月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ロッテの告白4.バラのケーキ

 再び難民となったロッテたちを乗せたトラックは、ひとまずエマ叔母さんの友人が住むベルリンに向かった。その友人が住むベルリン市ツェーレンドルフ区の家は戦災を免れ、ロッテたちが一晩やっかいになることは葉書に書いて知らせてあった。やっと目的地に着いたのは夜7時を回っており、凍り付きそうな吹きさらしの荷台から降りた時、ロッテの足はあまりの寒さに感覚を失っていた。

 エマ叔母さんの友人アーレント夫人は、シーヴェルバインで叔母さんと同じ学校に通っていた幼馴染で、結婚してベルリンに移り住んだのだった。世話好きの明るい女性で、凍えて紫色の唇をしたマリーを見て仰天し、かわいそうにと抱き締めて背中をさすった。暖房機のそばにマリーを座らせると、毛布にくるんで熱いココアを飲ませた。

「ああ美味しい!こんな美味しい飲み物、初めてよ。」

「あら良かった!まだたくさんあるよ。たっぷりお飲み。」

ミルクたっぷりの本物のココアを飲み始めると、マリーの青白い頬がたちまちピンク色に輝き始め、唇は赤みを帯び始めた。やがて夫人の通う教会の婦人会の女性たちが焼きたてのクッキー、パン、スープなどを持ってぞくぞくと集まり始め、エマ叔母さんたちを歓待した。8人ほどの年配の婦人会会員たちは、テーブルを囲んでぺちゃぺちゃとおしゃべりしながらお茶を飲む。

「大変だったね、ひどい話だわ!ロシア人とポーランド人は血も涙もないよ!」

「あんな野蛮人たちに私たちの素晴らしい東プロイセンやポンメルンを乗っ取られたなんて!あら、このクッキー美味しいわ。レシピがほしいわ。」

「もともと悪いのはスターリンだよ。あの男が勝手にポーランド領土の一部をのっとったから、その代償にオーデル川の西側をポーランドに与えたんだそうよ。チャーチルは反対したそうだけどね。クッキー、おいしいでしょ?今度レシピ持ってくるわ。」

「チャーチル?ああ、あのデブね。あれはなかなかいい政治家じゃないの?」

「いやいや、ドイツ難民がイギリス占領区域に流れ込んでくるのを心配してるだけよ。結局、連合軍なんて自分の国の利益のことしか考えてないよ。みんなエゴイストさ!」

 女たちがおしゃべりに夢中になっているうちに、ソファで横になっていたマリーはスヤスヤと寝息をたてはじめた。夫人とロッテはマリーを抱えて客間のベッドに入れると、再び居間に戻って夜更けまでおしゃべりを続けた。

 女たちはヤルタ会談だとかポツダム会談だとかの時事に精通しており、口角泡を飛ばして議論している。都会の刺激的な女たちに眼を白黒させながら、ロッテは感動していた。ぺーリッツにいる間、ロッテたちはラジオも新聞もない世界で暮らすことを余儀なくされ、すっかり時代の流れから取り残されていたのだ。

「ベルリンも四つの占領地区に分けられるそうよ。」

「聞いたわ、アメリカ地区、フランス地区、イギリス地区、ソ連地区でしょ?」

「このあたりはアメリカ占領地区だからよかったわよ!ソ連地区になった東側は気の毒よね、経済的な立て直しプラン、ええと、何と言ったっけ?マ、マ、マ・・・。」

「マーシャルプランでしょ?」

「そうそう、それよ。そのマーシャルプランを拒絶してるんですって。そうなるとソ連占領地区は西側からの経済的な援助がない上に、ソ連に戦争賠償金を払わなきゃならなくなるそうよ。おまけに通貨も違うんですってよ!」

「同じベルリン市内でそんな不公平が本当に発生するのかしら?ベルリンが分断されて社会主義の地区が出来るなんて不可能よ!」

女たちはスターリンを批判し、いきり立っていたが、そうそうソ連の思い通りにはなるまいと高を括っていた。しかし、この5年半後に、ベルリンに東西を分断する壁が建設されることなど、いったい誰が想像できただろう?

 

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上:終戦から1949年までの四年間、ドイツ全土は連合国により占領統治が行われた。色がついているすべてが1945年までのドイツ(オーストリアも含まれる)。右上の黄色い部分が私の故郷だった東プロイセン。真ん中の黄色はシーヴェルバインのあったポンメルンとシュレジア。こことピンクを境にして流れているのがオーデル・ナイセ川であり、敗戦によって、ここより右側(黄色部分)がポーランドに、ケーニヒスベルグのあった右上ピンク部分はソ連に譲渡された。終戦から1949年までの4年間、連合国(ピンク:ソ連、オレンジ:アメリカ、緑:フランス、青:イギリス)による占領統治が行われ、1949年、ピンク部分だけが分断されてドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国された。東ドイツは社会主義国家となり、多くのソ連軍が駐屯するソ連の衛星国であった。

  

 翌朝早くにベーレン行きのトラックが出発することになっていた。朝食を終えて、夫人に礼を言うと、夫人は大量のクッキーや焼きたてパンやソーセージや「本物の」ココアを入れた袋をエマ叔母さんに手渡し、抱き締めて言った。

「ああ、愛しいエマ。私たち、とんでもない時代に翻弄されているけど、必ず平穏な日々が来るわ。そう信じましょう。神様の御加護がありますように。」

 再びトラック乗り場に赴いた。この日は昨日とは打って変わって暖かな日で、吹きさらしの荷台もさほど苦痛ではなかった。復旧されていないアウトバーンを迂回しながら目的地ベーレンに到着した時には、とっぷりと日が暮れていた。

 

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上:1930年代のベーレン。

 

 ライプチヒの南15㎞ほどに位置するベーレンは石炭産業の町だ。1920年代には世界一広大な石炭の露天掘り場を持ち、労働者の生活向上のため、インフラストラクチャーが発展した。電気とガスが完備された住居、舗装された道路、学校、病院、公共施設などが次々と建設され、豊かで住みやすい町となった。戦争中は近くの強制収容所ブーヘンヴァルトからユダヤ人などの囚人800人を、捕虜収容所からはソ連兵など捕虜たち5000人を強制連行し、過酷な石炭採掘労働に従事させた。ここでのドイツ人労働者のほとんどが前線に兵士として送られていたため、戦争に不可欠な燃料生産はこうした強制労働者によって賄われていたのである。当然、連合軍の空襲の標的となり、1944年から45年にかけて、多大な損害を被った。戦後はソ連政府の所有となり、ロッテたちがやって来た当時は、その復興が行われている最中であった。

 ロッテたちのトラックは大きなホールに停まると、難民たちはホール内で熱いスープとパンを食べた。無愛想な係員のところに行って部屋割り表と地図をもらうと、再びトラックに乗り、ひとつの殺風景なアパートの前に到着した。あてがわれた大きめの部屋はにはマットレスが三枚、床に敷かれているだけで、他には家具は何もない。ロッテが茫然と立ちすくんでいると、マリーがはしゃぎながら靴を脱ぎ、マットレス三枚の上を跳び跳ねる。

「ねえねえ母さん、どこで寝る?エマ叔母さん、私はここでもいい?素敵なお部屋ね。私、気に入ったわ!」

 台所、トイレ、洗面所は他の住人たちと共同だ。ロッテが台所に行ってみると、見覚えのある鍋や皿が並んでいる。まさか・・・。突然、真横のドアが開き、マグダが出てきた。

「あら、もう着いたの?」

ロッテは心臓が飛び出そうに驚いた。もう一生会うことはなかろうと安堵していたのに、まさか同じアパートに住むことになろうとは!どうやら登録したペーリッツの住所が同じで、しかもエミールとエマ叔母さんの名字が同じシュルケであることから、親族を同じアパートに住まわせるという「思いやり」を工場側が見せてくれたらしい。

 疲れた顔をしたエミールも出てきて、自分たちの部屋を見せた。ロッテたちより二倍ほど大きな部屋にはペーリッツから運んできたアールヌーヴォー風のベッドもクローゼットも本棚もテーブルも椅子も、すべてきちんと収まっていた。ベッドにはふかふかの羽根布団、大きな窓にはゴブラン織りのカーテンが吊るされ、胡桃の木製ダイニングセットの下にはペルシャ絨毯まで敷かれてあるではないか!ソ連軍将校の知り合いがいるというだけで、生活レベルはここまで差が出るものなのか。

「私のイブニングドレスも靴も、ほとんど置いてきてしまったの。こんな空気の悪い町で、髪は毎日洗わなくちゃならないでしょうし、なんてことかしら。」

美しい金髪をかきあげながら、マグダは嘆いた。髪を毎日洗うことが、この人の今の悩みなのだろうか?明日をどうやって生きようか、考えたことはあるだろうか?しかしペーリッツではマグダの家では居候の身であったが、今の立場は同じ難民だ。まさかここでも権力を振りかざして意地悪をするようなことはなかろう。

 翌日、ロッテは仕事の登録をし、とりあえず12月20日から金属加工プラントの従業員用食堂に配属されることになった。時給0,60ライヒスマルク、今の価値で換算する260円(2017年7月現在のレート)、牛乳が1リットル0,30ライヒスマルク(130円)、パン1キロ0,40ライヒスマルク(170円)であるからとんでもない薄給である。それでも8時間働けば4,80ライヒスマルク(1040円)になる。住宅手当、光熱費、医療費、学費はほぼ無料であるから、これで三人、飢えずにすむのだ!

 エマ叔母さんはマリーの面倒をみながら、自宅でできる裁縫などの内職を探すことにした。このころからエマ叔母さんの体調がすぐれず、疲れて横になることが増えて行った。従業員と家族の医療費は無料だが、それでもエマ叔母さんは病院に行こうとはしなかった。ストレスによる疲れだと思い込んでいたのだ。

 いよいよロッテの仕事が始まった。5時には起床しなくてないけないのだが、困ったことにロッテは時計を持っていない。仕事に遅れないよう、台所の窓から見える教会の時計台にしょっちゅう目をやらなければならないのだ。寝坊しないようにと緊張するものだから、昨夜はなかなか寝付くことができず、ひどい睡眠不足だ。朝6時には家を出て、まだ真っ暗な中を木靴で30分歩く。工場の厨房に到着したら、さっそく従業員200人分の昼食準備にとりかからなければならない。厨房長はでっぷりと太った男で、始終ガミガミとどなっている。彼の機嫌を損ねぬよう、大急ぎで大食堂の掃除をし、ジャガイモの皮をむき、肉をブツ切りにし、煮たり焼いたり刻んだり。厨房の床はタイル張りで油ぎっており、木靴ではツルツルすべるから何度も転びそうになる。それが終わると集まって来た従業員たちの皿に料理を盛り付ける。午後2時には皿を洗い、大急ぎでまかないの昼食を自分の胃に流し込み、今度は夜勤の従業員たちのために夕食の準備に入る。立ちっぱなしの仕事は辛いけれど、残った食材を家に持ち帰ることができるのはありがたかった。帰り際に工場長はクリスマスプレゼントだと言って、すべての従業員に蝋燭を二本ずつ与えた。

 夕方から降り続いた雪は、一晩で世界を真っ白に変えた。ソ連政府が所有するこの広大な敷地は、社会主義的な殺風景で個性のないアパートが林立するだけだが、雪は町に四季があることを教え、やっと町に命を与えたかのようだ。それぞれのアパートの窓辺にはクリスマスの電飾が飾られて、冬の長い夜を優しく彩る。

 1945年のクリスマスはロッテの人生でもっとも惨めなクリスマスだった。夕方、マットレスを椅子代わりにして座り、小さなスーツケースをテーブルにして、もらってきた蝋燭を灯す。チラチラと燃える黄色い炎を見つめながら、この年に起こったことを悲しく思い起こしていた。何と言う年だったのだろう。子供たち三人を失い、母を亡くし、難民となってすべてを失い、安住の地を見つけたかと思えば、その半年後には再び追放されたのだ。まさに喪失だけの一年だった。

「クリスマス礼拝に行きましょう。」

ロッテはエマ叔母さんの声に顔を上げた。疲れたと言って横になって休んでいたはずの叔母さんが、いつの間にか身支度を整えてにっこり笑っている。悲しみに沈んでいるロッテの顔を見過ごすことが出来なかったのだろう。三人はコートを着ると、夜のクリスマス礼拝に参加するため、雪道を教会に向かった。

 信者たちであふれかえった教会内は、無数の蝋燭が灯されて明るい。パイプオルガンが鳴り響き、クリスマス讃美歌を歌うと、若い牧師が説教台に立った。

「長く苦しい戦争は終わりましたが、まだ悲しみは終わりません。家族を亡くした方もいれば、空襲で家を焼かれた方もいます。息子や父親や夫は、一体いつ帰って来るのでしょう?ここには故郷を追われた方たちも座っているでしょう。しかし思い出してください。『コリント人への第二の手紙』には「悲しんでいるようであるが常に喜んでおり、貧しいようであるが多くの人を富ませ、何も持たないようであるがすべての物を持っている。」という言葉があります。使徒パウロは宣教活動中、激しい迫害に会いました。しかし、どのような辛い状況にあっても「神の愛と共にある」という喜びを持ち続け、それは誰にも奪うことが出来なかったのです。パウロの手の中は空っぽであっても、眼には見えない神からの愛がいっぱいであり、喜びと感謝と希望に満ちていました。あなたはすべてを失ったと思っているかもしれません。何もかも無くしてしまったと。それは間違っています。あなたの中には豊かな愛の恵みがあり、それは何者にも奪うことはできないのです。イエス様はその愛を私たちに教えてくださいました。今日はその救い主が誕生した日です。私たちもその喜びを人々に分け与えるために、生きていこうではありませんか。ハレルヤ!」

 エマ叔母さんは教会に来る前はかなり体調が悪そうだったが、牧師の説教を聞いてからは、ずっと穏やかな微笑みを浮かべていた。教会から戻ると、小さなスーツケースの上に白いテーブルクロスを敷き、食堂で特別に分けてもらった鴨肉のソテーと赤キャベツの煮込みとジャガイモの団子を盛り付けた皿を並べた。さっきまでの惨めで悲しいクリスマスが、今では平穏で居心地の良い空間に変わった。マリーは叔母さんからは手縫いのかわいらしい指人形と毛糸の帽子を、ロッテからはブーツをもらい、大はしゃぎだ。貧しいロッテたちの上にも、神の愛は溢れていた。

 翌朝、厨房にやってくると、普段はガミガミとうるさい太った厨房長がロッテを呼び止め、木靴を見せてみろと言う。ロッテが恐る恐る木靴を脱いで差し出すと、厨房長は黒いゴム版を取り出して糊を塗り、木靴の底に貼り付け、余った部分のゴムをナイフで器用に切り取った。

「これで滑らんだろう。」

厨房長は無愛想にそう言って、ロッテに木靴を返した。ロッテが礼を言うと、

「それよりとっととジャガイモの皮を剥いて!」

と無愛想に急かすのだった。

 アパートではエミールとマグダの激しい夫婦喧嘩に閉口した。こんな炭鉱町に住み続けるのはまっぴらごめんよ!こんな貧乏人用のアパートに住めないわ!これ以上こんな暮らしを続けるなら離婚よ!離婚!マグダは毎日金切り声で同じセリフを叫んでいる。喧嘩が聞こえてくると、マリーはこっそりと言った。

「だったら離婚すればいいのにね。喧嘩しながら一緒に暮らすより、その方がよっぽどいいわ。」

エマ叔母さんは微笑んでマリーの頬を撫でた。

「賢い子だね。本当にその通りよ。でもね、大人の心はいろいろと複雑なのよ。エミールは離婚したくないのよ。」

「どうして?」

「マグダを愛しているのね。自分の思い通りにならないものは、手放したくないものよ。マグダもそれがわかってるんだね。」

マリーはしばらく考え込むと、真面目な顔で語り出した。

「わかるわ、エマ叔母さん。私もね、アイスバイン(豚すね肉のドイツ料理)ってどんなに美味しい食べ物なんだろうって憧れてたの。食べたことある大人はみんな美味しい美味しいって言うでしょう?お肉がナイフも要らないくらい柔らかいって。そんな贅沢なもの、子供は食べちゃいけないって言われればますます食べたくなるでしょ?この間ね、友達のラウラのところで少しだけ食べさせてもらったの。憧れのアイスバイン!やっとやっと食べられる!って。でもね、憧れていたほど美味しくなかったの。なんだかずっと憧れていたものが手に入ったら、残念な気がしたの。手に入らない時の方が、ずっと好きなのよ。そういうことでしょ?」

「賢い子だよ!この子は!」

ちょっと違う気はしたが、エマ叔母さんは大袈裟に天を仰いで驚いて見せた。マグダは自分が豚すね肉に例えられているとは、想像だにしなかったであろう。

 マリーがこの町の小学校一年生に編入してすぐ、ロッテは担任教師に呼び出された。いったい何をしでかしたのかとロッテは慌てた。まさかあの下品極まりない俗謡を、皆の前で歌って聴かせたのではないだろうか?仕事を早く終わらせて担任教師のもとにヒヤヒヤしながら行くと、若い女教師は微笑みを浮かべて話し始めた。マリーはとても賢い子で、あっという間に読み書きを習得してしまった、今では授業が退屈であろうから飛び級させたらどうかと言う。ロッテは驚き、自分の勘違いを説明して先生と笑い、笑いながら賢い娘を誇りに思った。家に戻ってマリーに意気揚々と先生との会話を話したが、マリーは友達と違う学年になるのはいやだとごねる。私たちプロイセン人は教育熱心で、子供の学業にはことのほか口うるさい性分だ。

「お友達なんてすぐ出来るわよ。大丈夫、お勉強が楽しくてたまらなくなるわよ。」

 しかしこれが失敗だった。マリーが編入された二年生のクラスには、難民の子供はマリー一人、いきなり入って来た6歳のチビが偉そうにドイツ語の書き取りや算数で満点を取るのだ。7~9歳の生徒たちには面白いわけがない。新しいクラスでマリーは仲間はずれにされ、声をかける子供は誰もいなかった。休み時間は女の子たちは気の合う子同士でグループを作り、一緒におしゃべりを楽しむのだが、マリーはひとりぼっちだ。当時の学校ではスープとパンの給食があり、子供たちは家からスープ用のカップとスプーンを持って来る。マリーは自分のアルミカップについでもらったスープをひとりぼっちで飲みながら、窓の外の雪景色を眺めている。前のクラスに戻りたいな。ラウラやミヒャと遊びたいな。でも母さんもエマ叔母さんも、私の飛び級をすごく喜んでくれている。

 

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上:1946年、ソ連占領地区の小学校での授業風景。

 

 ある日、クラスで一番きれいな女の子、ディアナとその取り巻き三人に取り囲まれて、質問攻めにされた。

「あんた、難民なんですって?」

「貧乏なんでしょ?」

「母さんが言ってたわ。あんたの母さん、冬でも木靴を履いてるんだって。靴を買うお金もないの?」

マリーは黙ってうつむいている。かわいそうだと思ったのか、ディアナが優しい口調で尋ねた。

「来週の土曜日、私の家でお誕生会をするの。クラスの女の子をみんな招待するのよ。あなたも来ない?」

マリーの顔は輝いた。

「もちろん!ありがとう!」

ディアナは金髪の巻き毛にピンク色のリボンが良く似合う。真っ青な目は「地中海の海の色だ。」とマリーは思った。もっとも地中海など見たことがないけれど。ディアナという名前は、ローマ神話の月の女神だ。地中海の瞳を持つ月の女神の家に招待された!なんて素敵なの?何をプレゼントしよう?そうだ、エマ叔母さんに相談しよう!

「エマ叔母さん!私ね、月の女神のお誕生会に招待されたの!」

家に駆け込むなりそう叫ぶと、体調がすぐれずに横になっていた叔母さんは飛び起きて一緒に喜んだ。さあ、何をプレゼントしよう。叔母さんはこういう時のためにとっておいた内職の端切れを見せて、これで小さな人形を作ったらどうかしら?と言う。

「素敵ね。きっと喜ぶわ。エマ叔母さんは天才よ!」

エマ叔母さんとマリーは、ああでもない、こうでもないと言いながら、一週間ほどかけてかわいらしいパッチワークの人形を作りあげた。それを包装紙に包むと、端切れで作ったリボンをかけ、素晴らしいプレゼントの完成だ!

 上機嫌で誕生会に行ったマリーだったが、午後には意気消沈してアパートに戻って来た。どうしたの?何があったの?と尋ねても、マリーは「疲れたの。」としか言わない。心配したロッテはマリーを散歩に誘い出した。

「マリー、言ってごらん。いっしょにどうすればいいか、考えましょう。」

マリーはしゃくりあげ始め、大きな目から涙がパラパラと落ち始めた。

 ディアナの父親マインツ氏は炭田の掘削機を開発する優秀なエンジニアであるため、ナチス政府からは重宝されて兵役を免れた。敗戦後に炭田がソ連政府所有となって以降、マインツ氏はソ連政府の管理下で辣腕を振るった。便宜上なのか本心からなのかは不明だが、とにかくソ連共産党のイデオロギーに心酔していたらしい。高級住宅街に建つ瀟洒な邸宅で贅を尽くした生活を享受するのが社会主義なのか?などと問うのは、野暮と言うものだ。その邸宅には大きな子供部屋があり、ベッドはもちろん天蓋付きだ。母親のマインツ夫人はいかにもお金持ちの奥方らしく、おしゃれで美しく、「社会主義的な」慈愛に満ちた微笑みで二人の家政婦たちにテキパキと仕事を命じた。

 食事の前に、ディアナはすべてのプレゼントの包装紙を開け、ひとつひとつ皆の前で披露した。革製の手袋、リボンが付いたかわいらしいハンドバッグ、キラキラとラメやビーズで飾られたノート、夢のように美しい挿絵が付いた本など。やがてマリーのプレゼントの番になり、マリーは自分の心臓がドクドクと音をたてるのを聞いた。どうか気に入ってくれますように!包装紙の中から出てきたパッチワークの人形を手に取ると、ディアナはプッと吹き出した。

「これ、人形?」

「ボロキレをまとってるわ。難民人形?」

「でも木靴を履いてないわね。」

少女たちはドッと笑い、マリーは真っ赤になった顔を上げることができずにいた。

 それから昼食になった。トロトロに柔らかい牛肉の入ったグーラシュと、じゃがいものダンプリングだ。なんて美味しいのかしら!ディアナは毎日こんな美味しいものを食べているのかしら?ああ、母さんとエマ叔母さんにも食べさせてあげたい。

 食後にディアナの母親が慈愛に満ちた笑みをたたえ、少女たちの前でこう言った。

「マリー、お肉が余ってるのよ。おうちに持っていきなさい。ご家族に食べさせてあげて。いま包んであげるわね。」

少女たちはテーブルの上で目くばせしあってクスクス笑う。マリーは毅然と言った。

「いいえ、結構です。包まないでください。」

マインツ夫人は細い片眉を吊り上げて驚くと、慌てて優しい顔を作った。

「遠慮はいらないわ。柔らかい仔牛肉よ。きっとお母さん、食べたことないでしょう?」

「いいえ、結構です。」

私の善意をこうも頑なに拒むなんて、なんて失礼な難民の子供だろう?マインツ夫人は両眉を吊り上げると、肩をすくめてダイニングルームから出て行った。

 ロッテは少女たちの残酷な仕打ちとディアナの母親の無神経な言葉に唖然とし、泣きじゃくるマリーを強く抱き締めた。

「母さん、私ね、その後すぐに帰って来たの。ケーキも結構ですって、断ったの。」

「マリー、それでいいのよ。かわいそうな人たち。人の心を平気で傷つけることができる悲しい人たちよ。」

「母さん、エマ叔母さんが一生懸命作ってくれたお人形なの。だから私、嘘をついてもいいかしら?ディアナが喜んでくれたって。神様は怒らない?」

ロッテはマリーを抱き締めて額にキスした。

「もちろん怒らないわ。それはNotlügeと言って罪のない、優しい嘘よ。マリー、あなたは心の優しい子ね。母さんは誇りに思うわ。」

 夕暮れの中、ふたりは手を繋いで雪道を歩いていく。雪はもう降っていないが、風が吹くたびに裸のポプラの枝から雪が音を立てて落ちてくる。

 優先順位を変えよう、そうロッテは決心した。一年早く進級して、いったいどんな得があると言うの?授業が退屈だってかまわない。好きな友達のいるクラスに戻って、楽しい学校生活を送らせることを優先させよう。

「あ~あ、ケーキ、食べたかったなあ。バラの花のマルチパン(砂糖とアーモンドの粉を練って作った菓子)がのってるのよ。ピンク色の花びらがいっぱいついてるの。あんな綺麗なケーキ、見たことないわ。」

ロッテはマリーが不憫になった。

「マリー、約束するわ。次のあなたの誕生日は、バラの花のケーキでお祝いしましょう。」

マリーは横目でちらりとロッテの木靴を見た。木靴の中には泥雪が入り込み、ロッテの靴下を黒く濡らしている。

「でも母さん、アイスバインみたいに、食べたらガッカリするかもしれないわ。手が届かない方が憧れがあって素敵よ!」

そう言って二人は笑い、マリーは二度とケーキの話はしなかった。

 日が暮れて、二人の影が伸びていく。家々の煙突からたなびく煙を眺めながら、ふたりはエマ叔母さんの待つアパートへと歌いながら帰って行った。