読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ヤコブ神父

年末年始にかけてソ連軍は不気味な沈黙を続けていたが、1945年1月22日、遠くに夕立の雷のような轟を聞き、私たちは震え上がった。あれは前線の大砲に違いない。まさかこんなに早くソ連軍がやってくるとは!

避難禁止令が解除されたらすぐに出発できるよう、とにかく食料を調達しなければ。

この年の東プロイセンはマイナス30度という記録的な寒さで、私は厚手のセーター二枚、コート二枚を着込み、毛皮の帽子をかぶって雪だるまのような出で立ちで外に出た。

氷のような外気が頬を刺す。道は凍てつき、風が砂埃のような雪を路上からもうもうと吹き上げる。

肉屋に向かう途中、ヒトラー青少年団10人ほどのグループが通りかかった。彼らはまだ15、6歳くらいだったが、1943年からは高射砲で敵機襲来に備えていた。こんなあどけない顔をした少年兵が攻防戦に駆り出されるほど、戦況は緊迫していたのだ。

「ねえ、あれは大砲の音でしょ?ロシア人は今どこにいるか知ってる?」

私が声をかけると、彼らは自信満々に言った。

「そんな深刻な状況だったら、とっくに僕たち、そこに行かされてますよ。心配はいりませんよ。」

心配はいらない。ここ一年でこの言葉を何十回聞いたことだろう。

f:id:ritsukoguenther:20170209185813j:plain

上・ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)。ナチス国家が法律で加入を義務付けた10歳から18歳の青少年からなる団体で、肉体の鍛練にいそしみ、祖国愛を徹底的に教え込まれた。1943年からは青少年も徴兵されたが、軍事訓練を受けていなかったため、多くの死者を出した。戦場では少年たちにはタバコの代わりにチョコレートが支給されたという。あまり知られていないが、日独伊の三国同盟締結の折にはメンバー代表の青年たちが来日し、靖国神社を参拝している。その際、藤原義江が歌う『萬歳ヒットラー・ユウゲント歡迎の歌』のレコードが発売され、国民の大歓迎を受けている。

 

肉屋に着くと、すでに店の主人は店を畳んで小さな馬車に荷物を積んでいるところだった。いつも愛想よく肉を多めに包んでくれる夫人と3人の子供達が馬車の荷台の上で毛布にくるまってうずくまり、夫人は太った体を震わせてさめざめと泣いていた。

「避難するんですか?」

私は肉屋の主人に恐る恐る尋ねた。

「ああ、奥さんも急いだほうがいいよ。ロシア人は近い。大砲が聞こえただろ?」

「でも役所が避難禁止令を出してますよ。」

肉屋の主人は私の顔をまじまじと見て言った。

「バカいっちゃいけないよ。役人たちはとっくに逃げたよ。知らないのかい?禁止令を解除する前に、全員最後の汽車で行っちまったよ。こんなことなら配給切符なんて放棄して、とっとと逃げるんだった。」

言っていることの意味がわからない。私が訝しげな顔をしているのを見て、肉屋の主人は続けた。

「嘘だと思ったら役所に行ってみな。誰もいないよ。」

私はやっと事の深刻さを理解した。逃げた?移転届をあれほど拒んだあの役人たちが?避難を希望する私たちを売国奴呼ばわりしたあのナチスたちが?怒りで身体が震えるのは生まれて初めてだった。

「昨日は駅の窓口で8時間並んで切符を買ったけど、意味なかったよ。もう汽車がないんだ。すべて兵士用で一般人は乗車禁止、そもそもここの駅には停まらないよ。今日から切符売り場も閉まってる。とにかく早く西に行くことだ。」

そうだ、とにかく逃げなければ。今は感情的になっている場合ではない。そのためにはとにかく食糧調達だ。

「ソーセージを分けていただけませんか?」

「悪いね、もう一本も残ってないよ。生肉は犬に置いていくんだ。」

振り向くとシェパード犬2匹が、凍った肉の塊にかぶりついていた。

私は急いでパン屋、チーズ屋、八百屋と走り回ったが、すべて閉まっている。なんということだ!

空っぽの買い物カゴを下げ、滑らないように早足で帰宅し、とにかく荷物をまとめることにした。

スーツケースに冬の衣類、缶詰、瓶詰めなどを詰めていると、家政婦のヴァリーが泣きながら病院から帰ってきた。ケーニヒスベルグの空襲で家と家族をなくしたヴァリーは、エルビングの母親の実家に祖父と住んでいたが、その祖父が何日か前に心臓発作で倒れ、入院していたのだ。

「どうしたの?まさかお爺さん・・・。」

「いいえ、生きています。でも起き上がることができないので、病院から出られないんです。病院の看護婦さんもお医者さまも、もう出発するから引き取ってほしいと言われたんですが。」

「それで、どうするの?」

何とかしてあげたいが、私にはどうしようもない。父も義母も70歳近く、大人の男性を担いで歩けるわけがない。私には二人の幼児と生後一ヶ月の赤ん坊がいる。それに何より馬車も汽車もない!

ヴァリーは泣きながら話してくれた内容は、次のようだった。

彼女は病院からすぐにカトリック教会に走り、ヤコブ神父に相談した。ヴァリーはこの辺では珍しいカトリック教徒で、エルビングに来てからも熱心にカトリック教会のミサに通っていた。その教会のヤコブ神父はまだ三十代前半という若さであったが、大変な人格者として我々プロテスタント信者の間でも有名だった。戦死者の遺族の精神的なケア、近隣の町の空襲で焼け出された人々の保護、戦争孤児たちへの衣類の調達など、額にかかる黒い巻毛をかき上げながら早足で歩いているヒョロリと背の高い、黒縁メガネのヤコブ神父をよく街中で見かけたものだ。ヴァリーの話をうんうんと聞いていたヤコブ神父は、「わかった。」と静かに言うと、教会の管理人の男と病院に走った。ヴァリーの祖父を毛布でミイラのようにグルグル巻きにすると、二人で担架にのせ、2km離れた教会に隣接する神父の住居の司祭館に運び込み、自分のベッドに祖父を寝かせたのだ。

「お爺さんの面倒は私が見るから、君はすぐに逃げなさい。」

「でも、神父様はどうなさるんですか?」

「他にも家を出られない重病人や老人が町にはたくさんいるんだ。この人たちを置いて逃げるわけにはいかないよ。」

ヤコブ神父はやさしく微笑み、ヴァリーの肩に手を置いて言った。

「心配はいらない。お爺さんの薬も病院でもらってきた。さあ、行きなさい。神のご加護がありますように。」

私は胸を打たれ、ヴァリーと二人で涙を流した。

私たちプロテスタント教徒は、独身のまま俗世離れした生活を送るカトリックの聖職者を馬鹿にしたジョークで笑うことが多かった。しかし、我が身を犠牲にして人々に尽くした聖職者が大勢いたのだ。アウシュヴィッツでガス室行きに選ばれた囚人の身代わりを希望して死んだコルベ神父、収容所からの行進で倒れた瀕死の少女を背負って歩いたヴォイティワ司祭(後のヨハネ・パウロ2世ローマ法王)、ナチス政府の障害者安楽死政策を公然と批判したクレメンス・アウグスト枢機卿は有名だが、ヤコブ神父のような無名の聖職者たちが人々を救った逸話は枚挙に暇がない。

誰もが疑心暗鬼になっていたこの時代にも、献身と無私の愛は実際に存在したのである。