月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ギザの誕生

 

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上:1944年夏、フランツ4歳、アニタ2歳

 

フーゴは私を安心させようと、いつも同じことを手紙に書いてくる。

「超兵器が装備されれば、ソ連軍はドイツ国境を越えることは絶対に不可能だ。心配はいらない。」

しかし1944年10月、ソ連軍はついにドイツ国境線を超え、東プロイセンの小さな村ネンマースドルフに到着、防空壕に隠れていた女性、子供達、老人たち30人を射殺した。

早速ナチス宣伝相ゲッベルスはこれをプロパガンダに利用した。ニュース映画の映像には、下半身むき出しの女たちの死体が累々と横たわっている。しかし実際はこの村では殺戮はあったが強姦はなかったことを、戦後、生存者が証言している。ソ連軍が撤退してすぐに現地に到着したドイツ兵たちは、政府の命令により女たちの遺体から下着を剥ぎ取り、写真を捏造したのだ。そうして「罪もない女性たちの哀れな姿よ。ロシア人は鬼畜、人非人である!」と喧伝し、戦意高揚を促した。

しかしこれはむしろ逆効果だった。

「政府は連合軍がドイツ国境を越えることはありえないと言っていたのに、結局嘘じゃないか!」

国民は憤り、特に東プロイセンに住む私たちはいよいよ現実に迫っているソ連軍侵攻に慄然とした。ここからたった東200km先に、強姦魔、盗賊、殺人鬼たちが迫ってきているのだ。

私は当時、三人目の子供の出産を間近に控えていた。夫は遠い本土におり、避難するとしたら、すべて私がひとりでやり遂げなければならない。なんとしてでも出産前に夫のいるマグデブルグに移住しなくては。

ネンマースドルフ村での虐殺以来、フーゴも「心配いらない」とは書いてこなくなった。慌ててフーゴはマグデブルグ市役所の戦争局に赴き、妻と子供たちの移住受け入れ許可とマグデブルグ市での食糧配給切符発行を申請した。しかし、即座に拒否された。

「現在居住する市の移転届けなしには受け入れられない。よって食糧配給切符は発行できない。」

と言うのである。食料配給切符なしでは餓死してしまう。

私は夫の言うままに、エルビング市役所戦争局でその旨を話し、移転届けを願い出た。しかしこちらの返事はこうだ。

「まずあちらの受け入れ許可証を提出のこと。それなしには移転届けは発行できない。」

つまりこういうことだ。

「故郷を捨てる者は、戦意喪失した腰抜けだ。愛国の精神を持たぬ反逆者は生きるに値しない。」

多くの市民たちが市役所で移転届けを希望したが、全員私と同様に拒否された。しつこく食い下がる者には、役人ははっきりと「国家反逆罪が適用されれば死刑だぞ!」と脅すのだった。

こうして私はエルビングで三人目の出産を迎えざるを得なくなった。

ここから北東100kmほど離れたところにある大都市ケーニヒスベルグに、姉のロッテが住んでいた。この年の秋の大空襲で町は徹底的に破壊され、13万人が犠牲になった。多くの人々は燃えさかる炎を避けて、プレーゲル河に飛び込んで溺死した。

すでに郊外に避難していたロッテたちは助かったが、家を失った。三人の幼い子供たちを連れ、そのうえ臨月の大きなお腹を抱え、ロッテは郊外の田舎町に避難することになった。出産予定日は私と同じ時期だった。

 

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上:結婚式での姉ロッテとパウル。パウルはこの5年後にポーランドで戦死した。

私の母はロッテの出産と幼い子供たちの世話を手伝うため、ロッテのもとに向かい、私のもとには夫フーゴの母がマグデブルグから来ることになった。フーゴの父親はすでに亡くなっていた。

12月にエルビングにやってきた義母は、

「夢みたいだわ。夜通し眠れるって素晴らしいわ。」

と、空襲のない夜に感動していた。マグデブルグではエレベーターのない5階と地下室を日に何度も上り下りしていた。60を過ぎた義母には相当辛かったことだろう。

12月18日、私はアニタの二歳の誕生日を祝うため、朝から「戦争ケーキ」を焼いていた。これは第一次世界大戦から続く、卵、牛乳、バターを使わない素朴なレシピだ。家中に立ち込める甘い香りに、起きてきた子供たちはピョンピョン飛び跳ねて大はしゃぎだ。

そうこうしているうちに陣痛がやってきた。午前11時、これはいよいよだと判断した私は、フランツ、アニタ、義母に別れを告げ、入院に必要な私の寝巻きや新生児用の衣類を入れたカバンを持って、病院に向かった。

当時、期間限定で市から派遣されていた家政婦の女の子ヴァリーが私に付き添ってくれた。まだ16歳だったが実に気が利く賢い子で、産院に行くまでに何度も訪れる陣痛の逃し方を心得ていた。私が腰を曲げてハァハァ苦しそうに立ち止まると、座れる場所を目ざとく見つけ、私を支えながらそちらに導く。ヴァリーは私の腰をギュッギュッと押しながら痛みを逃し、陣痛がおさまると二人でまた歩き始めるのだった。

ヴァリーは家族をケーニヒスベルグの空襲で亡くした。大空襲の日、両親と年の離れた幼い妹たちは防空地下室に避難していたが、米軍機が落とした爆弾がアパートを直撃し、住民は全員死亡した。ヴァリーは偶然別の防空壕にいて無事だった。

しかし悲しい過去など微塵も感じさせない明るい子で、幼い私の子供たちをかわいがり、いつもニコニコと辛抱強く働く心の優しい娘だった。子供たちに自分の幼い妹たちの姿を見ていたのかもしれない。幼いアニタを強く抱き締めながら眼が潤んでいるのを何度も目撃したことがある。私はそのたびに気付かぬ振りをして、その場を離れるのだった。

病院に到着し、私は三人部屋に入院することとなった。

ヴァリーを家に帰し、分娩室に移るとすぐに小さな女の子、ギザが生まれた。三人目の出産は、あっという間の安産だった。

しかし、その出産の5時間後、それまでめったに鳴ったことのない空襲警報がけたたましく鳴ったのだ。どうせ空襲なんかないに決まっている、誤報だからこのままベッドにいさせてほしい、と患者たちが口々に叫んだ。しかしこの日の当直医はベルリンから疎開してきた医師で、トラウマからか真っ青になっていた。

「全員地下室に避難しなさい!全員だ!」

私は看護婦二人に支えられ、必死にヨロヨロと階段を下りた。会陰切開の傷口が縫合されていたので、痛みに唸り声をもらした。地下室に到着すると看護婦と医師たちは階段をまた駆け上がり、次の患者を抱えて降りしてくる。歩くことのできない重病人は担架で運ばれてくる。真冬で地下室には当然暖房はない。私がギザを抱いて震えていると、看護婦たちはまた駆け上がって毛布を取りにいく。彼女たちは天使だろうか?看護婦と医師たちは汗びっしょりになって、額に濡れた髪の毛がくっついている。結局、5時間後には警報解除となったが、誰も文句を言わなかった。

階段をヨロヨロ上りながら部屋に戻り、やっと眠れると安心したのも束の間、会陰切開の痛みと子宮収縮時の痛みに、のたうち回った。看護婦に言っても、申し訳なさそうに「鎮痛剤を切らしている」と言うのである。病院に鎮痛剤がないとは何事か!痛みに怒りも加わり、一瞬でも彼女たちを天使と思ったことを後悔した。多分、これは私の想像なのだが、鎮痛剤は当然あったはずだが、出産後の痛みごときで貴重な鎮痛剤を消費したくなかったということだろう。錠剤一つを惜しむほど、薬品は足りなかったのだろうか?

クリスマスは病院で過ごすことになった。三人部屋でたった一人、ギザに母乳をあげながら、クリスマスの歌を静かに歌った。

 

静かな夜、聖なる夜
神の子は なんとかわいらしく笑うのか
その神々しい口元には愛が溢れ
救いの時を教えてくれる
キリストよ、あなたは生まれた!

 

長い旅を終えたマリアは馬小屋でキリストを産み、こうして赤ん坊に乳を含ませながら、何を思っていたのだろう?

クリスマスが終わると、私は小さなギザを連れて退院した。しかし乳腺炎で乳房が固く腫れ上がり、触れるだけで飛び上がるように痛む。当然、抗生物質は手に入らず、熱まで出して、数日間寝込んでしまった。

義母は優しいおっとりとした人だが、現実的なことにはオロオロと困ってしまう人で、「ああフーゴがいてくれたらねえ。」とすぐに涙ぐむ。そのたびにヴァリーは

「そりゃあフーゴさんがいらしたら頼りになるでしょうねえ。でもそれまでは私がお手伝いしますから大丈夫ですよ。安心して休んでいてください。」

と微笑む。ヴァリーは幼い子供たちの面倒をしっかりみてくれているし、家事も器用にこなしてくれている。私は彼女の言葉通り、安心してぐっすり眠ることができた。

痩せた小さな体でチャカチャカせわしなく動き回り、ソバカスだらけの顔をクシャクシャにして笑っていた赤い髪のヴァリーのことを、60年以上経った今でも鮮明に思い出すことができる。悲しみを心の奥底にしまい込み、子供たちに愛情を注ぎ、「安心して休んでください。」と言った女の子は、まだたった16歳だったのだ。涙ぐんでいる彼女を抱き締めてあげればよかった。脳裏に浮かぶヴァリーの姿は懐かしく、そして切ない。

姉ロッテのところにいた母が心配して私のところに戻り、薬局で処方してもらったという乳腺炎に効くクリームを持ってきてくれた。

ロッテはクリスマスイブに四人目の子を出産しており、母は他の三人の幼い子供たちの世話で、てんてこ舞いだと言う。私の乳房にクリームを塗りながら、

「じゃあ行くわね。年が明けたら、マリア(ロッテの義母)と交代するから、その頃にこっちに戻るわね。」

と言って、私の額にキスをして姉のところに帰っていった。

それが母を見た最後だった。

クリームは驚くほどよく効き、二日もすると嘘のように腫れが引き、痛みが消えた。