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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

出発

ラジオをつけると、突然、東プロイセン民謡「暗い森と水晶の湖」のメランコリックなメロディーが流れてきた。ヴァリーと私はギョッとして顔を見合わせた。というのもこの曲をベルリン放送局が流すときは、このあと深刻なニュースが読み上げられると決まっていたからだ。

 

暗い森と水晶の湖

遥かな草原をこえて

輝く奇跡がやってくる

 

この歌詞は皮肉だろうか。やがて興奮したアナウンサーがニュースを読み上げた。

「ソ連軍はエルビング市手前まで接近しています。」

私はコートも着ずに外に飛び出すと、隣近所に走り回ってその旨を伝えた。皆、パニック状態だった。泣き叫ぶ者、呆然と立ちすくす者、金切り声をあげる者。私は「とにかく急いで荷造りしてこの町を出ましょう。」とだけ言うと、再び家中を駆けずり回ってマイナス30度に耐えられるだけの衣類や毛布を乳母車に詰め込んだ。

義母はソファーにぐったりと座り込み、子供たちを抱いて泣いている。

「こんな時にフーゴがいないなんて。私たちはどうしたらいいの?こんなに小さな子供たちに赤ちゃんもいるのよ。外で寝たら凍死するわ。もうおしまいよ。こんなことならマグデブルグにいれば良かった。」

マグデブルグは先週の大空襲で、街の中心地が9割破壊されていた。371機の英軍機が30分間爆弾の雨を降らせ、2500人が死亡、19万人が家を失ったのだ。ドイツで最も美しい通りと言われたバロック通りも瓦礫と化した。フーゴは郊外に住んでいて助かったが、「母がそっちにいて本当に良かった。この地獄絵図を見たら発狂していただろう。」と書いてきたばかりだった。しかし義母は今、マグデブルグにいなかったことを後悔しているのだ。私はただ黙々と荷造りを続け、義母の愚痴には耳を貸さないようにした。今はとにかく泣いていても構わないから子供たちを見ていてほしい、それだけだった。

ああ、母がいてくれたら!明るい母はこんな時でも「がんばって支度しましょう。きっとうまくいくわ。」と手際よく働き、上手に奮起を促すことができる強い女性なのだ。しかし母は姉ロッテのもとにおり、そこから姉の子供たちと一緒に西に逃げることになっている。万が一のことを考え、連絡先住所をいくつか決めておいて本当によかった。万が一、ソ連軍がエルビングまで来たら、万が一、西に避難するようなことになったら、万が一、配給切符がもらえないような状況になったら・・。すべての「万が一」はひとつひとつ現実になっていった。

ふとマタイ福音書の一節が脳裏をかすめた。

「それらの日には、身もごっている者と乳飲み子を持つ者は災いである。あなたがたが逃げる日が、冬や安息日にならないように祈りなさい。」

主よ、幼い子供たちと老人を連れ、いったい私はどこに行けばよいのでしょう?

父は町内会の会議に出かけていた。そこで住民たちと避難経路を相談するのだ。ソ連軍は東からのみではなく、南からも進軍している。やみくもに西に向かうのは危険が大きすぎるのだ。

日が暮れかけた頃、いつも冷静な父が青ざめて帰ってきた。

「すぐに出発だ!トラックが何台かアドラー通りから出るそうだ!」

私は慌てて子供達に下着や冬服を何枚も重ね着させ、毛布にくるんで食料品と一緒に乳母車に押し込んだ。

大通りに出ると、何百人という人の群れがアドラー通りに向かって列をなして歩いていた。皆、両手に大きな荷物を持ち、暗い顔でヨロヨロと歩いている。道の両脇には、重くて持ちきれなくなったのであろう荷物、布団、枕などが打ち捨ててあった。これを手放した人々は、これからの難民生活できっと悔やんだことだろう。布団も枕もどれほど重宝したことか!

乗り場はごった返していた。何台もトラックはやっては来たが、停まるたびに人々が押しのけ合いながら荷台によじ登り、私たち幼い子供を連れた女や老人の乗車を手伝う者など一人もいない。3分も経たないうちにトラックの荷台はいっぱいになり、容赦なく出発してしまうのだった。次のトラックも、その次のトラックも同じだった。ヴァリーは幼いアニタを抱いてよじ登ろうとするのだが、誰かにおさげ髪を引っ張って引き摺り下ろされ、ヴァリーは悲鳴をあげた。私は見知らぬ男に肘鉄を食らわされ、地面に倒れ込んだ。義母は絶望して泣いている。私は乳母車を押しながら右往左往し、手伝ってくれそうな人がいないか探していると、また一台・・・トラックではなく、今度は大きな2頭立ての幌馬車がやってきた。「これが最後の便だよ。」御者の男の言葉に人々は大挙して押し寄せ、私たちを肘で押しのけながら荷車によじ登り、また満員になった。 

これに乗らないわけにはいかない。ここで夜を明かすわけにはいかないのだ。私は仁王立ちになって馬車の前に立ちふさがって狂ったように叫んだ。

「待って!行かないで!子供がいるんです!年寄りもいるんです!置いて行かないで!」

すると、どこにいたのか一人の若い将校がツカツカと私のもとにやってきて、「お手伝いしましょう。」と言った。

「さあ、みんな降りなさい。もう一度乗り直すんだ。まず女性と子供からだ。」

将校の言葉に皆、怒りの声をあげ、抗議した。

「これは命令だ。降りなさい。」

ブツブツと文句を言いながら、全員荷車から降り始めた。将校の制服の威力に、誰も抗うことはできない。そうして将校は荷車に上がると、子供たち、乳母車、義母、ヴァリーと私、その他の幼い子供を抱えた女性たちを引き上げてくれた。

将校が荷車から降り、私が礼を言うと「お安い御用です。」と言って去っていった。

引き続き乗客が荷車によじ登ったが、30人ほどでたちまち満員になった。乗り切れなかった男たちの中に父を見つけ、「父を、父を上げてください!私たちと一緒なんです!」と叫んだが、乗客は口々に「冗談じゃない!これ以上は無理だ。」と文句を言った。乗り場の係員が「ベルリン通りから出るトラックもあるから、そちらに乗ってください。」と乗り切れなかった男たちを誘導し始めた。父は「次の便で行くから、ダンツィヒで会おう。」と叫び、私たちに手を振った。 

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馬車はギシギシと音を立てて動き出した。改めて幌の中を見回すと、それはかなり古い木製馬車で、後部には乳母車や手押し車が、その横にはトイレ用バケツが置いてある。私たちは何列にも並んだ細長いベンチに、ギッシリ詰めて座っていた。

ああ、助かった。なんとか避難することができそうだ。目を閉じて、今日という長い一日を思い起こす。避難禁止令を出しておきながら、自分たちは汽車で逃げてしまった役人たち、女に肘鉄を食らわし、少女の髪を持って引きずり下ろし、我先にとトラックに乗車した男たち、そして将校を使って先に乗車した者たちを強制的に降ろした私たち。皆、自分が生き延びることだけを考えている。ふとヤコブ神父の話を思い出し、初めて自分の行為を恥じた。

すでに日はとっぷりと暮れ、雲ひとつない空に美しい満月が輝いていた。私は最前列に座っていたので、月明かりに照らされたエルビングの町をもう一度眺めることができた。懐かしい小学校、簿記を習っていた専門学校。もう誰も住んでいない静かな家々の中に、子供の頃住んでいたアパートも見える。しばらく行くと共産主義者の知人の家も見えてきた。「ソ連軍が来ても私たちは決して逃げない。我らが同志を歓迎する!」と息巻いていたが、誰よりも早く逃げていた。ティーゲンヘーファー通りに出た。ああ、ここにはたくさんの友人が住んでいた。仕事が終わるとここに集まって、みんなでテラスに出てワインを楽しんだものだ。

私たちの馬車は進んでは止まり、進んでは止まり、と大渋滞に巻き込まれていた。大通りでは何台も大型バスが私たちを追い抜いていく。幌が邪魔をしてバスの中までは見ることができなかったが、きっとその中に私の父もいたことだろう。目的地の ダンツィヒまでは約60km。この調子で行けば、いったい何日かかるだろう?父は待っていてくれるだろうか?

最初の夜はティーゲンホーフの大きなレストランで寝ることになった。それぞれが床に毛布や布団を敷き、たちまちレストランは難民収容所と化した。すべての部屋も難民でいっぱいになったが、私たちはとにかく外で寝ずにすむことに感謝した。

そのレストランで、簿記学校時代のエーレルト先生にばったり会った。私は直接教わったことはなかったが、その朗らかな優しい先生は生徒たちから人気があったので、よく覚えていた。 話しかけると、先生は私の無事を喜んでくれた。話しているうちに、先生がミルク缶を持っていることに気が付いた。

「先生、それをいただけませんか?生後5週間の赤ん坊がいるんです。」

先生は「まあ赤ちゃんがいるの、もちろんよ!」と快く私にその缶を渡し、

「私は独り身だから身軽だけれど、あなたはお子さんがいらっしゃるのね。大変だけれど、がんばりましょうね。」

と言って私を抱き締めた。

子供たちのもとに戻ると、私たちは持ってきたサンドイッチを食べ、床に横になった。

子供たちは眠っているが、大人たちはなかなか寝付けず、ヒソヒソ声が聞こえてくる。

「とにかく駅に行ってみるよ。まだ汽車が通るらしいよ。」

「もう最後の汽車が出てしまったそうだよ。」

すべての会話は「~らしい」とか「~そうだ」という噂話や伝え聞きで、どれも確証が得られない話ばかりだ。

レストランの外には、何十台ものトラック、バス、馬車が駐車してあった。私たちの馬車の御者は、馬と車輪を盗まれることを恐れ、幌の中で寝袋に入って寝ていた。外は零下30度である!実際、翌朝になって、馬が消えていたり、車輪がなくなっている馬車が何台もあり、御者たちの悲鳴で目が覚めた。

自分の身は自分で守る。

私たちはそれを肝に銘じ、また馬車に乗り込んだ。