月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

フーゴの終戦2. 捕虜生活

 フーゴたちは大きな農家に連行されると、そこにはすでに30人ほどのドイツ兵捕虜がいた。皆、やつれ切った顔で床に座り、フーゴたちに目礼した。

「ウーア!ウーア!」

ソ連兵が叫ぶ。どうやら腕時計が欲しいらしい。捕虜たちは腕時計を差し出すと、その他にも水筒、ペン、コップ、タバコ、葉巻などを取り上げられた。この後、どうなるのか?捕虜たちはただ疲労困憊しており、恐怖におびえている者はいない。殴られるのか、銃殺されるのか。「捕虜は人道的に取り扱わなければならない」などという戦時国際法など知ったことではないのはお互い様だ。

 しかし驚いたことに、ソ連兵たちは殴るどころか、すべての捕虜たちに鶏肉入りの温かいスープを与えた。いったい何週間ぶりの食事だろう。空き缶を皿替わりにし、捕虜たちは無言で空っぽの胃袋の中にスープを流し込んだ。缶一杯分のスープだったが、胃が小さくなっていたのだろう、すっかり満腹なり、農家の床の上に身を横たえると、朝まで泥のように眠った。

 翌朝、捕虜たちはソ連兵監視のもと、歩き始めたが、一体どこに向かっているのか見当もつかない。何台ものポーランドの旗を掲げた軍用トラックが、後方から通り過ぎていく。荷台に乗ったポーランド兵がけたたましい奇声をあげ、ソ連兵と上機嫌で挨拶を交わす。どうやらラテノフの攻防戦も終了し、ベルリンは完全に包囲されたようだ。ポーランド兵たちはベルリン陥落を祝う戦勝パレードに参列するらしい。もう大砲も機関銃の音も全く聞こえてこない。

 ベルリン攻防戦の数週間だけで、ドイツ兵9万人、ソ連兵8万人、ポーランド兵2800人の死者を出した。ベルリンとその近郊だけで捕虜となったドイツ兵は48万人、一般市民は1万人、これを合わせた49万人の捕虜を、ヨーロッパの至るところに分散させなくてはいけない。

 フーゴたちは、ベルリンから北130㎞に位置するソ連占領地域の特別捕虜収容所に徒歩で向かうことになった。

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1945年5月、捕虜収容所に向かうドイツ軍捕虜たち。

 

 四日間、一心不乱に歩き続けた。幸い雨も降らず、野ざらしの牧場で野宿できたし、食事にありつくことも出来た。決まってマッシュポテトだけだったが、贅沢は言えない。歩いているうちに、途中から他の捕虜たちもその列に合流し、最終的には長蛇の行軍となった。中には松葉杖をついている者、両目ともやられて盲目になった者、外傷はないが、ずっと全身を痙攣させている兵士もいた。合流するたび、監視するソ連兵も増え続け、再び捕虜たちから所持品を巻き上げて行った。結婚指輪を無理矢理指からむしり取られて悲鳴を上げている捕虜たちを見て、フーゴは慌てて自分の指輪を指から外すと、頭の包帯の奥深くに隠した。思い付きは功を奏して、指輪は最後まで強奪から守られた。

 やがてソ連軍管理下のフュンフアイヒェン捕虜収容所に到着した。そこは鉄条網で囲まれた広大な敷地で、何十軒ものバラック小屋が立ち並び、その間をセメントで固めた道が縦横に通っていた。元々は3000人の外国人労働者用の住居として建設されたのだが、終戦直前に労働者は解放され、入れ替わりにドイツ兵捕虜たちが収容されたのだ。捕虜は総勢1万5000人、許容人数の5倍である。

 

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フュンフアイヒェン捕虜収容所  

 

 到着してすぐ200人ずつの班に分けられ、三段ベッドの並ぶバラック小屋に押し込まれた。ひとつのベッドには三人が並んで横になるので、寝返りを打つのも難しいほど身体を密着させなければならなかった。

 最初に髪をバリカンで刈られたのは、シラミ予防と洗髪の手間を省くためである。バリカンを拒否する捕虜には食事が与えられず、結局、空腹に耐え切れず、すべての捕虜は坊主頭となった。

 水道はなく、飲み水は収容所内にある井戸から、各々が汲み上げて飲んだ。週に一回、その水での行水と洗濯も許されていたが、石鹸などあるはずもなく、汗と泥で汚れきった軍服と下着を、冷たい水ですすぐだけだった。歯ブラシはないが、指に細かい砂をつけて磨けば歯磨き粉と大差ないことを知った。

 食事はルピナス豆とジャガイモの入ったスープにパンが一日三回、毎日全く同じ献立だった。そのスープは恐ろしく不味いシロモノで、いつも悪臭を放つ茶色い油が浮いていた。その油が何だったのか、いまだに謎だ。10人に一個与えられる大きな丸いパンを切り分けるのは最年長の班長の役目であったが、これがまた喧嘩のタネとなった。ヤツの方がずっと大きいじゃないか、いや、そっちの方が大きい云々。

 手先の器用な捕虜がいた。小柄なおとなしい男で、いつも一人で部屋の片隅に座って、小刀や彫刻刀を使って木を削っていた。ある日、公平にパンを配当できるようにと原始的な天秤を作り、皆を驚かせた。この時から食べ物をめぐる諍いはなくなり、問題は解決した。

 パンはスープと一緒に食べるような贅沢なことはしない。スープを飲み干した後、少しずつパンをちぎると、固く丸めて口に入れ、飴玉のように溶けるまで舐め続けるのだ。そうすれば空腹感をしばらく紛らわすことが出来る。

 

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これはソビエト連邦国内の捕虜収容所での食事である。一日に600gのパン、500mlのスープを朝・昼・晩の三回、大匙一杯の砂糖、250gのそば粉粥。毎日同じものが出された。

 

 バラック小屋での整理整頓は徹底しており、収容所監督官と呼ばれる捕虜が監視していた。その監督官には大抵、ハンガリー人の捕虜が任命されたのだが、それには理由がある。ドイツ占領下にあったハンガリー兵はドイツの軍服を着た友軍であったが、終戦とともにドイツ人に対する敵意を剥き出しにしていた。監督官にはまさにうってつけで、鞭とこん棒の携帯を許されており、ドイツ兵捕虜を叩きのめすのを喜びとしていた。寝具が乱れていると言ってはどなりつけ、鞭を振るい、点呼に遅れたと言っては棒で叩きのめした。ソ連兵はニヤニヤしながらそれを眺めるだけで、自分の手を汚す手間を省けることを喜んでいるようだった。

 フーゴの班のハンガリー人は小学校も出ていない農民で、ドイツ兵捕虜を顎で使える喜びに酔いしれていた。しかし点呼の時間だけは、この監督官は面目を失った。

「ハルミンツニョルツ、ハルミンツキレンツ、ネジヴェン、ネジヴェン、ネジヴェン・・・あー、もう一度・・・ハルミンツニョルツ、ハルミンツキレンツ、ネジヴェン・・・」

ハンガリー語で数えるのだが、いつまでたってもネジヴェン(40)以上に行けない。ハンガリー語の数の数え方は、39までは30+9だが、41からは4×10+1、42なら4×10+2、という計算式で少々複雑だ。やがてハンガリー人の監督官は子供のように癇癪を起して暴れ出し、傍らに立つ捕虜に鞭を振り回す。ドイツ人捕虜たちは毎回笑いを噛み殺し、下を向いて震えていた。おかげでフーゴたちドイツ兵捕虜たちは、ハンガリー語で40まで完璧に言えるようになったが、41からは最後まで知ることができなかった。

 この収容所では強制労働はなかったが、その代わりに支配していたのは「退屈」だった。本も雑誌もなく、目新しい話題があるわけでもない。鉄条網から外には行けないので、散歩は収容所内だけ。捕虜たちは、ただぼんやりと空を見ていたり、固いベッドに横になって一日を過ごしていた。

 パン用の天秤を開発した器用な男は、今度は木彫りのチェスまで作ってしまった。キングもビショップもクィーンもナイトも、きちんと判別できる細工を施した駒で、完成品を披露した瞬間、バラック小屋では歓声が上がった。それを何セットも彫り続け、それぞれの班がチェスに没頭するようになった。数週間後にはチェス大会を開催するに至り、班ごとに選抜された捕虜が試合に出場した。緊迫した決勝戦では、捕虜たちは息を呑んで観戦した。

 このチェスを作った器用な男は、食べ物で争う捕虜たちを手作りの秤で仲裁したばかりか、今度は「退屈」までもを屈服させてしまった。それでも恩を売るわけでもなく、楽しそうにチェス大会を遠くから見つめていた。フーゴがすれ違いざまに礼を言っても、ただニコニコと笑うだけだ。その時初めて、この寡黙な男が、監督官と同じハンガリー人捕虜と知った。なるほど、それで小刀や彫刻刀を持つことを許されていたのだ。片言のドイツ語を話すので、ドイツ人捕虜たちの会話も理解していたはずだ。監督官がバラック小屋にいないとき、ドイツ人捕虜たちはふざけて「ネジヴェン、ネジヴェン、ネジヴェン・・・」と鞭を振り回す真似をして大笑いしていた。そのような時も、この器用な男は小屋の片隅に座り、ドイツ人捕虜のためにチェスの駒を黙々と彫り続けていたのだった。

 ハンガリーの歴史は常に誰かの支配下にあった。第一次世界大戦の敗戦で国土の3分の2を、人口の3分の1を失い、それを取り戻そうとナチスドイツの口車に乗ってナチス側に立ち、結局ドイツに占領され、敗戦後はこうして捕虜になっている。ハンガリーに残ったのは焦土と化したブダペストと100万人の死者、そして女性の半分がソ連兵に強姦された深い心の傷だ。戦後しばらくしてそのことを知った時、点呼で40までしか数えられずに鞭を振り回す男を馬鹿にして笑ったことを、フーゴは深く後悔した。

 鉄条網が張り巡らされた収容所では、100メートルごとに立つ監視塔から、ソ連兵が24時間見張っていた。その中に一人、心優しい監視兵がいて、捕虜が鉄条網越しに一般市民と会話をしたり、手紙を渡したりすることを黙認してくれていた。ベルリン出身の捕虜たちの中には、鉄条網越しに見知らぬ市民に自分の住所を渡し、ベルリンの家族と連絡を取ってほしいと頼んでいる者もいた。実際に、それから数日たって夫に会いに来る女たちがいた。鉄条網越しに手を握り合い、お互いの顔に触れ、涙を流すその情景を見ながら、監視兵も涙を流しているのが見えた。家族に、愛する人に会いたい気持ちに敗戦国も戦勝国もない。妻たちが鉄条網越しにタバコや食べ物を夫に渡していることも監視兵は知っていたが、見て見ぬふりをしていた。

 捕虜の最年少は13歳、ベルリン攻防戦に参加していたヒトラーユーゲントの少年たちだった。フーゴがベルリンで説得を試みた少年たちは見当たらず、別の収容所で無事に生きていてくれることを祈るのみだった。ソ連軍は、制服を着て対ソ戦に加わっていたのであれば、子供であれ容赦しない。育ち盛りの子供たちが、ビタミンもカルシウムも極端に不足した食事を摂り、運動も勉強もできないでいるのは不憫だった。それでもドイツ人捕虜たちに可愛がられ、かいがいしく面倒を見てもらっているのは救いだった。チェスを教える者、歴史を話して聞かせる者、紙も鉛筆もない環境で、地面に枝で数字や図を描きながら数学や幾何学を教える者もいれば、心躍るような冒険物語を話して聞かせる者もいた。少年たちは目を輝かせてそれに聞き入り、声を立てて笑い、はしゃいでいた。フーゴの班にもフリッツと言う13歳の少年がいて、皆に可愛がられていた。

「フリッツ、こっちへ来てごらん!猫がいるよ!」

「フリッツ、冷えてきたから上着を着なさい!」

「フリッツ、下着を一緒に洗ってあげよう。持っておいで!」

まさにフリッツ争奪戦のように、皆が世話を焼きたがった。攻防戦での地獄の後で、少しでも子供らしい生活に戻ってほしい、幸せを感じてほしいと努めている捕虜たちの気遣いは、涙ぐましいものだった。そしてまた、捕虜にとっても、その子供たちの存在は生きがいであり、癒しだったに違いない。男たちは誰かを愛し、守ることで、生きる希望を見出しているように見えた。器用なハンガリー人も同様だ。誰かを喜ばせる、幸せにする、自分が誰かの役に立つ。これは、彼にとっても精神的活力の源泉だったのではないだろうか。

 収容所の一画に、職人たちの作業場があった。捕虜の中には、家具職人、靴職人、時計職人、彫金師、仕立て屋などの多くの職人たちがいた。ソ連兵はドイツとポーランド中から作業に必要な機械や道具や材料を掻き集め、職人たちに商品を作らせた。当然、捕虜たちに給与が支払われるはずもなく、完成品はソ連本国に送られるか、ドイツ国内で販売されて、ソ連兵たちの私腹を肥やした。搾取されようが、奴隷のような扱いを受けようが、捕虜たちは毎朝、溌溂と作業場に向かい、作業場では水を得た魚のごとく、生き生きと物作りに専念していた。「本来の仕事に就ける」ということは、職人たちにとって大きな喜びであるように見受けられた。

 しかし、フーゴ自身は生きる喜びとはほど遠いところで一人、意気消沈していた。家族はバルト海の底深く、グストロフ号と共に沈んでいるに違いない。そう思い込んでいたのだ。自分が生き延びたところで、どんな幸せが待っているというのだろう?家族も故郷も財産も失ったのだ。物思いに耽るようになり、社交的な場所に集うことを、極力避けるようになっていた。よく夢に見たのは、対人地雷を踏んだまま、沼の中で立ち尽くしている若い兵士だ。青い顔でこちらをじっと悲しげに見つめている。よく見ると、それは紛れもない自分自身ではないか!汗びっしょりになって飛び起きると、隣で寝ている男がフーゴの背中をトントンと優しく叩き、

「大丈夫だ。もう終わったんだ。」

と囁いた。

 多くの捕虜たちもまた、精神に変調をきたしていた。うつ状態で一日中泣いている者、全身の痙攣が止まらない者、一点を見つめたまま微動だにしない者、夜中に叫びだす者、自傷行為がやめられない者、一日中ブツブツと独り言を言っている者。その他にも幻聴に悩む者もいれば、幽霊がいると騒ぐ者もいた。収容所に精神科があるわけもなく、何の治療もされずに、ただ放っておかれた。

 収容所にはカルチャーハウスという大型バラックがあり、そこでは講演会、勉強会、映画上映会が定期的に行われていた。これは「自由ドイツ国民委員会」と呼ばれる反ナチ運動組織のメンバーが中心となっており、ドイツ人捕虜たちにマルクス主義とレーニン主義について学ばせるのだ。この委員会のメンバーとは、ナチス政府の弾圧を逃れてソ連に亡命したドイツ共産党の党員と、ソ連軍の捕虜となった後にマルクス主義教育を叩き込まれたドイツ国防軍の軍人によって構成されていた。戦時中は反ナチスのラジオ放送、ビラや新聞の発行を通してドイツ国民の士気低迷を目的として活躍していたが、それも捏造が多いお粗末な内容だった。フーゴたち捕虜は、このメンバーたちを軽蔑し、勉強会など聞き流していた。ゲシュタポ(ナチスの秘密国家警察)の拷問と殺害から逃れてソ連に亡命した生粋の共産主義者ならまだしも、かつては狂信的なナチス信奉者だった軍人たちが、今度は偉そうに反ファシズムなどとほざくのには虫唾が走った。こういう連中に限って、「おまえたちに真実を教えてやろう。」と言わんばかりに傲慢で、自惚れが強いのだ。彼らはソ連政府からも特別待遇で、整った住環境と栄養たっぷりの食事と自由が与えられていた。

 冬がやって来た。すきま風の入るバラック小屋には暖房がない。毛布にくるまって寒さをしのぎ、木を薄く削って壁の隙間を埋め、外のたき火で暖を取った。 

 栄養失調、チフス、結核、ジフテリアなどの病気が蔓延し、 毎日1人から3人が死んだ。1万5000人の捕虜のうち、解放時までの死者は1500人。診療所があったにはあったが、薬品がほとんどない名ばかりの診療所で、死にかけた捕虜たちは気休めにそこで横になり、やはり捕虜であるドイツ人医師たちが最後を看取った。戦争を何とか生き抜き、捕虜となり、戦後に死んでいった元兵士たちの無念はいかばかりであったか。

 収容所のすぐ裏には白樺、ブナ、トウヒの広大な森があり、交代で焚き木を取りに行った。重労働であったのにもかかわらず、捕虜たちが率先して森に入っていったのは、そこが自然と触れ合える唯一の楽園であるからだ。夏には木々の香りを深呼吸し、秋には枯葉を踏みしめる音を楽しみ、冬は樹氷のきらめきに目を見張った。しかし、近付いてはいけない区域にうっかり足を踏み入れた捕虜が後で語ったことには、大きな濠の中に、死体が重なり合って捨てられていたという。病死した捕虜たちの遺体だ。焼却処理が間に合わず、そのまま濠に放り込まれていたらしい。いずれ我々も、病を得て最後を診療所で看取られ、あのブナの森に打ち捨てられ、朽ちて土になるだろう。手榴弾や機関銃で無残に殺されるより、ずっと幸せな死に方じゃないか。捕虜たちはそう語り合った。

 ある日、収容所に10人のソ連人医師がやって来た。ドイツ人捕虜の医師と合わせて合計20名で、まずは600人の捕虜の健康診断が始まった。全員裸になると、聴診器を胸にあてたまま咳をさせたり、腹部を軽く叩いたり、口の中や目を覗き込んだりした後、捕虜は二つの列に並ばされた。ひとつの列は「働ける者」 、もうひとつの列は「働けない者」。医師たちはすぐにフーゴの頭の傷の痕を見つけ、「働けない者」の列に並ばせた。アウシュヴィッツ強制収容所だったなら、この列は即刻ガス室行きだったであろうが、ここでは正反対だった。「働けない者」の意味は、「釈放」だったのだ。フーゴはその場で「終了証」を受け取り、明日の朝にはここから解放されることが伝えられた。ほとんどの「働ける者」たちは、数日後に東部の捕虜収容所に移動し、そこで肉体労働に従事するという話だった。

 釈放される捕虜の中に、少年フリッツもいた。翌朝、出口の前でフリッツを可愛がっていた男たちがフリッツの頭を撫でたり、ほっぺたを軽くつねったりして別れを惜しんだ。本当は抱き締めたかったのだろうが遠慮している様子で、男たちは懸命に涙をこらえていた。フリッツが突然、一番かわいがってくれていた男に抱きつくと、その男もフリッツを抱き締めて泣き始めた。周りももらい泣きし、監視塔のソ連兵までが涙を拭いているのが見えた。

 1945年12月初め、こうしてフーゴは7ヶ月間の捕虜生活を終え、晴れて自由の身となった。

 ソ連、アメリカ、フランス、イギリス、ポーランドなどの連合軍管理下にあった収容所に収容されていたドイツ人捕虜は、累計1110万人、そのうち死者は1割強の122万人、最も死亡率が高かったのはソ連管理下の35%、続いてポーランドの32%、最も低かったのがイギリスの0,03パーセント。運良くイギリス管理下で捕虜になった者は、戦時国際法に則った人道的な扱いを受け、ほとんど全員が無事に生還している。

 ソ連とポーランド管理下の収容所での死亡率の高さは、ドイツ人に対する憎悪に起因する。ソ連人の死者は兵士・民間人合わせて2700万人と膨大なのはよく知られているが、ポーランド人の死者は600万人で、そのうち570万人が民間人なのだ。このことからも、ドイツ軍の蛮行は容易に想像できる。ドイツ軍が手当たり次第に民間人への攻撃を繰り返したことへのポーランド人の憎しみは、そのまま捕虜たちに向けられたのだ。

 連合軍はモスクワ会議で1948年までにドイツ人捕虜を全員釈放することを締結したが、ソ連はそれを無視、最後のドイツ人捕虜1万人が釈放されたのは1955年だった。実に10年間を収容所で過ごした捕虜もいたのだから、フーゴの7ヶ月間というのは非常に恵まれていたことになる。

 フーゴは数人の同僚とフリッツと共にベルリンに向かうことになったが、いまだ復旧していない鉄道路線があり、開通している汽車の停まる駅まで、丸一日、歩き続けなければならなかった。収容所では若干の小銭が与えられていたので、途中、農家で野菜を分けてもらい、焚き木を集めて火を起こし、スープを作った。夜は農家の納屋で休ませてもらい、翌朝にはまた歩き始め、やっと鉄道駅に到着した。

 汽車は解放された捕虜でいっぱいだった。やっと自由になれた捕虜たちの喜びはひとしおで、どの顔にも笑みがこぼれ、フリッツも家族に会える喜びにはしゃいでいた。車窓から外を眺めると、そこには灰色の空と冬枯れのなんとも寂しい風景が広がっていた。ベルリンに近付くにつれ、焼け焦げて放置された戦車、崩れ落ちた家屋が増え始め、生々しい戦争の傷跡がいまだに見て取れた。

 夕方近くにベルリンの駅に到着すると、プラットホームは凄まじい人でごった返しており、その人いきれに圧倒された。捕虜釈放のニュースをラジオで聞いてた人々が、今か今かと、夫、息子、父親、恋人の帰還を待っていたのだ。再会の喜びにホームは歓声に包まれた。叫び声、泣き声、笑い声。抱き合い、キスをし、子供を抱き上げ、頬ずりをする。

「フリッツ!フリッツ!おお、神様!」

フリッツの母親がこちらに向かって走ってくるのが見えた。フリッツと母親は、抱き合いながら声を上げて泣いた。

「ああ、フリッツ!ああ、フリッツ!もう離さない!大変だったね。辛かったね。」

「そうでもないよ、楽しかったよ。」

ひとしきり泣いた後、照れくさそうにフリッツは母親の胸の中でそう言った。

 幸せに包まれる人々がいる中で、悲しみもあった。釈放された捕虜の中に息子や夫がいないことを知り、肩を落として家路につく人々、息子の写真を手に、この子を知らないかと捕虜たちに聞いて回る母親たち・・・。

 フーゴはフリッツが無事に家族のもとに戻ったことを見届けると、同僚たちに別れを告げ、駅を出た。

 鉄道は復旧したが、ベルリンはいまだに瓦礫の山だ。鉄骨がむき出しの廃墟の間に、レンガや石がうずたかく積まれ、女たちが一列に並んで一つ一つ手渡ししながら瓦礫を片付けていた。これがいわゆる「瓦礫女」と呼ばれた女たちだ。

 ドイツ全国で1600万軒の住居が破壊された。学校は50%、鉄道は40%が爆破された。この瓦礫4億立方メートルを何としてでも片付けなくてはならない。そこで駆り出されたのが女たちだ。終戦直後のドイツは圧倒的に労働力不足で、女は男よりも700万人も多かった。そこで連合軍の命令により、15歳から50歳までの女たちが肉体労働に従事することとなった。夏は炎天下で、冬は氷点下の中で、来る日も来る日もひたすら石やレンガを片付け続ける光景が、ドイツ全国のいたる都市で見られた。ツルハシと手巻きウィンチだけを使って、崩壊寸前の廃墟を壊していくのだが、レンガは壊さないよう注意深く取り出して、再利用する。残りの瓦礫は一カ所に手渡しで集められ、それをまた廃棄処分場にリヤカーで運搬する。それらはすべて女たちの仕事であった。

 

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 上:1945年秋、ベルリン。バケツリレー式に瓦礫を運ぶ「瓦礫女」たち。

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 上・下:取り出したレンガは整えて再利用された。作業中もおしゃべりに余念がない。

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上:ドイツの町を再建したのは女たちだ。

 

 フーゴはハイネス少佐の実家のあるファルケンゼーに赴き、そこで私服を借りることにした。10㎏以上痩せただろう、ズボンはベルトで締めていなければずり落ちてしまうほどで、そのベルトまで穴が足りなくなっていた。それにしても、このままボサボサの頭と無精髭のまま、少佐の実家を訪ねるのは気が引けた。営業している理髪店を見つけると、早速、髪を切ってもらうことにした。愛想のいい床屋はフーゴの髪を切り、髭も丁寧に剃ってくれたが、料金を取ろうとしなかった。

「お代は結構ですよ。ご苦労様でした。お気をつけて。」

ねぎらいの言葉が胸に沁みた。終戦間際には兵士はあれほど疫病神扱いされていたのに、捕虜生活の苦労を伝え聞いていたのだろう、町の人々は優しかった。

 ファルケンゼーのハイネス少佐の実家は戦火を免れ、年老いた両親はフーゴの訪問を心から歓迎してくれた。少佐の私服を何枚も与えてくれたばかりか、心づくしの手料理までご馳走になった。少佐はフーゴがベルリンへ行ってしばらくして、やはりピノの工場からベルリン近郊に移送されたらしいが、その後は消息不明であった。どこかで捕虜になっているのか、攻防戦で死んだのか。両親の落胆ぶりは見るに忍びなく、食事を終えたフーゴは心から礼を言うと、駅に向かった。

 私服に着替えたフーゴはライプチヒの姉を訪ね、そこで私たちの消息を初めて知ることになる。死んだと思っていた家族が全員無事と聞いたとき、フーゴは床に這いつくばって泣いたと言う。

 これがフーゴの終戦直前、直後であった。

 5年8ヶ月7日。ドイツ軍のポーランド侵攻から始まって、ドイツ無条件降伏で終わったヨーロッパでの第二次世界大戦の年月だ。この間に、全ヨーロッパで一般市民、兵士を合わせて6千万人の死者を出すことになった。そのうち600万人がホロコーストの犠牲者だ。

 終戦直後、生き残ったドイツ国民は、生き別れた家族を探し、最低限の生活ができる住処を探し、食べられそうな食料を探してさまよった。瓦礫を片付け、戦地から戻る家族を待ち、配給のスープに列を作り、パンを奪い合う。

 戦前、私は東プロイセンで、平和で幸せな暮らしが続くとずっと信じていた。友人や家族たちとのダンス、コーラス、ボート遊び、ピクニック。決して贅沢を夢見たわけではないし、ましてや他人の幸福を奪おうなどと思ったことは一度もない。幸せへと続くはずの道を、私たちはいったいどこから外れてしまったのだろう。