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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

幌馬車は行く

昨日の大渋滞に比べ、早朝は通りを行く馬車の数は少ない。中には寝ずに夜通し歩き続けた者、馬車からバスに乗り換えた者もいたようで、私たちの幌馬車にも随分空席が増えた。乗客は私たちの他に、御者の家族、幼い子供たちを連れた家族が4組、老夫婦2組、若い女性4名ほどで構成されていた。

幌は風よけになってありがたかったが、それでもマイナス25度から30度の寒さは身にこたえた。大人でも辛いのだ、幼い子供たちは布団や毛布でくるまれていたとはいえ、じっとしているだけでも命懸けであった。

ホーロー製のオマルがひとつ、馬車後部に用意してあり、使用中は近くの者や家族が目隠しになる大きな布を広げるように工夫したが、音は隠すことができず、滝のような排尿の音が車内に響き渡った。最初のうちこそ恥ずかしがったり笑ったりしていたが、そのうち皆、慣れてしまい、気にする者などいなくなった。使用後はそれぞれが馬車から路上へと流すのだが、何千台という馬車が同じことをするのだから、凍った道がどのような状態だったかはご想像におまかせしよう。

大通りを走っていると、すぐ前を歩いていた12,3歳の男の子と8歳くらいの女の子が馬車を止めて御者に話しかけた。

「お願いです。少しの間だけ乗せてください。」

「 構わないよ。席が空いたからね。さあ乗りなさい。」

人のいい御者は無料で子供たちを乗せ、毛布まで与えた。

その子供たちを真ん中に座らせると、二人とも礼儀正しく礼を言い、嬉しそうに毛布にくるまった。私たちは根掘り葉掘り彼らの素性や体験談を聞き出そうとした。どこから来たの?なぜ子供だけなの?大人たちの矢継ぎ早の質問にも嫌な顔一つせず、少年は賢そうな目を大人たちにしっかり向けて、これまでのいきさつをハキハキと話し始めた。

二人は兄妹で、エルビングからもう少し東に位置する、聞いたこともないような小さな村からやってきた。母親は病気の祖母の世話をしにケーニヒスベルグに行っていたが、汽車を逃して戻れなくなり、ダンツィヒで落ち合うことになっていた。

二人が村を出てとぼとぼと歩いていると、後ろから一台の戦車がキャタピラをギシギシさせながらゆっくりと近付いてきた。ドイツ軍の戦車だと思い込んでいたので、二人は恐怖心も覚えず、歩き続けた。やがて戦車は子供たちの真横に停車すると、ハッチが開き、ひとりの兵士が顔を出した。

「シュタイゲン!(乗れ)」

奇妙なドイツ語からすぐにソ連兵だとわかった。二人は顔を見合わせて躊躇した。

「シュタイゲン!」

二人は覚悟を決めて、戦車の上によじ登り、後部のエンジンデッキの上に座ると、再びキャタピラはギシギシと回り始めた。鉄の装甲は冷たいだろうと思ったが、エンジンデッキの上はほのかに暖かく、快適だった。四時間ほど走っただろうか、すっかり日が暮れた頃、エルビングの難民用宿泊施設に到着した。するとハッチが再び開いて、

「アウスシュタイゲン!(降りろ!)」

と兵士は無愛想に叫んだ。二人がデッキから飛び降りると、戦車はそのまま走っていった。ソ連兵は殺人鬼、盗賊、強姦魔。そう聞かされていたから、子供たちはただ呆気にとられていた。

そこでは大きなコンサートホールが宿泊施設になっていた。暖房はなかったが、雪と氷の上で寝ずにすむことに、二人はホッとした。とりあえず毛布にくるまって寝ることができる。

夜も更けた頃、何台ものソ連軍の戦車が地響きを立てながらやってきた。酔っ払ったロシア兵たち十数名がパラパラと降りてきて、歌いながら一斉にホールになだれ込んだ。ドイツ人の難民たちはホールの片隅ですくみ上がっていたが、ロシア兵たちは若い女を物色し始め、やがて選んだ女に銃を向けて、「フラウ、コム! (女、来い)」と楽屋の方に女を連れて行った。数分後には女の泣き叫ぶ声と兵士たちの笑い声がホールに響いた。やがて女が泣きながらホールに戻ってくると、母親が駆け寄って陵辱された娘を慰めた。兵士たちは次の女、また次の女、と再び楽屋に連れ出していく。中には痛みに歩くこともできず、泣き叫びながら這って戻ってくる12,3歳の少女もいた。ホール出入り口には銃を構えた兵士が立っており、脱出は不可能だ。すっかり満足した兵士たちは、再び戦車に乗り込んで意気揚々と去っていった。ホールには一晩中、すすり泣きが響いていた。

翌朝、少年たちは徒歩でエルビングの駅前に向かった。エルビングにはバスも馬車も一台も残っていないと聞いてはいたが、それでも一縷の望みをたくして、発着所に行ってみた。するとなんということだろう、バスが一台停まっているではないか!しかしたった一台のバスに何百人という人が大挙してなだれ込み、殴り合う者までいる。遠くからそれを眺めながら、「どうする?無理だと思うけど、行ってみる?」と妹に問いかけたその時だった。また地響きと共にキャタピラの音が背後から近付いてきたかと思うと、少年たちの横を素通りし、まっすぐ駅に向かっていく。バスの20mほど手前に止まると、砲口をバスの方にゆっくりと定め、弾丸を撃ち込んだ。人々は吹っ飛び、バスは炎上し、爆発した。戦車はまた地響きと共に前進し、逃げようとする人々を今度は機関銃で撃ち始めた。建物という建物に弾丸を撃ち込み、逃げまどう人を見つけては機関銃の音を響かせながら、戦車はエルビングの目抜き通りを進んでいった。

「それを見て思ったんです。とにかくソ連軍より早くここを出なきゃって。だから寝ないで歩いたんです。」

私たちは絶句していた。たった今、地獄を見てきた者に向かって「そこはどうだった?」などと聞ける人間がいるだろうか。ましてや相手は子供である。しかし、この澄んだ青い眼と金髪の巻毛を持つ天使のような子供たちは、まるでピクニックで見てきた風景を報告するように、たんたんと話し続けるのだった。

あのホールで、素晴らしい音楽会が毎晩のように行われていたゴシック建築のあのホールで、そんな恐ろしいことが行われていたのだ。戦車に撃たれた人々の中に、強姦された女性の中に、私の知り合いがいたかもしれない。駅前のあの美しいバロック建築通りが木っ端微塵になったのか。幌の中が悲しみでいっぱいになり、誰もそれ以上聞こうとはしなかった。

「とにかく今は安全だ。安心して少し眠りなさい。」

穏やかな目をした老人がそう言うと、二人とも毛布を深々と首までかけて、目を閉じた。

数時間後、また馬車は渋滞にはまった。動いては止まり、動いては止まり、と埓があかない様子に、少年たちはソワソワし始め、居ても立ってもいられないと言うように、突然馬車を降りた。徒歩の方が速いと考量したようだった。幌の下で毛布にくるまっている方がずっと楽であるはずなのに、目撃したことがトラウマになっているのだろう、妹も素直にそれに従って、二人は御者に丁寧に礼を言うと、足早に歩いて行った。ダンツィヒでお母さんと無事に会えますように。子供たちの背中を見ながら、そう祈った。

私の4歳と2歳の子供たちはこの極寒の中でも愚痴一つ言わず、泣きもせず、布団にくるまってじっと座っているのが、かえって哀れであった。家からはパンとゆで卵を持ってきてはいたが、マイナス30度の中ではカチカチに凍ってしまい、食べることができない。宿泊施設に行けば、暖房管の上に乗せて解凍して食べられるのだが、外にいてはそれもできない。しかし不思議なことに家から持ってきた「戦争ケーキ」だけは、外にいても凍ることがなく、ナイフでスッと切って食べることが出来た。このケーキは、バターも牛乳も入れない、物資のない戦時中に作られることからその名がついたと思っていたが、もしかしたら氷点下の戦場でも食べられるということから命名されたのかもしれない。馬車の上ではもっぱらこのケーキを薄く切って、子供達に食べさせた。それを見ていたひとりの女性が、

「すみません。ほんのちょっぴりでいいのですが、うちの娘にケーキをいただけませんか?すっかり元気をなくしてしまって。」

と申し訳なさそうに尋ねてきた。女性にピッタリ寄り添う8歳くらいの女の子が青白い悲しげな顔をして毛布にくるまっていた。

「もちろんですよ。」

私はその娘とその母親に一枚ずつ切り分けたが、母親は自分の分も娘に与え、娘は二枚ともペロリとたいらげた。

まさか避難準備をしながら慌てて焼いたケーキが、こんなに重宝するとは思いもしなかった。こんなことなら、あと二、三個焼いてくれば良かった、と悔やんだものである。

家族の中で最も悲惨な状況にあったのは、生後5週間の娘、ギザであった。極度のストレスと疲労からか、二週間ほど前から私の母乳は一滴も出なくなった。ミルク缶以外には、カラスムギの粥をアルミ缶に入れて持ってきてはいたが、どちらも凍ってしまってとても赤ん坊の口に入れることができない。私は宿泊施設でミルク缶を哺乳瓶に移すと、馬車の中では下着の中に入れて地肌で温めた。マイナス30度下でのオムツ交換は命に関わるので、宿泊施設でしか行っていなかった。日中はギザは毛布と布団でグルグル巻きにされて、乳母車の中に寝かされていた。時々、鼻に指を当てて息をしているかどうか確認し、グズり始めたらほんの少し温まったミルクの哺乳瓶を胸元からゴソゴソと取り出して与えた。

ヴァリーはエルビングを出てからというもの、すっかり元気をなくしていた。病気の祖父をヤコブ神父のもとに置いてきたことで、罪悪感に苛んでいたのだ。馬車がカトリック教会の横を通ったとき、

「奥様、少しだけ教会で懺悔したいんですけど、馬車を止めて頂いてもいいでしょうか?」

と私に尋ねてきた。

「ああ、ヴァリー、お爺さんのことで懺悔したいのなら、その必要はありませんよ。だって神父様が『行きなさい』とおっしゃったんですからね。あなたは全然悪くないわ。」

そうは言われても簡単に割り切れるものでもないらしく、いつもの笑顔は消え、ひそかに懊悩しているのが見て取れた。

御者は馬を休ませるため、大きな農家の横に馬車を停めると、その中に入っていった。ほとんどの家は避難した後で、鍵のかかった空家になっていたが、雇われていたポーランド人たちがそこに残っていることがあった。

戻ってきた御者は、満面の笑みを浮かべていた。

「ここでは大きな鍋でジャガイモを蒸かしてます。今蒸し始めたところだから、一時間ほど待っててほしいそうです。」

私たちは飛び上がって喜んだ。どうせ大渋滞でノロノロとしか動けないのだ。一時間くらい喜んで待とう。

一時間が経過し、頬の赤い小太りの中年のポーランド女性が、バケツいっぱいの蒸したジャガイモを持ってきて、私たちに施してくれたのだった。蒸かしたてのジャガイモがどれほどおいしかったことか!戦後食べたどんな贅沢な食材よりも、そのホクホクと熱いジャガイモは涙が出るほど感動的な食事だった。熱々のジャガイモの皮を指で剥き、少しずつ口に運んで美味しさに唸る私たちを、農婦はニコニコと優しく見つめている。ふと聖書の『使徒言行録』の一節が頭をよぎった。

受けるよりも与えるほうが幸いである。  

その時のポーランド女性の笑顔を、私は今でも深い感謝とともに思い出す。

乗客が宿泊できる家を探すのも、御者の仕事であった。何件も家々を回り、居残っているポーランド人やロシア人に頭を下げて一宿を乞う。即座に断る者がほとんどだったが、十件に一件ほどはしぶしぶ客を受け入れた。運が良ければ快く招き入れてくれたばかりか、スープやお茶まで出してくれる。もちろんお礼は支払うが。

ある晩は親切な農家に泊まることが出来た上に、小麦粉スープまでご馳走になった。これは小麦粉、牛乳、砂糖を入れた甘いスープで、子供達は嬉しそうに飲み干した。

私はスープを哺乳瓶に入れて、さあ、ギザに飲ませましょうと乳母車のクッションや毛布を取り出すと、ギョッとした。ギザの顔が真っ青で、微動だにしないのだ。鼻に指をあてるとかすかに息はしているが、瀕死の状況であることは明らかだった。

「お義母さん、ギザが死んじゃうわ!」

私は慌ててギザの小さな唇に、甘い小麦粉スープを垂らした。するとその小さな口はチュパチュパと弱々しくそれを吸うではないか。少しずつ哺乳瓶で与えているうちに、ギザの頬に少しずつ赤みがさし、私たちは安堵した。この親切な農婦が小麦粉スープを作ってくれていなかったら、ギザは死んでいたに違いない。

翌日、再び馬車に揺られていると、凍りついた道の両脇に、布にくるまれた物体が置いてあるのに気付いた。ひとつ、またひとつ、またここにもひとつ。御者が、それが死んだ赤ん坊たちと教えてくれた時、私は凍りついた。小さな身体はこの寒さを乗り切ることのできなかったのだろう。埋めようにも道はカチカチに凍りついており、穴を掘ることができない。並木の続く通りの脇に、ひっそりと小さな遺体は置かれていた。母親たちはどんな思いで死んだ赤ん坊をここに残して行ったのだろう。私は小さなギザをこの並木道にそっと置き去りにする光景を想像し、震え上がった。

ある晩、御者がやっと見つけた親切な農家では、鶏肉と野菜のスープをふるまってくれると言う。残された鶏舎の鶏を一羽絞めたのだと言う。やっと子供たちに栄養のあるものを与えられる!私たちは狂喜し、テーブルに着いてスープが温まるのを待っていた。すると、突然別の馬車の御者がやって来て、

「大変だ!ソ連軍がすぐそこまで来たぞ!」

と叫んだ。私たちは慌てふためきながらコートを羽織ると馬車に戻り、そそくさと出発した。ところが、後でそれが誤報と分かり、皆泣き出した。御者も泣いていた。

「あの親切な農家を見つけるまでに、俺がどれほど走り回って探したことか。やっと子供たちに栄養のあるものを与えられると思ったのに。」

いったい誰が、何の目的で、何が楽しくてあのような悪意に満ちた作り話を流すのだろう。鶏肉と野菜のスープに自分たちがありつきたいからだろうか?生きるためには、そこまでしなければならないのだろうか?

馬車の中は陰鬱な雰囲気になった。皆、黙り込んで目を閉じている。その時だ、私は乳母車の一番下に、「万が一の時のためのウォッカ」を持っていることを思い出した。ウォッカは氷点下でも凍らない。私はスキットルを乳母車から取り出し、御者に手渡した。乗客は幌の中で毛布にくるまっていられるが、御者は一日中、野ざらしで手綱を握っているのだ。当然、一番最初に飲む権利がある。御者は驚いてスキットルを眺めると、私に片目をつぶって液体をトロリと口に流し込んだ。

「ああ、うまい!こんなうまい酒は初めてだ!」

御者はそう叫んで笑うと、スキットルを私に戻し、乗客全員で、まるで教会の聖餐式のワインのように回し飲みをした。老人たちも若い女性たちも父親たちも母親たちも。それから私は2秒だけ躊躇して、子供たちにも一口ずつ飲ませた。透明の液体が食道を燃えながら通って行くと、冷えきった身体がほんわかと熱くなった。すると先程までの重苦しい空気はどこへやら、突然、幌の下は陽気な笑い声に包まれ、全員で歌を歌い始めたのだ。軍歌ではない。それは平和な時代に私たちがよく口ずさんだ、陽気な東プロイセン民謡だ。

白い木蓮の花の下

かわいいあの娘が待っている

あの子の赤い唇に

今日こそキスをしたいんだ

ラララ ラララ 

きっとあの娘も それを待ってる

空きっ腹に沁みたウォッカですっかり酔っ払った私たちは、腕を組み、体を揺すり、笑い、歌う。御者も、子供たちも。皆が一緒に笑い、歌う。

後ろに続く馬車や追い抜いていく乗用車の乗客は、この陽気な一団を訝しく思ったことだろう。

雪は降っておらず、空には星がまたたいていた。凍った道の上で、私たちは笑いさんざめきながら、木蓮の下で待つ少女への愛を歌い続けた。