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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ぬいぐるみのルポ

翌日も私は映画館で一日を過ごし、母とロッテたちの到着を待っていた。母に父の死を告げることを思うと気が重かった。厳格な父だったが、母が父を深く愛していたことを知っていたからだ。

ホールで木箱から子供たちが着られそうな古着を選んでいると、トゥーテルが私のところにいささか興奮した様子でやって来た。聞けばこの映画館に有名な霊媒師が来ていて、1ライヒスマルクで死者と交信をしてくれるのだと言う。1ライヒスマルクと言えばパンを3kgも買える、難民にとっては大金ではないか。バカバカしいと笑ったが、トゥーテルは大真面目だった。

食堂の小さなテーブルの周りには人垣が出来ていて、隙間から覗き込むと、灰色のボサボサの髪に真っ黒な服を着た初老の女が神妙な顔で難民から話を聞いている。いかにも「霊媒師」といった風貌に、私は胡散臭さしか感じない。相談者は1ライヒスマルク硬貨を霊媒師に手渡すと、前線の夫の生死を教えてほしいと恐る恐る頼んだ。霊媒師はまかせなさいと深々と頷くと、そばにいた二人の女を座らせ、繋いだ手をテーブルの上に置いて目を閉じ、降霊を始めた。ウー、ウー、と霊媒師が唸っているのは霊を呼んでいるのだろうか。やがて男のような低い声で話し始めた。

「愛する妻よ、私だ。ロシアの荒野での銃撃戦で死んだけれど、こうして会えて嬉しいよ。」

難民の女はテーブルに突っ伏して泣き始め、テーブルを取り囲む人々までもらい泣きをしている。その夫の霊がひとしきり霊界での近況報告をすると、妻の今後の幸せを願い、霊媒師の体内から霊界へと戻っていった。久し振りに愛妻に会えたのに、随分あわただしい夫ではないか。霊界に急ぎの用でもあるのだろうか。引き続き霊媒師が次の客を募ると、今度は私の横にいたトゥーテルが手を挙げた。やめなさいよと引き止めようとする私の手を振りほどき、テーブルに座って1ライヒスマルク硬貨を渡すと、夫の安否を教えて欲しいと言った。霊媒師は頷くと再び手を繋ぎ、目を閉じて唸り始めた。ウー、ウー・・・。すると突然、目をひん剥いて叫んだ。

「おまえの夫はここにはいない!まだ生きているからだ!」

トゥーテルは顔を覆うと喜びにむせび泣いた。

「生きてるって!生きてるって!」

私に向けたトゥーテルの顔は涙に濡れ、瞳はギラギラと希望に輝いており、私は一瞬たじろいだ。

次は私、次は私、と難民たちが次々と手を挙げて、戦場の夫や息子や恋人たちの安否を尋ねる。霊媒師の言葉に泣き叫ぶ者もいれば、立ち上がって家族と抱き合って喜ぶ者もいた。嘘臭いと呆れる者は誰もいない、それは異様な光景だった。

戦後わかったことだが、トゥーテルの夫はこの三ヶ月ほど前に、すでに戦死していた。二年前に戦地から「東プロイセンには恐ろしい運命が待っているからすぐに逃げなさい。」とトゥーテルに書いてきた、あの大学教授の夫である。

やはり霊媒師はとんでもないインチキだったということだ。私が心霊とか占いとかいった類のものを一切信じないのは、傷ついた人の心につけこんで金儲けをする性根の腐った詐欺師たちが、戦争中も終戦直後もドイツ中で横行していたからだ。 このイカサマ霊媒師もこの日だけでどれだけの収益を上げただろう。さぞ難民はいいカモだったに違いない。

しかし今ならくだらないと一笑に付すことができても、当時の「愛する人は生きているのか?」と問う切羽詰まった女たちの悲しみを、誰が笑うことができただろう。

日が暮れ始めた頃、やっと難民輸送船の出港準備が整ったと館内アナウンスが入った。ダンツィヒ駅から出る汽車に乗るため、難民たちは慌てて荷物をまとめ始めた。私もお婆さんのアパートに走り、荷物をまとめ、子供たちに服を着せ、お婆さんに心からのお礼を言った。お婆さんは私たち一人一人を抱きしめて、名残を惜しんだ。

「船に乗れないようなことがあったら、またここにいらっしゃい。神様のご加護がありますように。」

荷物とギザとアニタを乗せた乳母車を押しながら、私たちは駅に向かった。義母も文句を言わずに歩き続けた。もう少し、もう少しで私たちは本土に渡れるのだ。母と姉たちのことが心残りだが、同じ船に乗れなくても、本土で会えるのだ。

すると突然フランツが泣き出した。お気に入りの小さな犬のぬいぐるみルポをお婆さんのところに忘れて来たと言うのだ。ルポはフランツが生まれたときに母が買ってくれたもので、四年間片時も離れず、ずっと一緒だったのだ。馬車の中でも寝床でも、フランツはずっとルポを抱きしめていた。本土に着いたら新しいのを買ってあげるから諦めなさい、と言いかけたが、ルポがどれほどフランツを慰めてくれていたかを私は知っている。

「先に行っててちょうだい。ヴァリー、乳母車をよろしく。」

そう言ってお婆さんのところに再び走った。お婆さんは舞い戻ってきた私を見て驚いたが、すぐにぬいぐるみを取りに戻ったのだろうと理解した。つい先ほど、ぬいぐるみが自分のベッドの上にチョコンと座っているのを見て、どうしたものかと悩んでいたと言う。

さて、このルポが私たち6人の命を救うことになる。

ルポをコートのポケットに押し込むと、雪道をひたすら走って駅に向かった。しかし、やっと家族に追いついた時、何千人もの難民を乗せたギュウギュウ詰めの汽車はすでに出発した後だった。

他にも乗り遅れた何千人もの難民たちで、駅はごった返していた。私は駅員を見つけると、何とかして港に行く方法はないか、詰め寄った。

「今日はもう汽車はないので無理ですよ。ダンツィヒの馬車もバスもプロイセン全土からダンツィヒへの輸送に使われていて、もうここには一台も残ってないんです。歩いていけば、もしかしたら乗船できるかもしれませんが、保証はできません。」

「歩いたらどれくらいかかりますか?」

「20km以上ありますからねえ。普通は6時間ほどですが、雪道ですから7時間以上かかりますよ。それに乗船できなかった場合、港には宿泊できる場所がないんです。映画館に戻って、次の輸送船を目指した方がいいですよ。」

マイナス25度で野宿をすればどうなるかは火を見るより明らかだ。なんということだろう。やっと船が出るというのに、今度は汽車に乗れないなんて。泣きたい気分だったが、私の横でルポに頬ずりをしているフランツを見て、「少なくともフランツは幸せなのだ。乗れなかったものはしょうがない。とりあえず、お婆さんのとこに戻ろう。」と考えを切り替え、フランツの頭を撫でた。終わったことはすぐに忘れて、さっさと次の対策を立てる。難民生活を通して、これが新しい生活信条となっていた。

駅構内で同じように落胆しているトゥーテル一家を見つけた。トゥーテルの母親は足が悪く、歩くのが大変難儀だったので、汽車に間に合わなかったのだ。年老いた母親が足を引き摺りながら雪道を戻るのは気の毒だった。

帰り道、トゥーテルは母親に聞こえぬよう、ヒソヒソ声で教えてくれた。

「知ってる?私たち、グストロフ号に乗り損ねたのよ!あの有名な豪華客船よ!なんて不運なんでしょう。」

しかしグストロフ号に乗れなかったことがどれほど幸運であったのか、まだ私たちは知る由もなかった。

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 上・グストロフ号への乗船を待つ難民たち。

私たちが乗り損ねたグストロフ号は、一般市民が安価に船旅を楽しめるようにとナチス政府が作らせた豪華客船だった。映画館、劇場、レストラン、スポーツジム、温水プール、美容院など、すべての娯楽施設を備えた素敵なクルーズ船で、私たちもいつかそれに乗ってスカンジナビアめぐりをしましょう、とフーゴと話したこともあった。 

1945年1月30日、グストロフ号は9000人の難民と、海軍軍人、乗組員、傷病兵1600人の合計約1万600人を乗せ、ゴーテンハーフェンを出港した。定員の6倍近い人数である。出港から数時間後、ポンメルン地方北30kmの地点を航行中、ソ連の潜水艦に発見され、魚雷三本を打ち込まれた。グストロフ号は一時間後には沈没し、乗客たちは氷が漂うバルト海に投げ出された。駆けつけた数隻の小型艦艇により救助されたのはたった1200名余り、残りの約9400人が犠牲となり、その半分以上が子供であった。有名なタイタニック号の犠牲者は1500人だからその6倍以上、世界史上最大の犠牲者数を出したにもかかわらず世界にあまり知られていないのは、私たちが「犠牲者」ではなく「加害者」だったからだ。

戦後に知り合った女性が話してくれたのだが、彼女は当時12歳、グストロフ号沈没の翌日、子供だけが乗船を許された貨物船に乗っていた。「子供は甲板に出ないように。」と乗組員に言われていたが、興味に駆られてそっと甲板に出ると、海面には何千体もの遺体が浮いていた。特に小さな子供の遺体が多く、救命具が大きすぎて腰までずり下がり、まるで逆立ちをしているかのように頭は海の中に浸かり、小さな足は海面から上に伸びていた。朝焼けの映える真っ赤な海面をプカプカ浮かんでいる何千という仰向けの顔と何千本という小さな足。彼女は現実の世界とは思えず、甲板に立ち尽くしていたと言う。誰もが知るドイツの童謡に「アヒルちゃんがみんなで泳いでる 頭は水の中 尾っぽは上に」という歌があるが、50年以上経った今でも、どうしてもそれを歌うことが出来ないと言って涙ぐんでいた。

魚雷の攻撃を受けた難民輸送船は、グストロフ号だけではなかった。シュトイベン号とゴヤ号もまた、それぞれ4千人と7千人の犠牲者を出して、海の底に沈んでいった。

輸送船への乗船が安全へのゴールだと思い込んでいた私たちは、いまだ危険にさらされていたのである。

もしあの時、フランツがルポを忘れなかったら。もし私がそれを取りに戻らなかったら。こんな小さな「もしも」が、私たちの生死を決める時代だったのだ。

疲れ果てて再びお婆さんの元に戻ると、小さなお婆さんは笑顔いっぱいに私たちを迎え入れ、じゃがいものスープを作ってくれた。

フランツは今夜もお婆さんのベッドの足元に横になって眠るのだ。もちろん大好きなルポを抱き締めて。