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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ドイッチュランド号

その晩、私だけお婆さんのところには泊まらず、映画館で一夜を過ごすことになった。夜中に輸送船準備完了の告知があるかもしれないからだ。

グストロフ号への乗船で映画館も空きスペースが出来ただろうと思いきや、難民たちは増える一方だった。椅子は背もたれが倒れないので、肘掛けに頬杖をついてうつらうつらするのが精一杯、難民たちは皆、体力も精神力も限界に達していた。昼にはスープとパンの配給があったので、その時だけお婆さんのところから家族を呼び寄せた。お婆さんの配給分の食料をこれ以上奪うわけにはいかない。

ここでは見ず知らずの難民同士の雑談で時間を潰すくらいしかやることがないのだが、私が聞かされた目撃談は身の毛もよだつ内容ばかりだった。

ある難民は、鍵のかかっていない空家に入ると、ベッドの上に横たわる血まみれの裸の女の遺体を何体も見た。ロシア兵に強姦されたあと、腹部を撃たれたのだ。またある難民は、ロシア兵数人に膣が破れて死ぬまで強姦された少女たちの遺体を見た。別の難民は、下半身むき出しのまま道に並べられた何十体もの女たちの遺体を見た。通りすがりの難民の女たちが、かわいそうに、かわいそうにと泣きながら、すべての遺体のスカートの裾を直してあげていた。また他の難民は、16歳の少女がテーブルの上で強姦され、10人以上のロシア兵が列に並んで順番を待っているのを見た。

ソ連軍は日に日にこちらに近付いて来るのに対し、守勢に立つドイツ軍の兵力はみるみる弱体化していった。戦後の統計では東プロイセン、ポンメルン、シュレージアンからの難民女性の140万人がソ連兵に強姦され、母親を殺された多くの幼児たちは、飢餓と寒さの中で死んでいったと言う。

私の胸の中で不安がざわざわと音を立てる。母と姉たちがまだ来ない。そして私たちはいつ輸送船に乗れるのか。ソ連軍がここに到達したら、絶体絶命だ。

港町ピラウからの難民は、ダンツィヒまで氷の潟を歩いて逃げてきたのであるが、戦闘機の機銃掃射により、何百人という難民たちがバタバタと倒れていく様や、割れた氷の中に人を乗せたまま沈んでいく多くの馬車を見たと言う。まさしく母と姉たちも、ピラウからの船に乗れなかったとすれば、氷の潟を歩くルートを取ったはずだ。

もう聞いていることができず、私はホールの片隅にたたずみ、目を閉じて祈ることしか出来なかった。ああ、神様。ああ、神様。 どうかお守りください。

館内のどこに行っても、別の集団からの話し声が耳に入ってくる。

ある難民の女は、縞の囚人服を着た骨と皮になった何千人ものユダヤ人たちの行列を見たと言う。シュトゥットホフ強制収容所から長い列が続き、立ち止まった囚人はその場でナチス親衛隊に射殺された。多分、ソ連軍が来る前に、収容所の証拠隠滅をはかっているのだろう、潟まで歩かせた後、全員そこで射殺して、遺体を海に投げ込んでいるのだろうと噂した。そして戦後、その噂が事実であったことを知った。

12歳くらいの少年は、家を出る前に家中のヒトラーの写真、ヒトラーの自伝『我が闘争』、ナチスの鉤十字旗、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)の制服を燃やして来たと言う。ソ連軍がそれを見つけたら、確実に家に火を放つと言うのだ。ナチス臭のするものはすべて隠滅することが、家を確保しておくための鉄則だと誇らしげに語る。その少年が故郷に戻れると確信しているのが哀れであった。

その時の映画館を支配していたのは、悲しみ、怒り、不安、恐怖だけだった。汚れた窓から外に目をやると、雪をかぶったアパート群が見える。凍りついた道から吹き上げられた粉雪が、灰色の空に舞い上がる。恐怖に押し潰されそうになりながら、ホール内に視線を戻した。

すぐそばにひとりで座っている老人と目が会った。真っ白な髪に顔を覆う真っ白な髭、ミトラ(司教冠)のような赤い帽子をかぶり、聖ニコラウスのような風格がある。老人は私をじっと見つめると、おもむろに傍らの黒いケースの中から古いボタン式アコーディオンを取り出した。ガヤガヤと騒々しいホールに、突然アコーディオンの音が響き渡った。老人はフレンチ・アコーディオンのミュゼット(フランスのワルツ)を軽やかに弾き始めたのだ。それは不思議な体験であった。戦車、銃殺、機銃掃射、強姦、死体の山が忽然と姿を消し、突然、映画館に花の都パリが現れた。エッフェル塔、チューリップの花壇、ペチュニアとゼラニウムの窓が並ぶシャンゼリゼ通り、愛くるしいパリジェンヌたち。聖ニコラウスの風貌には似つかわしくない、軽快で明るいアコーディオンの調べに、私たちはただ黙って呆然と聴き入っていた。音楽が一瞬にして空間を全く異なるものに変えてしまうという魔術を、私たちは目の当たりにした。人々の顔から恐怖の影が消え、少しずつ生気が戻っていったのだ。50年以上経った今でも鮮烈に記憶に残っているあの老人は、本当に人間だったのだろうか?魔法使い?いや、一ヶ月以上到着が遅れてしまったサンタクロース?

しばらくして、輸送船の準備が終了したので港行きの汽車に乗るよう館内アナウンスが入り、難民たちは歓声をあげて荷物をまとめ始めた。私もお婆さんのところに飛んで行き、今度こそは乗り遅れまいと家族と共に駅に走った。もちろん、ぬいぐるみのルポも一緒だ。

パニックを避けるためだろう、グストロフ沈没のニュースを難民たちは聞かされていなかった。今回はなんとか問題なく乗車できたのだが、相変わらず超満員で、ギュウギュウ詰めの中を立っていなくてはならなかった。しかしそんなことは大したことではない。私たちは自由と安全への切符を手にしたのだから。

ところが30分ほど乗っていただろうか、小さな駅で汽車は停車し、全員降りるようにと車掌が叫んだ。港などどこにも見えない。事故でもあったのか、汽車が故障したのか、空襲で線路が破壊されていたのか。「港まで徒歩で行ってください。」と車掌に言われるががまま、何千人という難民が荷物を抱えて歩き始めた。

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30分ほど歩いた時、義母がもう荷物を運べない、足が動かないと泣き始めたその時、造船所から見習工と思われる若者ふたりが出てきた。私が、

「すみません、ちょっとの間でいいんです。義母の荷物を持って頂けませんか?」

と頼むと、ふたりはにっこり笑い、義母と私の抱えている荷物を持って一緒に歩き出した。

30分ほどしてそのうちのひとりが、

「もう職場に戻らないと、マイスターに叱られます。そろそろ帰っていいですか?」

と申し訳なさそうに言うと、もうひとりが、

「いや、僕たちだってもうすぐ逃げなくちゃいけないんだ。その時は誰かの助けが必要になるかもしれないよ。それにご婦人と子供たちを見捨てるわけには行かないよ。最後まで行こう。」

と言って引き止めた。しかし行けども行けども輸送船は見えてこない。私たちを追い越していく難民たちに、気は焦るばかりだ。定員を超えて乗船できなくなったら?

2時間ほど歩いただろうか、やっと大型船の影が見え始めた時、私は若者たちに礼を言い、いくばくかの心付けを渡そうとした。

「当然のことをしたまでです。お礼には及びません。」

若者たちはそう言うと、マイスターがよほど厳しいのか、脱兎のごとく走り去った。

私たちが乗船を許されたのは、1923年製のドイッチュランド号という客船だった。

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上:ドイッチュランド号。

 

このドイッチュランド号は、戦前、ハンブルグーアメリカ間を往復する豪華客船であったが、戦争中は弾薬と兵士の輸送に、戦争末期には難民と傷病兵の輸送に使われていた。

長い列に並んだ私たちは、この大きな鉄の塊を見上げて感嘆のため息を漏らした。

しかし、今度は乗船の許可がなかなか降りない。氷の上に立ち尽くしていると、つま先は凍りそうで、すでに麻痺して感覚が無い。義母はトランクの上に座ってアニタを抱き締めている。フランツだけがそこらじゅうを走っては戻り、走っては戻り、ほっぺたを真っ赤にして楽しんでいる。私たちの視界から消えたと思うと、今度は見たこともない立派な子供用のソリを引きずって戻ってきた。難民が荷物の運搬に利用したものの、乗船で必要なくなったのだろう。主人を失ったソリがポツンと置かれているのを、フランツは見逃さなかったのだ。素晴らしい収穫に得意満面、アニタとフランツはソリにまたがると、ヴァリーに縄を引いて走ってもらい、船着場で歓声を上げていた。

二時間ほど待たされた後、海軍少佐だろうか、「小さい子供を連れた女性から乗船します。こちらの優先列に並んでください。」と叫んでいるのが聞こえ、私たちはタラップ昇降口に向かった。言われた通りに優先列に並んで待っていると、私たちの後ろに見覚えのある女二人が立っている。なんと、チーズ市場からダンツィヒに向かうバスに乗車しようとした時、私たちを無理矢理引き摺り下ろした、あの二人ではないか!女たちの乳母車は荷物の運搬だけに使っているのに、赤ん坊を乗せていると偽って、優先列に来ていたのだ。あの時の怒りがまざまざと思い出された。

扉が開き、難民たちが入口になだれこんだ。

「落ち着いて!順番に!」

どれだけ乗組員が叫んでも効果はない。列はたちまち崩れ、怒涛のごとく難民たちが入口になだれ込む。

「やめなさい!押さないで!並びなさい!」

すぐ横にいたはずの義母が、いつの間にか後ろへ後ろへと追いやられ、ヒルデ!ヒルデ!助けて!とわめいている。

「お義母さん、前に行ってください!」

後ろを向いて叫んでいる私を、例のふたりは力尽くで押しのけ、我さきにと入口に入り込もうとする。小さなアニタの腕をつかんで引き摺り下ろそうとするのを、私は見過ごすわけにはいかなかった。女の耳をつかむと、力任せに後ろに引っ張った。

「痛い!痛い!何するのよ!」

「それはこっちのセリフよ!子供になんてことをするの?恥を知りなさい!」

女は悲鳴を上げ、尻もちをついた隙に、私たちは船内に入り込んだ。子供たち、義母、ヴァリー、ぬいぐるみのルポ。全員揃っていることを確認すると、体中の力が抜け、汗が身体中からドッと噴き出した。ヴァリーが、

「奥様、あの二人ですよね。私も気が付いてびっくりしました。もっと痛めつけても良かったのに。」

とクスクス笑っている。いつも優しいヴァリーにはふさわしくない言葉に、私は目を丸くし、ふたりで笑った。

それにしても何千人という難民たちがいるなかで、同じシチュエーションで再会するとは!これは何かの運命だろうか?

あれだけの人の波をスルスルとくぐり抜け、フランツは真っ先に船内に入り込んでいた。しかも重いソリを持って!フランツは今後もすべての艱難からソリを守り抜き、その後10年もの間、子供たちの大切な遊び道具となったのだった。

船は巨大で、赤い絨毯が敷き詰められた贅沢な内装だったが、とても豪華クルージングを楽しめる状況ではなかった。と言うのも、乗客の定員は本来、一等、二等、三等合わせて約1500人だったのに対して、この時の難民の数は約1万人、食堂もホールも映画館も、すべての空間に難民たちがひしめき合っていたのだ。

私たちは乗組員がバーとして使っていた部屋で寝ることを許されると、20人ほどがそれぞれの陣地を毛布で確保し、足の踏み場もなくなった。

船上では食事もふるまわれた。一万人以上の乗客全員が食べるのだ、量は少なかったが文句は言えない。私は湯気の立つ熱いスープを飲みながら、こんな贅沢が許されるなんて、と感動していた。

ギザは下痢と咳が続き、一日中むずかっていた。船医に診てもらうと、感染症の胃腸炎だと言う。夜中も激しく泣いていたが、私は全く気が付かず、泥のように眠っていた。同じ部屋に寝ていた難民たちに揺り起こされ、母親のくせにあの大号泣が聞こえないのかと呆れられた。翌日、看護婦が私のところにやって来て、同室の難民から、赤ん坊をこれ以上同じ部屋に寝かさないでくれ、大泣きしている赤ん坊の横で、母親は平気で熟睡しているとは何たることか、と苦情が来ている、夜は廊下に出てもらえないかと言う。赤ん坊を暖房の効かない、人がひっきりなしに通る廊下に出すなんて、それが人のすることですか?と私はいきり立った。

「赤ん坊は病気なのです。船室に置いておくのが無理だと言うのなら、医務室に置いてください。でなければこの子は死んでしまいます。」

その晩から私とギザは医務室のベッドで眠ることを許され、私は昏々と眠り続けた。果たしてギザが夜泣きをしたかどうか、さだかではない。

同室の難民のなかに、生後半年ほどの赤ん坊を連れた若い母親がいて、乳児専用の看護婦がしょっちゅう様子を見に来ていた。他にも乳児はいるのに、なぜ彼女だけ特別扱いをするのだろう?同じように訝しく思っていたひとりの母親が看護婦に詰め寄ると、その特別扱いされている女は、看護婦の故郷の伯爵だか男爵だかの高貴なお方であるため、ということだった。難民輸送船上でも身分差別があるのかと、皆で呆れ果てたものだ。この貴族もまた、城も土地も財産もすべて失った、私たちと同じように床で寝ている難民なのに。

夜は空襲を避けるために消灯が義務付けられており、船上で出会った若い難民の女と乗組員の若者が暗がりでキスをかわし、愛をささやきあっている場面によく出くわした。輸送船をバカンスと勘違いしているのか、なんとふしだらな、と人々は眉をひそめたが、私はなんとなく彼らの気持ちがわかるのだった。明日をも知れぬ身であれば、愛の言葉や温もりを求めたくもなるだろう。それが若者の生きる糧になるのなら、そんな刹那的な恋もいいではないか。戦争は私の恋愛観までも、いつの間にか変えていた。

馬車と映画館で過ごした日々を思えば、混み合った輸送船での日々は夢のようだった。グストロフ号の悲劇を知っていれば、全く違う船上生活となったはずだ。乗組員も軍人も看護婦も、当然それを知っていたはずなのに、不安な素振りは全く見せず、平常心を装って私たち難民に接してくれていたのは見事としか言いようがない。事故防止と暖房の節約のため、私たちは甲板に出ることを許されなかったが、本当は海上を漂う水死体を見せたくなかったのかもしれない。

そうして私たちは目的地のキール港に無事到着し、ドイッチュランド号を後にした。

このドイッチュランド号は、このあと3、4回、ダンツィヒとキール間を往復した後、甲板も船体も白く塗った上に赤十字標識を付けて病院船となったが、1945年5月、英軍機の爆撃を受けて沈没し、多くの死者を出した。ドイツ降伏の四日前だった。