月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ロッテの告白1.シーヴェルバインにて

 私の姉ロッテと子供たちは、東プロイセン最大の都市、ケーニヒスベルグ市から20㎞離れたポッゲンフールという小さな町に住んでいた。子供たちは上から女の子マリー5歳、男の子ルディ3歳、女の子クリスタ2歳の三人だ。

 それは1944年8月にさかのぼる。夜遅く遠くで空襲警報が鳴るのが聞こえ、ロッテは家の電気を消すと、子供たちと窓の外を見た。遠くケーニヒスベルグの空に、何十もの色とりどりの光の玉がフワフワと舞っているのが見える。

「きれい!きれい!」

子供たちは指をさしてピョンピョン飛び上がりながらはしゃいでいる。これはイギリス空軍が落として行った、小さなパラシュートの付いた照明弾だ。赤、青、黄、オレンジ、ピンクとカラフルに輝くその照明弾は美しく、「クリスマスツリー」と呼ばれていた。その光の玉が10分ほどかけてチラチラと燃えながらゆっくり落ちていく間に、今度は189機の爆撃機が飛来し、その目印のクリスマスツリーめがけて650発の爆弾を落として行った。これが悪名高き白リン爆弾だ。それは頭上で爆発すると炎の粒子が空中で撒き散らされ、キラキラと輝きながら落ちていく。まるで夜空に広がる黄金の花火そのものだ。

「母さん、すてきだね。キラキラだね。」

子供たちは無邪気に喜びながら、遥か遠くの花火を楽しんでいる。しかし、その美しい光景の下では、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていたことなど、子供たちは知る由もない。

 白リンの炎は2780℃にも達し、引火したら最後、水をかけていったん消火したように見えても、水分はあっという間に蒸発し、またメラメラと炎が息を吹き返す。衣類に引火すれば、たちまち白リンは皮膚を焼き尽くし、骨にまで達する。ケーニヒスベルグ市民は炎の中を逃げまどい、何千人もの人々が火だるまになってプレーゲル川に飛び込み、溺死した。中世の雰囲気が色濃く残る旧市街は壊滅し、宮殿、大学、大聖堂、オペラハウスなどの歴史的建造物はことごとく瓦礫と化した。白リン爆弾を目の当たりにした者は、今でも夜空の花火を見ることが出来ないと言う。

 

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上:空中で爆発し、炎の粒子を撒き散らす白リン爆弾。「激しいやけどをもたらす非人道的兵器」と言われながらも(そもそも人道的兵器などあるのだろうか?)、化学兵器とみなされていないため、国際条約ではいまだに使用を禁止していない。

 

 ポーランドの小さな町で兵役に就いているロッテの夫パウルは、ケーニヒスベルグの空襲のニュースに震えあがり、安全な場所への疎開を提案した。ロッテは直ちに、西400㎞に位置するポンメルン地方の小さな町シーヴェルバインへ引っ越すことを決めた。ロッテは私と同じクリスマスの時期に出産を控えており、移動するなら今のうちだ。そこには母の末の妹、つまり私たちの叔母エマが住んでおり、小さな部屋をひとつ用意してくれていた。その頃は移転禁止令も発令されておらず、移住先のからの招待状さえあれば、引っ越すことが可能だったのだ。

 パウルはその引っ越しを手伝うための休暇願いが許可されて、家族のもとに汽車で向かっていた。しかし、ここで予想外の事態となる。汽車に乗り合わせた監視官の女が、パウルが脱走兵ではないかと怪しんだのだ。兵士が西行きの汽車に、しかも一人で乗っているとは何事か?仕事熱心な女はパウルを汽車から外へ連れ出すと、得意満面、ゲシュタポ(秘密国家警察)に引き渡した。パウルは軍からの許可証を見せたのだが、引っ越しごときで家族のもとに戻るとは何事かと罵られ、すぐに戦地に戻された。

 一方、ロッテは待てど暮らせどやって来ないパウルに業を煮やしていた。やがてパウルからの電報を受け取り、ロッテは泣いた。三人の幼い子供と大きなお腹を抱えて、どうやって一人で引っ越しを敢行しろと言うのだろう?

「母さん、泣かないで。」

3歳のルディがロッテに抱きついて、涙に濡れた頬に何度もキスをする。普段はロッテのベッドに潜り込んで一緒に寝たがる甘えん坊だが、今日は頼りになる男でありたいのだ。涙を拭きながらルディを抱き締める。金髪の巻き毛とムチムチした小さな身体は、ルーベンスの描く天使そのものだ。青く澄んだ眼がロッテを優しく見上げる。私の天使。ロッテはルディをそう呼んでいた。かわいい私の天使。かけがいのない宝物。他の娘たちを差し置いて、などと野暮なことを言ってはいけない。もちろんロッテは娘たちも心から愛していた。しかし息子への愛というものは、母親にとって格別なものなのだ。ルディのような美しい幼子は特に!

 さて、困ったときは我らが母の出番と決まっている。母はロッテからの電報を受け取ると、ホウキにまたがった魔女のようにすっ飛んで来て、翌日には手際よくテキパキと引っ越しを片付けてしまった。

「ロッテ、心配事は胎教に悪いわよ。大丈夫よ、ラジオでドイツ軍の秘密兵器がいよいよ完成したと言ってたわ。ソ連軍もここまでは来られないわ。来年早々には戦争も終わるでしょうし、そうしたらまた家に戻って、パウルも一緒に6人で暮らせるわよ。」

 母の予言は何一つ当たらなかった。ドイツ軍の秘密兵器など絵空事に過ぎず、翌年にはソ連軍はドイツ本土まで侵攻し、攻防戦でパウルは戦死し、ロッテは二度と故郷の土を踏むことはなかったのだ。しかし楽天的だったのは母だけではない。誰もがナチス政府のプロパガンダを信じ、秘密兵器の登場を今か今かと待ちわびていたのだ。

 手際の良い母のおかげで、引っ越し先の住まいは整い、ロッテはクリスマスイブに小さな女の子、レナを出産した。お産は軽かったが、子宮収縮と会陰切開の痛みがひどく、クリスマスは産院のベッドの上でのたうち回って過ごした。鎮痛剤が効かずに苦しんでいるロッテを見るに見かねた母は、シーヴェルバインの薬局で一番効く鎮痛剤を処方してもらい、ロッテを救った。

 ちょうどその頃、一週間前に出産した私の乳腺炎が悪化し、熱まで出して苦しんでいた。それを電報で母に伝えると、母は再びホウキにまたがって飛んで来る魔女になった。しかもシーヴェルバインで処方してもらった抗生物質入りのクリームまで持って。私の乳房にそれを塗ると、またホウキにまたがって、ロッテの子供たちのもとに帰って行った。優しい魔女は救世主にもなり、愚痴一つこぼさず、私たちと父と孫たちを甘やかし、いつも笑顔で周りに希望を与え続けた。

 ロッテの新しい住居、つまりエマ叔母さんの家があるシーヴェルバインは人口一万人足らずのこじんまりとした町だが、17世紀頃は貿易と商業の町として発展し、特に80ヶ所以上のビール醸造所、織物、そして靴の製造で有名だった。戦火を逃れた中世の城、教会、旧市街などからも、かつての栄華が見て取れた。

 エマ叔母さんは物静かな優しい人で、数年前に夫を亡くしてからは一人暮らしをしていた。エマ叔母さんのひとり娘、つまり私たちの従姉妹コニーはまだ25歳、スラリと背が高く、栗色の巻き毛と輝く大きな瞳を持つ美人で、その明るくひょうきんな性格も手伝って、多くの男たちを魅了した。自分が美しいことを知っていて、それを楽しんでいるのが、かえって清々しく憎めない。織物工場を経営する町の資産家の御曹司と結婚したが、夫は徴兵されてポーランドのどこかにいるらしい。らしい、と言うのは、もう半年以上、連絡が取れないからだ。戦争が始まってからは、織物工場は落下傘を作る軍需工場となり、コニーも出産前までは勤労奉仕に携わっていた。コニーは初めての子供、アンナを産んだばかりだったが、夫はそれさえも知らない。里帰り出産という名目でコニーはエマ叔母さんのもとにいて、その小さな家は、突然女4人に子供5人の大所帯となった。毎日子供たちの歓声や泣き声に溢れる日々は忙しく、空襲の全くないここでは戦時下であることを忘れさせるほど和気あいあいとした日々であった。

「戦争の何がいやって、おしゃれができないことよ。ああ、絹のドレスを着て、またダンスに行きたいわ。」

コニーがかわいらしい口を尖らせて文句を言う。オシャレをして出かければ、国賊となじられた時代だ。前線では兵隊が苦しんでいるのに、見てくれに出費をするとはなにごとか。貴金属は取りあげられ、軍需工場で熔融されて武器となり、絹のドレスは落下傘に再利用された。スカートの丈が膝より短ければ卑猥だと白い目で見られ、体の曲線を強調させるような薄地の服はご法度、おかげでスーツ風のカッチリとした地味な服ばかりだ。この聖戦に勝利するためには、我々も代償としての犠牲を払わなくてはいけない。それに異を唱える者は、ゲシュタポ(秘密国家警察)にしょっぴかれるまでだ。

 

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上:1944年のドイツのファッション雑誌より。「女性用スーツは裁ち方次第で、このような素敵な襟無しスーツと子供服に生まれ変わります。捨てずにすべてを再利用!」日本のモンペとは異なり、かなりおしゃれである。

 

 年が明けた一月下旬、ラジオニュースはソ連軍がエルビング手前まで進軍したことを興奮気味に伝え、ロッテと母は動転した。郵便も電報も滞っており、私たちがいつ避難したか、そもそも避難できたのかもわからない。 

 そして今度はグストロフ号沈没のニュースだ。母は錯乱状態になり、ロッテは母を落ち着かせるのに骨を折った。

「父さんとヒルデたちがグストロフ号に乗っていたという確証はないのよ。確率的には他の船に乗っていた方が高いのよ。」

と慰めてみるのだが、母はみるみる精気を失っていった。

 ある真夜中、母が暗闇の中で椅子に座ってブツブツと独り言を言っている。ロッテが飛び起きて何をしているのかと尋ねると、

「今、父さんが来てたのよ。あなたが声をかけたら消えちゃったわ。」

と虚ろな目で話すのだ。暗闇に浮かぶ母の悲しげな顔に狂気を垣間見て、ロッテは胸が締め付けられる思いだった。母は父を深く愛していたのだ。

 ポンメルン地方は東プロイセンよりずっと西に位置し、ドイツ本土と隣り合わせていたため、ソ連軍がここまで進軍する可能性は皆無だとラジオニュースは繰り返す。しかし、二月になると、東からやってきた難民の行列が、シーヴェルバインを通り抜けていくようになり、ロッテたちも次第にドイツ軍の秘密兵器の存在に懐疑的になり始めていた。ポンメルン地方は移転禁止令がいまだに解除されておらず、ロッテは他の地区から押し寄せる難民の群れを、ただ不安げに窓から眺めるだけだった。

 地区掲示板には、あいかわらず「避難するものは裏切り者として銃殺刑に処する。」という例の脅し文句があるだけだ。難民の群れに紛れて逃げれば良さそうなものだが、食料配給券がなければ飢えて野垂れ死にするに決まっている。配給券は土地ごとに異なり、わざわざよその土地では使用できないように作られていたため、移住にはその書き換えが必要だったのだ。

 三月になると、シーヴェルバインの薬局では自死用の青酸カリを販売するようになった。ソ連兵の強姦から身を守るため、寛大にも(?)女性は無許可で手に入れられるというのだ。

「なんてことでしょう!自殺を勧めるなんて、キリスト教の精神に反する行為だわ。」

女たちは憤慨すると同時に、恐怖に身震いした。避難を禁止しておいて、死をもって貞操を守れというのがナチス政府のやり方なのか。

 ポンメルン地方の三月はまだ寒く、氷点下の日もある。人々はぶ厚いコートにマフラーをぐるぐる巻きにし、毛皮の帽子を被って道を行く。それでもロッテは春の訪れを探して歩き、残雪の間から可憐なスノードロップの花の蕾が顔を出しているのを見つけた時は、歓声を上げた。その花言葉は「逆境の中の希望」だ。やがては可憐な白い花を咲かせ、事態は好転するに違いない。

 しかし、とうとうソ連軍の戦車がシーヴェルバインにやってきた。最初は遠雷かと思っていた轟が次第に近付いてきて、それがソ連軍の大砲の音とわかった時には、時すでに遅しである。戦車はキャタピラの音をきしませながら町を徘徊し、停車するたびに中からソ連兵たちがパラパラと降りてきて、老人たちから腕時計や結婚指輪を取りあげ、家に押し入っては金目の物を探す。ロッテは慌てて乳母車に赤ん坊のレナと衣類や食料を突っ込むと、母、子供たち、エマ叔母さん、コニーと赤ん坊アンナと共に、一目散に駅に走った。難民専用の汽車が動き始めたとの噂を伝え聞いたからだ。しかし駅も線路も戦車の砲撃で徹底的に破壊された後とわかり、慌てて踵を返して家の地下室に隠れることにした。

 大通りを抜け、家まであと200メートルというところで、ソ連軍のトラックが一台停まっているのを発見した。慌てて脇道に入ったところで、なんとソ連兵たちに遭遇してしまったのだ。ロッテたちは慌ててすぐ脇のアパートに逃げ込み、地下室への階段を走り降りたその時だ。一番後ろを走っていたコニーの狂ったような悲鳴がロッテの耳をつんざいた。ソ連兵二人がコニーを後ろから抱きかかえると、そのままトラックの荷台に担ぎ上げたのだ。エマ叔母さんがコニーを助けようと地下室の階段を再び駆け上がろうとするのを、ロッテと母が必死に止めた。抵抗すれば射殺されることはわかりきっている。コニーの悲鳴はやがて泣き声に変わり、男たちの笑い声が地下室まで聞こえてきた。エマ叔母さんは頭を抱えて身体を前後に揺すりながら泣いている。母はマリーとクリスタを、ロッテはルディと赤ん坊のレナを抱き締め、子供たちの耳を塞いで震えていた。

 やがてトラックはコニーを乗せたまま走り去り、静寂だけが残された。ロッテは慎重に辺りを見回しながら路上に出ると、そこにはコニーが残して行った乳母車がポツンと置いてある。中を覗き込むと、赤ん坊のアンナがぐっすりと眠っている。ロッテたちはただ茫然自失の状態で、乳母車を押しながら家に戻ったのだった。

 それからというもの、エマ叔母さんは廃人のようになり、何を話しかけてもただ泣くだけだった。撃たれてもいいから助けるべきだった、なぜ私を止めたのだ、そう言ってロッテと母をなじり続けた。ロッテは何もできなかったことに忸怩たる思いで、一晩中声を殺して泣いていた。

 美しいコニー。ダンスが好きで、おしゃれで明るいコニーは、いつも周りの雰囲気を盛り上げてくれる、かわいい人だった。いったいどこに連れて行かれたのだろう。戦後、伝え聞いた話では、多くの女たちがソ連兵たちに連れ去られ、性の奴隷となり、その後、シベリアの収容所に送られてそこで死んだという。コニーがそこで死んだのか、いまだにわかっていない。

 翌朝、ソ連軍からの命令だと言って、回覧板が回って来た。すべての住民は明朝10時にマルクト広場に集合せよ、手荷物は一人一個10㎏まで、とだけ記載されている。いったいどこへ?戻ってくることはできるのか?全員壁の前に並ばせて、機関銃で射殺するのだろうか?それとも強姦の後、シベリアへ送られるのだろうか?恐怖に震えが止まらない。

 エマ叔母さんは頑としてここに残ると言う。

「コニーは必ず戻って来るわ。それまで、私はここで待ち続けます。」

普段は穏やかで優しいエマ叔母さんだが、その真っ赤に充血した目は固い決意を物語っており、ロッテたちは説得をあきらめた。空き家になった家でソ連兵が何をするのか、大体の予測はついていた。一軒一軒しらみつぶしにあたって金目の物を略奪し、ナチスを連想させるもの、例えばヒトラーの肖像画、ナチスの旗、ヒトラーの著書『我が闘争』などを発見したら、その家に火を放ち、女が残っていれば強姦する。エマ叔母さんはそれを覚悟で居残ると言うのだ。

 翌朝、ロッテたちはマルクト広場に向かった。集まった市民は3000人ほどの女、子供、老人たちだ。どの顔も恐怖で引きつっている。ソ連兵が列を作るよう命令すると、その長い列は町の郊外に向かった。ロッテは乳母車にクリスタとレナを乗せ、母はもうひとつの乳母車にアンナとルディを乗せて歩く。かわいそうに、5歳のマリーは大人に歩調を合わせて歩かなくてはならない。もともと辛抱強い子供で、文句を言わずに一生懸命小走りでついていく姿が不憫だ。三月の風はまだ冷たく、時々粉雪が舞う。皆、白い息を吐きながら、鼻を真っ赤にして無言で歩き続ける。

 1時間ほど歩いただろうか、かつては大富豪のものと思われる大邸宅に連行され、広間に200人ほどが詰め込められた。いったいこれから何が起こるのだろう?皆、一言も口をきかず、冷たい床に座って子供を固く抱き締めている。

 やがて人相の悪い、小柄なロシア人将校が部屋に入って来て、流暢なドイツ語で演説をぶちはじめた。

「俺の家族はおまえたちドイツ人に殺された。家に火を放たれて、年老いた母親も、父親も、生きたまま焼かれて、苦しみながら死んでいったんだ!おまけに俺はユダヤ人だ!おまえたちがユダヤ人に何をしたのかわかってるだろうな!知らないとは言わせんぞ!悪いのはヒトラーだけじゃない、おまえたちも糞ったれだ!地獄に落ちろ!恥を知れ!おまえらは糞だ!糞!糞!糞!」

ユダヤ人将校が延々と罵詈雑言を吐き散らしている間、皆、正視するに忍びなく、ただうつむいていた。

「これからおまえたち豚どもはシベリアに送られて奴隷になるんだ!死ぬまで強制収容所でこき使われて、そこで死ぬんだ!子供たちは売り飛ばしてやる!おまえたちが俺たちにやったことと同じことをするんだ!」

復讐に燃えるユダヤ系ロシア人の将校は、ひとしきり唾を飛ばしながらがなり立てると、荒い息遣いのまま、広間をあとにした。沈鬱な静寂が人々を打ちのめし、女たちはすすり泣き始めた。母がロッテに低い声で囁いた。

「シベリアには行かないわ。」

母を見ると、目の下には真っ黒なクマが出来、瞳は絶望に満ちている。

「ロッテ。ここで死にましょう。子供たちも一緒に。」

ロッテは頷くと、急いでコートを羽織り、子供たちにもコートを着せた。

 ソ連兵の見張りをかいくぐりながら外に出ると、裏庭を抜けて細い街道に出た。ここをしばらく行けば、レガ川のほとりに着くはずだ。ロッテと母はそれぞれ赤ん坊を抱き、三人の幼い子供たちを引き連れて、小走りに川に向かう。冬枯れのポプラ並木の枝を、冷たい風が音を立てて揺すり、道脇には白いスノードロップの花が揺れている。もはや花など二人の目に入るはずもなく、死に場所を求めて街道をひた走った。

 いよいよレガ川が見えてきた。川面は灰色の空を映して暗く、雪解け水で水かさが増しており、川の流れはすさまじく速い。残雪を踏みしめながら川べりに降りて行くと、母は何も言わずに抱いていたコニーの赤ん坊アンナを川に向かって放り投げた。眠っているアンナは弧を描いて川に落ちるとしぶきをあげ、一度沈むとまた浮かび上がり、泣き声一つ立てずに流れて行った。そうしてロッテの手から、今度は生後二ヶ月半の小さなレナを取りあげると、何の躊躇もなく川中に放り投げた。赤ん坊たちは猛烈な速度で川を下っていき、母はそれを見届けると、今度は2歳のクリスタを左腕に、3歳のルディを右腕に抱いた。

「さあ、神様の国へ行きましょう。」

母は子供たちと共に、ザブザブと川の中に入って行った。低い声で讃美歌「私の手をとり」を歌っているのが聞こえる。

 

私の手をとり お導きください

幸福な終末の時まで永遠に

私ひとりではないのです  

あなたのおられる場所に 

どうぞ私をお連れください

 

母が腰まで浸かるのを待たずに、三人は流されていき、あっという間に視界から消えた。母は泳げないのだ。歌声も泣き声も全く聞こえず、ただそこにはレガ川の濁流の音だけが響く。トランス状態のロッテは最後に残った5歳のマリーの手を取った。

「さあ、私たちも行きましょう。」

マリーはロッテの手を振り放すと、泣き叫んだ。

「いや!私は行かない!寒いもの!お水は冷たいもの!絶対に行かない!」

マリーは川べりから離れ、ロッテに背を向け逃げようと走り出した。ロッテが後を追い、マリーの手を引っ張って川べりに戻ろうとすると、マリーは激しく抵抗して叫んだ。

「母さん、お願い!私はいやなの!私はいやなの!お水には入らない!」

ロッテがマリーを抱き上げようとしたその瞬間、20mほど後方に、馬にまたがった一人のソ連兵将校の姿が見えた。将校はこちらに向かって手招きしている。ロッテは茫然自失の体で、マリーとふたり、導かれるままについて行った。

 そこは先ほどの邸宅とはまた別の屋敷で、階段を上って一室に入ると、ドイツ人の女30人ほどが一斉に暗い顔をこちらに向けた。ロッテは反射的に声を上げて泣き始め、女の中の一人が鋭い声で𠮟りつけた。

「うるさい!みんな泣きたいのを我慢してるんだ!泣くんだったら出ていっとくれ!」

 すでに日は暮れて、皆、床の上に身を横たえている。他の部屋にも女が溢れているようだ。この家全体で、いったい何人いるのだろう?

 マリーはロッテの膝を枕にして、スヤスヤと寝息を立て始めている。ロッテはマリーの小さな頭を撫でながら、魂が抜けたように喪心していた。母のことも子供たちのことも、夢の中の出来事だ。あれは現実だったのだろうか?

 やがて階段をバタバタと駆け上がる音がして、女たちは身構えた。大きなソ連兵が5,6人部屋に入ってくると、ニヤニヤ笑いながら女たちの品定めを始めた。うなだれた女たちの髪を引っ張りあげ、まじまじと顔を見る。気に入った女に「フラウ、コム!(女、来い!)」と言うと、女は腕を掴まれて階下に連れて行かれるのだった。ここにいる女たちは、ソ連兵たちの性的欲望を満足させるために集められたのだ。しばらくすると、女たちは泣きながら部屋に戻って来て、じっと床に身を横たえて震えている。

 部屋の中は真っ暗で、暖房もなく、皆、与えられた毛布にくるまっている。窓の外を見ると、おぼろ月がぼんやりと闇に浮かんでいる。 

「天の父なる神様。」

ロッテは心の中で祈り始めた。

「天の父なる神様。私は4人の幼子を殺し、愛する母を死なせました。このような罪深い私をも、あなたは無限大の愛でお許しになるのでしょう。でもそれが私には苦しいのです。もはや、あなたの光の中を歩むことが耐えられないのです。しかし、マリーは、この地獄の中にあっても、生きることを望んでいます。それならば、私はマリーのためならば、いかなる辱めも苦しみも受け入れましょう。天の父なる神様、どうかマリーをお守りください。」

 再び部屋に数人のソ連兵がドタドタと入って来て、そのうちのひとりがロッテの髪を引っ張り上げ、ロッテは憔悴しきった顔をソ連兵に見せた。

「フラウ、コム!」

ロッテは観念して立ち上がろうとすると、膝に頭を乗せていたマリーが目を覚ました。

「母さん、どこに行くの?」

「おじさんとお話があるのよ。大丈夫、すぐに戻るからね。心配いらないからね。」

必死に微笑みを作り、マリーを抱き締める。ロッテはソ連兵に腕を掴まれたまま部屋を出る。ああ、マリーでなくてよかった。神様、感謝します。ロッテは祈りが通じたことに感謝し、覚悟を決めて、ソ連兵の後に続いて階段を下りて行った。