットの声に、私は小さく答えました。

「全然笑えないよ、エディット。」

 凍った夜の帳の中、ベンチに座った私の周りを銀色の粉雪が舞い、長いベルリンの冬が始まろうとしていました。