月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

超兵器

ハンスが死んでからというもの、私の両親はすっかり老け込んでしまった。

やりきれない悲しみの中でも、幼いふたりの子供がいるということは大きな救いだ。特に2歳のフランツの片言のおしゃべりは私達を癒し、時には笑わせてさえもくれるのだった。

夏にはブルーベリーがたくさんなる森があり、私たちは子供たちを乳母車に乗せてよく散歩がてら摘みに行ったものだ。フランツも手を真っ青にして夢中になって摘み、籠いっぱいのブルーベリーを高々と持ち上げて、誇らしげに笑っている。そしてブルーベリーを小さな手いっぱいに掴むと、乳母車の中のアニタところまで走って行って、アニタの口いっぱいにそれを押し込むのだ。生後半年のアニタは嬉しそうに歯のない口で咀嚼しようとする。私が慌てて口から出そうとすると、アニタは顔じゅうブルーベリーで真っ青にしながら泣きわめいて抵抗する。そんな光景を見ながら、私も両親も笑っていた。無垢な子供たちのやることすべてが、暗闇の中に生きる大人たちに希望の光を放ち続ける。子供はどんな精神科医や精神安定剤よりも効き目がある、最高のセラピーだ。

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エルビングはいまだに空襲がない。のどかな日々は続き、散歩も海水浴も平時と同じように楽しむことができた。空襲警報が鳴っても、それは30km離れたマリエンブルグ上空を飛ぶだけで、ここには1機も飛来しない。

マリエンブルグには戦闘機Fw190の工場があったため、そしてナチス幹部の催し物に使われる中世の美しい古城があるため、米軍のB17機によって徹底的に破壊された。

 

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上・中世の面影をそのまま残すマリエンブルグ

下・爆撃後のマリエンブルグ城

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1943年のある夏の午後、私は懐かしい友人三人の訪問を今か今かと待ちわびていた。子供達と摘んだブルーベリーのケーキとお茶。きっと友人たちは声をあげて喜ぶに違いない。

この友人たちとの再会が実現した発端はこうだ。

先週、いつものように乳母車を押しながら、私は配給切符を持って食料品の受け取りに出かけた。路上で背後から「ヒルデ!ヒルデ!」と興奮した女性の声がするので振り向くと、かつての同僚で友人のトゥーテルが満面の笑顔で立っている。私たちは若い娘のようにキャーキャーと抱き合って、三年ぶりの再会を喜んだ。

結婚後は夫の仕事の都合でベルリンに住んでいたトゥーテルだが、空襲が激しくなり、実家のあるエルビングに三人の子供を連れて疎開してきたのだと言う。同じようにエリーもキールから疎開していると聞き、それではエルビングに住んでいるアニーにも声をかけて四人で会おうということになった。私たち四人は全員同じ事務所で働く同僚で大変仲が良く、仕事が終わると体操クラブのトレーニングに参加したり、サイクリングや海水浴を一緒に楽しんだりしたものだった。

その日の午後は久し振りに華やいだ楽しい時間だった。懐かしい思い出話に涙を流すほど笑い、ケーキに舌鼓を打ち、それぞれの子供たちの写真を見せあって感嘆した。そうだ、私たちにはこういう時間が必要だったのだ。たとえエルビングに空襲がなかったとはいえ、死霊はそこらじゅうにうごめいていた。膨大な戦死者、身体障害者と病人たちの強制入院と不可解な死、行方不明者たち。そして勤労奉仕、配給切符、食料受け取りの行列、秘密警察の監視、密告という日常。夫たちはドイツのために、自由のために、平和のために闘っている。その信念は揺るぎないはずなのに、長期にわたる戦争は私達をすっかり疲労困憊させていた。現実から一時でも逃避し、今、私たちは笑いを取り戻している。懐かしく愛おしい日々の思い出が私たち四人を包み込み、涙が溢れそうな瞬間さえあった。

「大変だったのよ。」

トゥーテルが現実への口火を切った。

「ベルリンは毎晩のように爆弾が落とされて、ひどい時には一晩に三回も警報が鳴ったの。地下室で聞く爆弾の音がどれほど恐ろしいか・・・。震えながら子供たちを抱きしめて、みんなで主の祈りを唱えるのよ。爆弾がすぐ近くに落ちると、みんな泣き叫ぶの。気がふれて悲鳴をあげながら外に出ようとする人もいて、みんなでその人を必死に抑え込むの。ベルリンの中心地はもう滅茶苦茶よ。いくら地下室にいたって直撃されればひとたまりもないわ。黒焦げの死体が道に溢れてて・・・。街中ひどい匂いなの。だから、ここで子供たちが夜通し眠れることが本当に嬉しいわ。でも私はトラウマになってるのか、サイレンが鳴るんじゃないか、爆撃されるんじゃないかって胸がドキドキして汗ビッショリになって、30分ごとに飛び起きちゃうのよ。」

トゥーテルの目の下のクマの意味がやっとわかった。

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上・ベルリンのアパート地下室は防空壕として使用された。

下・空襲後のベルリン

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べルリン市内だけでも1940年からの5年間に連合軍による310回の空襲があり、45,517トンの爆弾の雨が降った。3万件以上アパートが破壊されたのにも拘らず死者が5万人にとどまったのは、伝統的な木造建築の家が少なく、道路も幅広くとる近代的な都市開発が行われていたからだ。建物の延焼が他の都市よりも少ないのは、不幸中の幸いであった。

本土のほとんどの都市が大空襲に見舞われ、現在も全国で毎年5,500個の不発弾が見つかっている。

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上・空襲後のニュルンベルグの町。

下・空襲後のハンブルグ

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トゥーテルは子供たちを連れて実家に戻っては来たものの、実家は狭いので新しい住居を探していると言う。私は使っていない食器や調理器具を彼女に贈り、とても喜ばれた。

いつも陽気で笑顔がかわいらしかったエリーも苦労の絶えない毎日だったようで、すっかりやつれてしまっていた。結婚後はキール市に住んでいたが、やはり空襲が激しくなり、母親のもとに疎開してきた。

キールは中世から栄えたハンザ都市で美しい港街であったが、ドイツ海軍の中心地であったため、徹底的に破壊された。

「もうあの町はキールじゃないわ。瓦礫と死体と死体を焼く悪臭が漂う地獄よ。」

エルビングに住み続けているアニーと私は

「ここにいれば大丈夫よ。もう心配いらないわ。空襲が一回もないのよ。」

と励ますのだが、トゥーテルは不思議な話をするのだった。

「でもね、主人が戦場から手紙に書いてきたのよ。今すぐ西に逃げなさい、東プロイセンにはベルリン、ハンブルグ、キールよりもっと恐ろしい運命が待っている、って。」

恐ろしい運命?いったい何を言っているのだろう?私たちは首をかしげた。

エルビングに空襲はありえないし、ソ連軍もここまで来るはずはない。

しかもドイツ軍には新しく開発された「超兵器」があるではないか。あのイギリス人を震撼させたV2ロケットよりはるかに優れた兵器だとラジオニュースが誇らしげに教えてくれた。詳しくはわからないが、ジグザグに飛ぶ遠隔操作可能なロケットだとか、ニューヨークを壊滅させる巨大な爆弾だとか、イギリスを木っ端微塵にするような凄まじい威力の魚雷を搭載した潜水艦だとか、噂は果てしなく広がっている。

それに万が一エルビングから避難するようなことになっても、それは一時的なものであって、第一次大戦の時のように再び故郷に帰ることになるだろう。

私たちの当時の楽観的な見通しは、政府のラジオニュース、新聞、プロパガンダ映画といった政府管理のすべてのマスメディアを信じ切っていたからだった。

ドイツ本土の空襲の映像も、映画館でいやというほど見たものだ。空襲直後の瓦礫の中で、市民が泣きながら右往左往している。「なんという残忍冷酷な連合軍!罪のない人々を殺し、家を焼き尽くすこの野蛮な行為!我々は正義のために戦い続けるのだ!」あくまでも我々は犠牲者なのだ。プロパガンダニュース『ドイツ週間ニュース』のアナウンサー、ハリー・ギーゼの特徴ある声は、私たち戦争体験者のすべての耳に焼き付いているはずだ。私たちはそれを信じ、野蛮な連合軍に憤慨したものだ。

しかし英語を理解するインテリたちの中には、英国放送のラジオを極秘に受信している者もいた。二十代で生物学の大学教授となった秀才、トゥーテルの夫は、連合軍側が伝える報道をすべて理解していたので、ナチスのメディアに対して懐疑的であった。そうしてみると「東プロイセに待ち受けている恐ろしい運命」を予測できたのも、当然のことだったのかもしれない。

また彼は筆まめな人でもあったので、軍隊での苦労話も逐一トゥーテルに伝えてきた。可愛らしい童顔をしていたので、徴兵されてすぐに上官に「小僧」というあだ名をつけられた。点呼の際、上官に「おい、小僧!お前の戦前の職業を言え!」と尋ねられ、「伍長殿、生物学の大学教授でありました!」と直立不動で答えると、何とも言えない沈黙が生まれた。サディスティックな上官は小学校しか出ていなかったのだ。この時から彼を奴隷のようにこき使い、大学教授を顎で使える優越感に大いに満足した。

「軍隊は男の醜い劣等感が渦巻く、文化を持たない野蛮な世界だよ。こうして君に手紙を書く時間が僕には必要なんだ。」

トゥーテルの夫だけではなく、兵士たちが一様に筆まめだった理由が理解できるというものだ。それは健全な世界と繋がっていられる、一縷の希望であった。

夫のフーゴはマグデブルグの弾薬工場の監督官となっていたが、前線の危険を回避できたと安心していたのも束の間、マグデブルグでも空襲は始まっていた。

奇跡的にまだ工場は無事だが、連合軍は軍需産業の工場の所在地を知り尽くしているはずだ、いずれ爆撃を受けるだろう。( ユダヤ人たちがその所在地情報を連合軍に流している、という噂がまことしやかに囁かれたが、 実際はユダヤ人は強制収容所に送られいて、誰ひとり町には住んでいなかった。)

工場の従業員は市外に避難することが許されていなかった。弾薬の生産は戦争が終わらない限り続けられなければならないからだ。爆撃を受ける前に、作りたての弾薬はストックされることなく、直ちに東部戦線やフランス北部に輸送 (避難?)された。人命よりも弾薬にこそ価値があった。

それでも1943年のクリスマスと1944年の復活祭、フーゴは三日ずつの休暇をエルビングで過ごすことを許された。

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フーゴは子供達の成長をまぶしそうに見つめ、感激している様子だった。休暇は平和で穏やかな愛情に満ちていた。このままフーゴを返したくない。しかし帰らなければ脱走兵とみなされ、銃殺刑に処される。

爆弾の雨の降るマグデブルグの、しかも危険極まりない弾薬工場に帰る時のフーゴの絶望に満ちた表情を、私は忘れることができない。

私はこのとき再び妊娠し、出産はクリスマス直前と思われた。

6月のノルマンディ上陸作戦が始まってからというもの、ラジオから伝わる戦況は東部戦線でのドイツ軍撤退のことばかりだ。ソ連軍が東プロイセンに近付いてくることは火を見るよりも明らかで、私のお腹と同じように不安も膨らんでいった。

ソ連軍がドイツ国境を越えることはありえない。しかし用心に越したことはない。

私たちは貴重品や家財道具を本土の親戚に送り始めた。郵便局では同じように小包を抱えた人々の行列が毎日外まで続き、小包の山で局員は身動きができないほどであった。すでに局員はお手上げ状態、受付窓口を開くのは週に三日、小包は一回につき一人一個と定められるほどであった。

私はエンマ叔母さんのところに、大切なシルク製の最高級ベッドカバーを置かせてもらった。エンマ叔母さんは東プロイセンでも本土に近いポンメルンのシーベルバインに住んでいる。いくらなんでもソ連軍もここまで来ることはないだろう。ああ、あの美しいベッドカバー!シャンパン色の優雅な光沢とそのツルリとした暖かい肌触りに、誰もがため息をついたものだ。これだけは野蛮なソ連兵に渡してなるものか!

12本ずつの銀製のナイフとフォークはまだ一度も使ったことがない。19世紀にザクセン公御用達の職人が作った最高級の骨董品で、持ち手にそれは美しい細工が施してある。これは北の潟に住んでいるかつての職場の同僚マリアンネに頼んで、農場に深い穴を掘って埋めてもらおう。

その後に待ち受けていた運命を思うとき、ベッドカバーと食器に戦々恐々としていた自分の愚かさに、ただただ呆れるばかりである。

秋になると、バルト三国からの何千人という難民の行列が、毎日エルビングを通って西へと進んでいくようになった。ソ連軍はそこまで迫っていたのだ。

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馬車を持つ者はベッド、テーブル、椅子、タンス、生きた鶏の入った籠などを積み上げ、その間に子供達と女たちが座り込んでいる。馬車を持たない者は乳母車に布団や食料品を積み上げ、それも持たない者は衣類や穀物の入った大きな荷物を背負い、子供の手を引いてとぼとぼ歩いている。すでに朝晩は摂氏5度を切っているというのに、いったい夜はどこで寝るのだろう。

「かわいそうに。」

私たちは彼らを眺めながら言ったものだ。

「私たちのように超兵器を持たない民族の悲劇ね。」

市役所から毎週配布される広報には、エルビングは絶対安全と繰り返し書かれている。

私たちはいまだにドイツ軍の開発した秘密兵器が自分たちを守ってくれると信じきっていたのである。