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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ダンツィヒにて

馬車に揺られて身も心も落ち着いた頃、乗客が増えていることに気がついた。新入りの年配夫婦が5歳くらいの男の子を連れている。男の子はずっと黙り込んだまま、毛布にくるまってじっと一点を凝視しているのが何とも奇妙で、ついに夫婦に話しかけた。

「お孫さんですか?」

彼らは寂しそうに微笑むと、首を左右に振り、話してくれた。

彼らもエルビングからの難民で、徒歩で街道に向かっていたら、母親の死体にしがみついて泣いているこの少年を見つけたと言う。どうやら母親は戦車の機関銃で撃たれたらしい。夫婦はその子供も連れて歩き続け、途中で幌なしの馬車に乗せてもらったが、あまりに寒いのでこちらに乗り替えたのだという。

「本土に着いたら、この子を赤十字にお願いするつもりなの。家族か親戚が見つけてくれるといいんだけど。それまでは私たちが面倒をみますよ。」

ちょうどフランツと同じくらいの小さな男の子である。あまりに不憫で、私は居酒屋で調達したまだ温かいソーセージを一本与えると、その子供は何も言わずに静かに食べ始めた。

終戦直後、赤十字に預けられた難民孤児は3万人と言われている。親を亡くし、故郷を無くすだけでも精神的苦痛は計り知れないが、中には誰からも庇護されることなく、戦後何年間もの間、ポーランドやソ連をさまよい続けた幼い孤児たちもいたのだ。

夕方、ヴァイヒセル川(現在のヴィスワ川)のほとりまで辿りつくと、私たちは大型難民用宿泊施設に泊まることになった。ここはかつてチーズ市場だったらしく、小部屋にそれぞれ小さな洗い場が設置されていた。ありがたいことに暖房が少しだけ効いており、お湯も使える。何百人という難民たちが、ひしめき合いながら、そこで夜を過ごすことになった。

ほっと一息ついて荷ほどきをしていると、突然耳をつんざくような子供の悲鳴が聞こえた。何事かとそちらを見ると、10歳くらいの男の子と12歳くらいの女の子が床に座って泣き叫んでいた。その泣き方は尋常ではなく、難民たちの顔を一様に引きつらせるほどすさまじい悲鳴であった。後で人づてに聞いた話によると、その家族は北部の氷の潟を歩いて避難していたが、連合軍の空爆で氷が割れ、深さ20cmほどの水の中に足が浸ってしまった。家族は走ってここまで逃げてきたが、子供たちの足は凍傷になり、真っ黒に壊死していた。あの叫び声は靴下を脱がすときの痛みに耐えかねての悲鳴だったのだ。いったいどうやってあの子供たちはダンツィヒに向かえるのだろう?

翌朝、私たちは再び馬車に何時間か揺られたのち、ダンツィヒに向かうバス発着所に到着した。私たちの幌馬車は別方向のポンメルン地方で新しい客を拾うことになっており、ここで親切な御者と御者の家族に別れを告げた。

アウフヴィーダーゼーン また会いましょう

ここで再び極寒の中、バスを待つことになる。二階建てバスは何台もやっては来たが、到着と同時に人がなだれ込み、あっという間に満員になった。エルビングでのトラック乗車と全く同じ状況である。2台目、3台目・・・どれも私たちが乗車する余地はない。そして5台目が来たとき、「これが最終便だよ。」と車掌が叫び、皆、血眼になって乗車口に向かった。フランツ、アニタ、義母を何とかして押し込むと、ヴァリーと二人で乳母車を乗せようと持ち上げ、車内に押し込んだ。やれやれ、と思った瞬間、後ろから来た中年の女二人が私たちの乳母車を力ずくで車外に引っ張り出し、その勢いに私たちは体勢を崩し、路上に叩きつけられた。その隙に、その女二人は赤ん坊の乗っていない自分たちの乳母車を、咄嗟に車内に押し込んだのだ。私たちは、かろうじてギザの入っている乳母車を倒さないよう支えることが精一杯だった。路上に残っているのは、ヴァリーと私と乳母車だけだ。もう人ひとり立つ余地もないほど、バスはぎゅうぎゅう詰めであった。その時の状況を思い出すと、60年以上経った今でも、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚える。赤ん坊の入った乳母車を路上に引き摺りだすとは、血の通った人間の沙汰ではない。

私はそばにいた警備兵に窮状を訴えると、すぐに車内に向かって大声で叫んだ。

「シュライバー夫人!フランツ!アニタ!速やかに外に出なさい!」

この状態で、どうやって外に出て来いと言うのだろう?すると、まずフランツが持ち上げられ、大人たちの頭の上を手渡しされながら運ばれてきた。そしてアニタも同様に車外に出された。二人ともよほどスリリングで楽しかったのか、満面の笑みを浮かべている。それで、義母は?まさか80kgある義母が空中を手渡しで運ばれて来るはずはあるまいと思っていたら、なんと義母までが宇宙遊泳するかのごとく、人々の頭上を泳ぐように運ばれて外に出されたのである。ヴァリーも私も呆気にとられてそれを眺めていた。こうして私たちだけが路上に残され、バスは出発してしまったのだ。

しかし、警備兵は臨機応変に次の対策を考えてくれた。

「このまま、あなたたちをここに置いておくわけには行かない。私の軍用トラックでダンツィヒまで送りましょう。」 

なんとありがたいことだろう!子供たちと義母は運転席の隣に座らせてもらい、私とヴァリーは乳母車と共に幌の無い荷台に乗り込んだ。

森も湖も道もすべてが凍てつき、白い雪景色がひたすら続いている。 走行中、雪は容赦なく私の顔に打ち付け、鼻も耳もつま先も凍りそうな痛みに涙が流れ落ちたが、それでも私は幸せだった。これが正真正銘、最後の便なのだ。そして私たちは全員無事に、それに乗ることができたのだ。無意識に私は聖書のイザヤ書を唱えていた。

 

恐れるな わたしはあなたとともにいる

たじろぐな わたしがあなたの神だから

わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る

                            

こうして、私たちはダンツィヒの大型難民宿泊施設に到着した。といっても、そこは大きな映画館であり、難民は「一人一席」が与えられ、そこがさしあたっての「宿」となる。客席は満杯で、一度座ると外に出るのも難儀だ。 乳母車を脇の通路に置き、当分の間、ここで次の移送手段を待つことになった。それまでに父、母、姉のロッテ一家がここに到着すれば、何らかの交通手段を使って一緒にゴーテンハーフェン港に行き、そこから難民輸送船でバルト海を渡り、ドイツ西部のキール港に到着するのだ。その船に間に合わないようであれば、最終目的地である本土のマグデブルグで会うことになっていた。

子供たちをヴァリーと義母にまかせて、私は映画館の中に家族がいないか見て回った。そこでは「ママ!ママ!」と母親との再会に泣き叫んでいる子供たち、抱き合いながら無事を喜ぶ人々の感動的な場面にあちこちで出会った。

そして私自身も、そこで多くのエルビングの知人と再会し、抱擁し、涙を流した。子供のときに教わっていたピアノ教師、小学校時代の同級生、ロッテの友達、近所の知り合いなどとひとしきりおしゃべりを楽しみ、無事を喜び合った。ここで父にも会えるはずだ。父はバスで移送されたのだから、すでにここに到着しているはずなのに、なぜかまだ会えないでいた。

やがて客席に戻ると、私たちの後ろの席に頭を包帯でグルグル巻きした男が座っているのに気がついた。傍らには松葉杖があり、片足が無いところを見ると負傷兵だろう。

よく見ると、それはかつての職場の工場検査官であった。長身で美男子なうえ性格も良く、その颯爽とした自信に満ちた立ち居振る舞いは女子社員の憧れの的だった。年に一度の会社のダンスパーティーでは、彼の宙を舞うような軽やかなワルツに女子社員はため息をつき、次の曲のダンスパートナーになりたがったものだった。しかし現在のこの姿はまるで別人だ。厭世的な目をうっすらと開けて宙を見つめ、たったひとり、げっそりと痩せた体を映画館の椅子に埋めている。まだ二十代後半なのに、顔には深い皺が刻まれ、四十代に見えた。恐る恐る声をかけてみると私を思い出したらしく、薄笑いを浮かべて力なく話し始めた。

自分は徴兵された後、ポーランドでの攻防戦で重傷を負い、片足を無くした。エルビングに戻って来て、今はこうして難民となっている。かつては夢も希望もあったけれど、今は乞食も同然だ。本土に行ったってこの身体で何が出来るというのだ。親はもういないし、本土の親類だってこんな厄介者は受け入れないだろう。

そう言って自嘲的に笑い、泣き始めた。彼は絶望しているのだ。何か気の利いたことを言いたくても、今の彼を元気付ける言葉が見つからない不甲斐なさ。私はカバンの中をまさぐると、中から小さなソーセージを一本取り出して彼に与えた。こんなもので慰められるはずはないと知っていはいるが。それでも彼は小さく礼を言うと微笑み、少しずつそれをかじり始めた。

やがて映画館の舞台上に、緊急管理局が設置された。今後の交通手段に関する情報を提供したり、登録した難民の名前を公開するためだ。私はそこで両親とロッテ一家の消息を尋ねたが、いまだに到着していないと言う。今後の交通手段についても、まだ情報が入らない。ただ待つように、という返事であった。

それにしても電灯が煌々と客席を照らし、何百人という難民たちの喧騒の中で、横にもなれずにどうやって眠れと言うのだろう。せめて子供たちだけでも足を伸ばして寝かせてやりたい。

義母とヴァリーに子供たちを頼むと、私はひとりで映画館の近所の家を一件一件回り始めた。ほとんどの住民は先発の輸送船で本土に渡っており、空家になっていた。まだ残っている住人も難民とわかると迷惑そうにドアをバタンと閉めて、話を聞くことさえ拒否するのだった。それでも私は諦めず、もう一件、もう一件とドアを叩き続けた。そして三十件以上回っただろうか、古いアパートのドアをノックすると、白髪の小さなお婆さんが出てきた。私の話を神妙な顔で聞いたあと、

「ああ、ごめんなさいね。うちは寝室以外にはたった一部屋しかなくて、しかもとても狭いのよ。とてもあなたのご家族をお泊めできる広さがないの。」

と申し訳なさそうに言う。私がよほどガッカリした顔をしていたのだろう、お婆さんは

「嘘じゃないのよ。本当に狭いの。ほら、ご覧になって。」

と言って私を招き入れると、小さな部屋を見せてくれるのだった。

私の両親は躾に厳しい人たちだったので、他人に図々しい頼みごとをしたり、厚かましいことを言ったりするのを嫌ったものだったが、この難民生活でこれまでの教育など一気に吹き飛んだ。

「いいえ、狭いとは思いません。この玄関口に乳母車を置かせていただいて、居間のソファで義母と2歳の娘を休ませることが出来ます。どうか義母と娘だけでもこちらで寝かせて頂けませんか?」

お婆さんは懐の深い人らしく、嫌な顔をせずに

「こんなに狭くても構わないのなら、どうぞお泊りください。他にも小さなお子さんがいらっしゃるなら、私のベッドの反対側に寝ることもできますよ。今からでもいらしてくださって、結構ですよ。」

と言ってくれたのだ。私はこの大きな収穫に天にも昇る気持ちになり、お婆さんの手を握って心から礼を言った。

子供達、義母、子供たちの世話係としてヴァリーをお婆さんのところに預けると、まずは食料の調達だ。お婆さんは、まだ一件、近所に開いている食料品店があると言うので、そこで砂糖と卵と小麦粉を調達することにした。今夜、お婆さんのところでパンケーキを焼かせてもらおう。きっと子供たちが喜ぶだろう。

教えてもらった店に入って年配の女店主に注文すると、

「配給切符は?」

と無愛想に尋ねてきた。

「持ってません。エルビングからの難民です。」

「じゃあダメだね。」

「現金は持っています。売ってください。」

「ダンツィヒの配給切符しか受け付けないよ。」

「小さい子供たちがいるんです。その子たちにパンケーキを焼いてあげたいんです。」

「私の知ったことじゃないね。とっととお帰り。」

私はもはや怒りを剥き出しにすることに、全く躊躇しなくなっていた。

「あなただってもうすぐ難民になるんですよ。本土で配給切符なしで食料を売らないと言われたらどうするんですか!」

「うるさいね!とにかく切符が無いならサッサと出ておいき!」

「あなたのような血も涙もない意地悪な人間は地獄に落ちればいいわ!」

私はドアを思い切りバタンと閉めると、再び町を歩き回ったが、どこも避難したあとらしく、木戸の締まった店ばかりだった。

悔しい。悔しい。悔しい。

日が暮れ始め、閑散とした町の氷の道には粉雪が舞い、鼻も頬もつま先も凍りそうに痛む。唇にクリームを塗ってはいたが、それでもひび割れて痛い。眉毛も鼻の中も霜で真っ白だ。途方もなく惨めで情けなかった。ため息をつくと、真っ白な息が私を包む。涙が滲み始めたとき、ふと映画館の後ろの席にいた片足の元同僚を思い出した。私は絶望するわけにはいかないのだ。とにかく子供たちに何か食べさせなければ。泣いてはいけない。涙が凍ると大変なことになる。私は急いで子供たちの待つアパートに帰っていった。

そこでは温かいジャガイモのスープが私を迎えてくれた。お婆さんは信仰心の厚い、心の優しい人で、子供たちをとても可愛がり、昼間は温かいミルクとケーキまでご馳走してくれたと言う。結局、ヴァリーと私も居間の床に布団を敷いて寝ることを許され、家族全員がそこでお世話になったのだった。

翌朝、私たちは再び映画館に戻ろうとしたら、お婆さんは

「子供たちとお義母さんはここに置いていらしたら?映画館は昼間だけにして、夜はあなたもここで休まれたらいかが?」

と言ってくれたのだ。私は映画館で待機していなければならないが、交通手段がわかったら、すぐにここに子供たちを迎えに来ればいいのだ。私はお婆さんに心から感謝して、ひとり映画館に向かった。

到着してすぐに「子供の服が必要な者はホールに取りに来るように。」と放送が入り、喜び勇んでホールに向かった。そこには赤ん坊や子供の服が詰まった木箱が積まれており、母親たちは長い列に並んで順番を待っていた。私の前には赤ん坊を抱いた男が立っている。すっかり疲れて切っている様子で、私は気分が悪いのであれば、場所は確保しておくから赤ちゃんと座っていれば、と声をかけた。男は、そうではなくて精神的に参っているのです、と静かに話し始めた。

男はもともと7人の子供と妻の合計9人でエルビングからやって来た。すでに四日も前にダンツィヒに到着し、一日目はここではなく、町外れの体育館が宿泊施設になっていた。体育館の真ん中には藁が積まれ、子供、女、老人はそこで寝ることを許され、男たちはそれを取り囲むように隅にマットを敷いて寝た。そしてその晩、空襲があった。なぜか警報は鳴らず、低空飛行の音に目覚めた時は遅かった。連合軍は体育館のど真ん中に爆弾を落とし、男たちは子供たちを救うことが出来ず、燃えさかる体育館から、ただ這い出すしかなかったという。乳母車はその男の横に置いてあったので、赤ん坊は無事であったが、男は一度に6人の子供と妻を失った。

男はまるで他人の話をしているように、感情を全く見せずによどみなく話すのだった。もし私たちの到着が四日早ければ、私たちも間違いなくそこで死んでいたはずだ。

嫌な予感がした。

「バスでいらしたんですか?エルビングから?いつ?」

「1月22日ですよ。よく覚えています。妻の誕生日でしたから。」

「どのバスで?」

「いや、バスに乗れなくて、最終便のトラックで来たんです。ベルリン通りから出ました。」

私の足が震え、頭から血の気が引くのがわかった。

「父が、父が一緒ではなかったですか?ワルター・ブランデンブルグというんです。70近い老人で・・・。」

男の顔が曇った。

「恰幅のいい方ですね?一緒でしたよ。貴族的な名前なのですぐに覚えました。確か印刷工場を経営していらっしゃる・・・。」

「そうです!父です!どこにいるんですか?」

男は申し訳なさそうに沈んだ声で言った。

「残念ながら、お父さんも空襲でお亡くなりになりました。あっという間だったんです。お父さんも子供たちも、全く苦しみませんでしたよ。」

私は列から外れ、ひとりでフラフラと子供たちのいるお婆さんのアパートに向かった。父は空襲で四日前に亡くなっていたのだ。アパートにやってきた私の顔が蒼白なのを見たお婆さんは驚き、椅子に座らせると、熱いお茶を入れてくれた。私は今聞いてきた話を泣きながら義母とヴァリーに話している間、フランツとアニタが私の背中や肩をさすってくれた。

父は私たち子供には厳しい人だったけれど、孫たちを思い切り甘やかす優しいお爺さんだった。読書家で芸術を愛した教養の高い人だった。愛しい父がこんなに呆気なく死んでしまうとは。どうしてあの時、無理矢理にでも私たちの幌馬車に乗せなかったのだろう。悔やんでも悔やみきれない悲しさに、私は押しつぶされそうになった。その間、フランツとアニタは、私をずっとさすり続けている。そうだ、泣いている場合ではない。この子たちは絶対に死なせない。何とかして本土に行かなければ。

私は再び映画館に戻り、管理局に進展があったかを尋ねたが、まだ全く交通手段がないという。このままここで待ち続けていたら、やがてソ連軍がやって来てダンツィヒを占領するだろう。こんな映画館を私たちの今際の住処にする気は毛頭ない。

管理局の係員と話しこんでいると、誰かが私の名を呼んでいる。振り向くと、そこにはかつての同僚で友人のトゥーテルが満面の笑顔で立っていた。私たちは抱き合い、泣きながらお互いの近況を報告し合った。

トゥーテルの大学教授の夫はポーランドのどこかにいるはずだが数ヶ月前から音沙汰がなく、子供達と母親を連れて、昨日からここに来ていると言う。お互いの無事を喜び合ったのも束の間、私たちの同僚マリアンネの悲しい最後を教えてくれた。

マリアンネはよく笑うかわいらしい陽気な娘だったか、結婚後はエルビングから20kmほど北の潟に位置するカルディーネンという町でセラミックメーカーの秘書をしていた。私の大切な銀のナイフとフォークを埋めてもらったのが、このマリアンネである。ソ連軍はこのカルディーネンを南、西、東側から取り囲み、住民は逃げ場を無くした。マリアンネは他の社員たちとドイツ兵のもとに助けを求めて行くと、ちょうど兵士は自死の準備をしているところだった。ソ連軍の捕虜になるくらいなら、死んだほうがマシだと言う。マリアンネと他の秘書たちも、自分たちを射殺するよう頼んだが、ドイツ兵はドイツ女性を撃つことは禁じられているから出来ないと言う。この期に及んで軍法を持ち出す必要はない、ソ連兵たちに強姦された後に殺されるのならば、ここで死なせて欲しい、と嘆願した。結局、兵士は秘書三人のうちマリアンネともうひとりを射殺し、自死した。もう弾が残っていなかったのだ。一人残った秘書は死にきれず、氷の潟を何日もかけて走り抜け、奇跡的にダンツィヒまで逃げ切った。トゥーテルはマリアンネを通じてこの秘書と顔見知りだったので、偶然映画館でその話を聞かされたばかりだと言って泣いた。

夕方になっても、次々と難民がやって来て、映画館はもはや足の踏み場もない状態だ。

日が暮れて、私は再び家族の待つお婆さんのところに戻った。お婆さんは前よりもより優しく、しかも自分自身が満ち足りているかのようだった。それというのも、今朝、教会で牧師に難民をアパートに泊めていると話すと、牧師は、お婆さんのやったことは、聖書のローマ人への手紙12章13節の「貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい」という教えにそった、大変立派な行為だと褒めたたえ、「今後もできる限り力になってあげなさい。」と諭したそうだ。

「だから何日でもここにいらして構いませんよ。」

お婆さんは私にそう優しく言うのだった。人の情けほどありがたいものはない。お婆さんは避難しないのかと尋ねると、

「私はもう86歳ですからね。ここで死ぬ覚悟は出来ていますよ。」

と寂しそうに微笑んだ。お婆さんは若くして未亡人となり、一人息子も第一次世界大戦で戦死し、ひとりぼっちだったのだ。

戦後になって知ったのは、この何週間の後、ダンツィヒはソ連軍による攻撃で町の9割が破壊され、残っていた市民のほとんどが殺害されたという。このお婆さんも空爆か戦車の攻撃を受けて亡くなっただろう。そうだとしたら、苦しんでいた私たち難民への善行が、お婆さんの人生の最後を飾ったことは良かったのではないかしら、などと勝手なことを思うのだ。

見返りを求めない無償の愛というものが現実世界にも実在することを、私たちに最後に示してくれたこの小さなお婆さんは、私の人生で最も神様に近い人間として、今でも思い出の中で優しく微笑んでいる。

 

 

 

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 上:終戦直後のダンツィヒ