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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

シュレスヴィヒにて

 キール港に降り立つと、何十台ものバスが私たちを待っていた。

 キール市は海軍の本拠地であることと、潜水艦生産を含むドイツで最も大きな造船所を三つも所有していたことから、開戦してすぐに爆撃機の標的となり、市の人口27万2,000人のうち、16万7,000人が家をなくした。町の中心地が壊滅状態であったにもかかわらず、犠牲者が他の大都市と比較して少ないのは、キール市が早い時点で多くの頑強な防空壕を建設したことと、子供とその母親を早くから郊外に疎開させていたことに起因する。焼け出された市民はいち早く安全な土地に居を移せるよう、住宅も移動手段も充実していた。まさしく臨機応変、準備万端な模範的な町だった。避難禁止令が発令されていた東プロイセンとは、雲泥の差である。

 そのせいか、難民に対する政策も驚くほど綿密に組織化されており、滞りなく遂行していった。まず私たちが港に降り立つと、グループごとに分けられ、バスで駅に向かった。そこから汽車で北西50kmほどに位置するシュレスヴィヒに移動すると、再びバスが待っており、難民収容施設として使われている古城に輸送されたのだ。待ち時間も割り込みも暴力もない円滑な移動に、私たち難民は感動していた。

 私たちが最初に収容されたのは、中世の城、ゴットルフ城で、かつてはデンマーク貴族の居城であったが、のちに兵舎となり、戦争末期にはこうして難民の収容施設となった。

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上:兵舎として使われていた時代のゴットロフ城

 つい数週間前まで馬小屋や映画館で寝ていた浮浪者同然の難民たちが、いきなりバロック様式の豪奢な城に住むことになったのである。しかも床に直接寝るのではなく、簡易ベッドに眠ることが許されたのだ。それぞれの部屋に12台ものベッドが並び、食事付きで医者も常駐していた。夢のような待遇に、私たちは天にも昇る心地だった。

 しかし実際に古城に住んでみると、極端に高い天井と石造りの床は底冷えがして、多くの難民が風邪を引き、熱を出した。風邪でなくとも緊張の糸が切れたせいだろうか、原因不明の発熱や発疹に悩む難民も多かった。私もずっと頭痛に苦しんでいたが、幼い子供三人を抱えている身では休んでいるわけにも行かない。フーゴに無事に本土に到着した旨を書いた手紙を送ったが、そもそもマグデブルグの住所がまだ存在するのかもわからない。とにかくここでフーゴからの返事を待つしかない。どうか無事でいてくれますように。

 輸送船上から続いていたギザの下痢と咳は回復するどころかひどくなる一方で、赤ん坊特有のむちむちとした脂肪はすっかり削げ落ち、足は鶏がらのように痩せてしまっていた。アニタは全身に赤い発疹ができ、始終ボリボリと掻いている。私は到着してすぐ、古城内の診療室にアニタとギザを連れて行った。何百人という難民が城に住んでいたのだ、当然、診療室前の廊下には長蛇の列が伸びていたが、待つことにはすっかり慣れている。

 そうして私は難民の担当医、フリーデ先生と出会ったのだった。

 私が子供たちを連れて診察室に入っていくと、明るい金髪を無造作に頭の上に結い上げた若い女医が、カルテに何か書き込んでいる。これがフリーデ先生だった。こちらを見る優しい眼は透き通るように薄いブルーだ。アニタに微笑みかけると、机の上の白い陶器の入れ物から赤い小さなキャンディをひとつ取り出して与えた。甘いお菓子など何週間も食べていなかったので、アニタは目を輝かせ、すぐに口に放り込んだ。4歳の息子にもそれをもらえないかと尋ねると、

「もちろんですよ。他にもお子さんは?」

と微笑んで私にキャンディをつまんで渡した。

 最初にアニタを診察すると、ウィルス感染によるものなので、すぐに皮膚科に行くよう手配してくれた。ギザは重度のウィルス性胃腸炎を患っており、このまま寒い古城に置いておくわけにはいかないと言う。

「入院ですか?」

先生は鋭い目で私を一瞥すると、

「いいえ、入院はさせません。入院するには悪すぎます。」

と言うのだ。当時、私は、「きっと病院は人手不足なのだろう。」くらいにしか解釈していなかった。しかし、戦後になってようやくわかったのであるが、ナチス政府の安楽死政策T4は、1941年、カトリック教会の大反対により公には中止したと思われていたが、実は極秘に継続されていたのだ。障害を持っていたマルティンが殺されたように、治る見込みがないと診断された障害者と重病人は、ガスや投薬でいまだに殺害されていた。ギザはかなりの重症であったので、病院が殺害施設に送る可能性があるとフリーデ先生は判断し、それを阻止しようとしていたのだ。あの時の先生の鋭い青い眼の中に、医師としての良心を読み取るには、当時の私は無知すぎた。

「ギザは私が自宅で世話をします。私にも生後四ヶ月の赤ん坊がいますから、私の母乳を二時間ごとに20ccずつ与えます。薬もありますから大丈夫、元気になりますよ。私の留守中は義母と家政婦が私の代わりに世話をしますから、どうぞご心配なく。」

唖然としている私に、先生はスラスラとそうよどみなく、そう言ったのだ。「生きる価値のない命」を抹殺することを厭わない医師と、小さな命を何とかして助けようとする医師がいて、私が後者に出会うことが出来たことを、戦後どれほど感謝したことだろう。

 次に、先生は私をまじまじと見つめ、

「シュライバーさん、あなたを診察させてください。顔が赤いですよ。熱がありますね。」

と言って、白衣のポケットから体温計を取り出し、私の熱を測った。38,5度もあり、私が一番驚いた。頭痛がずっと続いてはいたが、気にしないようにしていたのだ。

「多分、過労と栄養失調でしょう。すぐに入院してください。」

「先生、それは無理です。4歳の息子も年老いた義母もいるんです。アニタも病気ですし・・・。」

 「坊やとお義母さんは、あなたが入院している間、カトリック系の老人ホームに入ってもらいましょう。私はそこの専属医でもあるので、館長をよく知っています。ここよりも暖かく快適ですよ。アニタは小児科病棟に入院させましょう。薬と栄養剤で発疹は消えますよ。シュライバーさん、今のあなたに必要なのは休息と栄養です。しばらくは子供たちの世話は休んでください。このまま頑張りすぎたら、あなたが倒れてしまいますよ。難民は入院費もすべて無料ですから心配いりません。」

呆然としている私を見つめる薄いブルーの目が微笑んだ。

「大変でしたね。ゆっくり休んでください。」

私の両目から涙がはらはらとこぼれ落ちた。

 その日からギザはフリーデ先生のところで世話されることになった。先生は搾乳した母乳を20ml、2時間ごとに与え ( 夜中も例外ではない!)、先生の仕事中は、先生の義母と家政婦が世話をしてくれたのだ。医師としての義務を遥かに超えた、フリーデ先生の慈愛に満ちた行いを思い出すと、今でも目頭が熱くなる。 

 こうして義母とフランツは老人ホームに、アニタは小児病棟に、私は大きな病院に移ることになった。ヴァリーはカトリック教徒であり、修道女を手伝うということで特別に老人ホームへの入居を許された。

 さて、それぞれがそれぞれの場所に移り、私も病院で診察を受け、いよいよ入院することになった。

 入院手続きを終えた直後、私は看護婦に言った。

「ひとつだけ、お願いがあります。」

「なんですか?」

「お風呂に入らせてください。」

「もちろん叶えてあげますよ。タオルとガウンは?スリッパは?」

「何もありません。」

看護婦は仰天して、病院中走り回ってタオルとガウンとスリッパを調達してくれた。命からがら逃げてきた難民に、ガウンとスリッパの所持を尋ねる看護婦にこそ、私は驚いた。私が故郷から持ってきた物のほとんどは、子供たちの衣類、布オムツ、食料品、寒さをしのげる布団や毛布などで、自分の予備の衣類など、全くと言っていいほど持って来れなかったのだ。ほとんどの難民の母親が似たり寄ったりだった。

 そうして私は、なみなみと熱い湯の入ったバスタブに、心ゆくまでつかることが許された。何週間分もの泥と埃と垢を、やっと洗い流すことが出来る感動。清潔な身体で清潔なベッドに横たわるという至福。本物の枕の上に頭を乗せ、ふかふかの羽根布団にくるまって、私は世界で一番満たされた眠り姫になった。

 病室は12人部屋で、患者はすべて難民だった。夕食は一杯の紅茶にひと切れのパンと一枚のハムのみ。満腹にはならなかったが、皆、満足だった。

 私のベッドの隣人モニカは、教師の妻で8人の子供の母親だ。やはり東プロイセンからドイッチュランド号で、犬まで連れて逃げてきた。3人の子供でも決死の覚悟だったのに、8人の子供と犬である!誰一人死なさずに逃げ切れたのだ、よほど強い精神力を持っているに違いない。本土に到着してすぐに過労で倒れたのは、至極当然であった。

 モニカは低い艶のある声を持ち、素晴らしく歌がうまい。私たちが歌をねだると、美しいアルトで民謡や芸術歌曲や歌謡曲を歌い始める。私たちもそれに続いて合唱を始める。悲しい歌、楽しい歌、恋の歌、失恋の歌・・・。それは心癒される素敵な時間で、夕食後の楽しみになった。ある日、看護婦がやって来て、他の患者の迷惑になるから、もう歌わないようにと注意を受け、素敵な合唱の時間は終わりを告げた。ところが次の日に同じ看護婦がやって来て、患者たちから、合唱が聴けないのが寂しくてしかたない、また歌ってほしいとの要望があったと言う。私たちは大喜びで前の晩よりも声を張り上げて合唱した。

 モニカは東プロイセンの小さな町の出身で、避難する前は配給切符をそれぞれの家庭に配る役を担っていた。教師の妻ということもあって、信用されていたのだろう。突然避難することになって、市から預かっていた配給切符は、まだ手元に持ったままだ。ここシュレスヴィヒは、東プロイセンの配給切符をここでそのまま使えるという温情をかけてくれたので、当然、その配給切符を違法に使った。ある晩、私たち患者は、モニカの子供たちが届けてくれたパン、ハム、チーズ、ソーセージ、ビールなどを「苦しくなるまで」胃に詰め込んで、我が世の春を謳歌した。ただひとり、モニカだけが、罪悪感にうなだれてはいたが。

 若い看護婦リーザはエストニア出身、飛び切り明るくひょうきんで、患者たちの人気者だった。リーザが「皆さん、ご機嫌はいかがですか?」と、大きな目をクルクルさせて病室に入ってくると、空気が華やぎ、皆が笑顔になる。「リーザは太陽ね。」患者たちは口をそろえる。「お腹が空いたってエストニア語で何っていうの?」誰かが尋ねると「ネルク。」と教えてくれた。それからはリーザが病室にやってくると、「ネルク!ネルク!」の大合唱。これにはリーザもお腹を抱えて笑っていた。

 リーザが夜勤の時は、私たちのおしゃべりに無理矢理引き込み、身の上話をさせた。しかし明るいリーザの半生は、決して明るいものではなかった。両親はエストニアでソ連軍に連行され、どこかで捕虜となっているはずだ、姉妹の行方もわからないと言う。

 明るく屈託なく笑う人々は、必ず悲しみを密かに抱えていたように思う。ヴァリーもダンツィヒの小さなお婆さんもそうだった。私もまた、父と弟の死を心の中で常に悼み、フーゴ、母、姉とその子供達の身を案じていたが、努めて明るく振舞っていた。立ち止まってしまうと、悲しみと不安がお腹の底からジリジリと熱を持って湧き上がり、喉元あたりまでやってくる。それを思い切り飲み込んで、笑い、歌い、しゃべるのだ。私にはリーザの気持ちがわかるような気がした。

 悲しみの中にいても、絶望しない人と絶望する人がいたが、それは誰かに必要とされているかいないか、という点が大きかったように思う。私には守るべき子供たちがいて、ヴァリーも私や子供たちに必要とされていて、看護婦のリーザも患者たちから慕われていた。そして、私は絶望した母親というものを、この時代ほとんど見なかった。

 私たちの隣の部屋に入院していた15歳の難民の少女が先ほど亡くなったと、看護婦が話してくれた。チフスを患っていたという。母親と娘ふたりで東プロイセンからやっと逃げてきたというのに、その母親は守るべきものを失って、これからどう生きていくのだろう?会ったこともない母親の悲しみを思い、私は布団をかぶって泣いた。

 入院して一週間後、フリーデ先生が、ギザの下痢もすっかり良くなり、ミルクも残さず飲んでいると連絡をくれた。アニタのところには、ヴァリーと義母が毎日通って様子を見に行ってくれており、発疹も少しずつ薄くなっているらしい。フランツは老人ホームの修道女や老人たちから可愛がられ、甘やかされていると見舞いに来た義母が話してくれた。私はまだ微熱とめまいがあり、トイレに行く以外はベッドで横になっていた。

 ある日、私は頭に軽い痒みを覚え、それが日に日に強くなっていった。まさかとは思ったが、看護婦に髪をかき分けて調べてもらうと、シラミが数匹這い回っているのを発見した。泣きそうになっている私に、看護婦は容赦なく鼻が曲がるような悪臭のする化学薬品を噴射し、専用のキャップを頭にかぶせた。これを3日間被っていろと言う。私のシラミキャップを見た同室の患者たちは悲鳴をあげ、全員看護婦にチェックしてもらったが、幸か不幸かシラミを持っているのは私だけだった。一体どこから拾ってきたのだろう?そういえば、ドイッチュランド号で隣に寝ていた少女が、始終頭をボリボリ掻いていたことを思い出した。間違いなくあの子だ。その子の母親は、ギザの夜泣きがうるさいとしょっちゅう私に難癖をつけていたことを思い出し、悔しい思いをした。

 その日の晩、空襲警報が鳴り、私たちは防空地下室に向かった。空襲の恐怖より、シラミキャップ姿を人前にさらす方が辛かったことを覚えている。結局、また誤報だったのだけれど。

 2月28日はフランツの5歳の誕生日だった。午後、義母とここに見舞いに来るのだが、入院中の私は何もプレゼントが用意できず、どうしたものかと悩んでいた。看護婦のリーザに相談すると、大きな棒付きのカラフルなキャンディを買ってきてくれた。フランツの喜びようは相当なもので、リーザに心から感謝したものだ。

 こうして、二週間の入院生活で私はすっかり体力を取り戻し、いよいよ退院することになった。

 しかし、フーゴと姉たちからの音沙汰はいまだにない。このまま古城にずっと住み続けるわけにもいかないが、他に行くあてもない。これから難民生活の苦難が待ち受けていると、一体誰が予想できただろう?