月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ハンス

1943年1月、フーゴは前線には送られず、生まれ故郷のマグデブルグ市にある弾薬工場の監督官となった。マグデブルグはエルビングから700km以上離れており、兵士と同等に休暇は限られている。しかしそんなことは戦場に比べれば大したことはない。とりあえず私は安心していた。フーゴが戻るまでの間、私は子供たちを連れて実家に住むことした。

東プロイセンはいまだ爆撃を受けておらず、のどかな暮らしは戦前とほとんど変わらない。空襲警報も二度ほど鳴ったけれど、結局誤報であった。それでも女や老人たちは工場で戦場に送る衣類や食器などを毎日作り続けた。私は幼い子供がいたため、勤労奉仕は免れた。

しかしドイツ軍のソ連侵攻が始まってからというもの、状況は急変した。戦死通知が届けられる家庭が増えていったのだ。

毎日のように葬式の行列が教会から墓地に向かう。戦死者の葬式は盛大で、「英雄協会」メンバーの老人たちが指揮をとる。「英雄協会」とは第一次大戦の生き残り軍人たちで構成されたグループで、戦死者の葬式には紺色の帽子を被り、勲章をたくさんつけた紺色の制服を着て誇らしげに行進するのだ。その後ろを馬車に乗せられた棺、遺族、音楽隊が続いた。数千kmもの距離を遺体が運ばれてくるわけもなく、棺の中には遺体の代わりに個人の思い出の品や花や好物が入れられ、その上にはドイツの国旗がかけられた。音楽隊は軍歌『私には戦友がいた』を演奏し、道行く人は立ち止まって帽子を取り、頭を垂れた。

『私には戦友がいた』を聞く日が月に一回だったのが、週に一回になり、二回になり、毎日となり、やがては一日に数回になった。音楽が聴こえてくると、誰もが「もうたくさんだ。」と不快な顔をして顔をそむけた。

弟のハンスはソ連に侵攻する第6軍に所属し、戦地から手紙を送ってきていた。そこからは行軍の過酷さは微塵も感じられない。ハンスらしい陽気な明るい内容で、兵士たちの話すくだらない冗談やシラミとの闘いをおもしろおかしく伝えてきては私達を笑わせた。しかし私たちは心から笑っていたわけではない。毎日聴こえてくる『私には戦友がいた』に心休まることはなく、郵便配達夫が来るたびに震え上がった。

やがて冬がやってきて、ハンスからの手紙はパタリと来なくなった。ラジオニュースで「第6軍がスターリングラードでソ連軍に包囲されたが勇敢に闘っている。」と聞くと、母は毎日泣くようになり、父は寡黙になっていった。

1943年3月、私がフランツとアニタを乳母車に乗せて散歩から戻ると、居間で母が椅子に座り、エプロンで顔を押さえて泣いている。嗚咽を漏らす母の肩に、父は両手をかけて涙を流している。私は頭から血がサッと降りるのを感じ、すべてを悟った。ハンスが戦死したのだ。テーブルの上にある紙は戦死通知に違いない。私は震える手でそれを取った。

「御子息ハンス・ブランデンブルグはスターリングラードで忠実に任務を遂行し、祖国のために勇敢に闘い、忠誠宣誓を果たし、亡くなられました。ここに哀悼の意を表します。」

忠誠宣誓?ハンスはそんな宣誓はしていない。国のために闘うなんてナンセンスだと馬鹿にして笑っていた。まだ30歳にもなっていない!

私がキョトンとしている2歳のフランツを抱きしめ、声をあげて泣き出すと、フランツも一緒に泣き出した。

父が泣きじゃくる私たちに、しゃがれた声で言った言葉を今でも思い出す。

「平和になったらスターリングラードに花を手向けに行こう。」

スターリングラード。この町の名前を聞いたとき、苦しみぬいて死んでいった若者たちを悼む者が、今現在どれくらいいるだろう。

なぜハンスのような若者たちがスターリングラードで犬死しなければならなかったのか。そのいきさつを説明したい。

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1942年、バルバロッサ作戦は失敗に終わり、モスクワは陥落することはなかった。

しかし、これであきらめるヒトラーではない。

目的地をロシア南部に変更し、1942年4月、カフカスの油田地帯バクー奪取をもくろんだブラウ作戦を発令した。この作戦が成功すれば石油資源の獲得のみならず、ソ連の石油供給を断ち切ることでソ連軍の戦力に大打撃を与え、なおかつ英米からカフカスを経てソ連に供給されていた軍需物資供給ルートを遮断できる。まちがいなくソ連軍は戦争継続が不可能になり、降伏するだろう。

そのためには、何としてでも防御拠点である都市スターリングラードを占領しなくてはならない。スターリングラードには大砲製造工場の他に、最新の中型戦車T34を大量生産する工場がある。

しかし、参謀総長フランツ・ハルダーは、兵力、物資、燃料補給の面からも作戦は無謀であるし、地理的に見てソ連軍に包囲される危険性が高いと反対した。ヒトラーは激怒し、ハルダーを更迭した。(後にハルダーは強制収容所に送られている。)

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(上・ハルダー参謀総長)

この作戦に懐疑的だった重要人物がもうひとりいた。フリードリヒ・パウルス参謀本部部長である。

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(上・パウルス参謀本部部長)

陸軍上層部は貴族階級がほとんどであったが、パウルスは平民出身の叩き上げであり、それがヒトラーの気に入った。軍事知識には長けていたが、前線の経験はなく、そして何よりヒトラーには何一つ反論できない小心者だった。この気の弱さが後々ドイツ史に残る残虐なスターリングラード攻防戦へと導いていく。この男がハンスのいる第6軍の司令官に任命されていなかったなら、弟は生き延びていたかもしれないのだ。

話を戻そう。ドイツ軍はカフカス目指して次々と都市を占領していったが、あてにしていた油田施設は、先回りしていたソ連軍によってすでに破壊されていた。当然、進軍するにつれてドイツ軍は燃料不足となる。黒海の港湾都市を占領して海からの補給を確保するのだが、最初の計画よりも遥かに時間がかかる。陸路も山岳地帯のため道路はほとんど整備されておらず、鉄道もソ連軍によって破壊されていたので、補給は著しく滞った。しかもソ連軍は撤退するように見せかけて、こっそりと補給をしながらまた反撃に出るという戦略に出て、ドイツ軍を苦しめた。まさしくハルダーの予測通りであった。ヒトラーは遅々として進まない戦状に激怒し、思いつくままに進撃命令を乱発した。しかし燃料のない戦車などただのゴミだ。ドイツ軍は撤退を始め、石油資源確保の作戦は完全な失敗に終わった。

ヒトラーがここで諦めるわけがない。なんとしてでもソビエト連邦最高指導者スターリンの名前を冠する都市スターリングラードを陥落させるのだ。

このひとりの男のメンツを守るため、スターリングラードは悲劇の激戦地として歴史に刻まれることとなった。

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ヒトラーはこのスターリングラードを簡単に制圧できると高を括っていた。自分の根拠のない直感を信じ、ソ連軍を過小評価していたのだ。

まずドイツ空軍は1000機の爆撃機を送り込み、二週間にわたって徹底的にスターリングラードを破壊した。町は瓦礫と化し、この最初の空襲だけで4万人以上の市民が犠牲になった。スターリンは60万人の市民に対し、避難禁止令を発令していたのだ。市民も義勇兵として戦えば、家族を守るために懸命に闘うだろうと言うのである。それに避難するには広大なヴォルガ河を船で渡らなければならないのだが、すべての船はソ連軍によって徴取され、市民には残されていなかった。

そしてこのドイツ空軍による爆撃は、皮肉なことにドイツ陸軍にとって大きな妨げとなった。というのも、市街戦の際、瓦礫はソ連軍狙撃兵の絶好の隠れ場所となっただけでなく、ドイツ軍戦車の進路をも阻み、立ち往生させたのだ。 

それでも市街戦は続いた。ソ連側は一日に2500人の死者を出したが、毎日全国から男たちをかき集め、スターリングラードに送り込んだ。軍事訓練を全く受けていない農民や羊飼いまでもが駆り出され、逃亡しようとする者は容赦なく射殺された。ヒトラーはこのソ連の途切れることのない人員を全く予想していなかったのである。

ドイツ軍の犠牲者も増え続け、精神を病んで自殺する者も少なくなかった。

さらなる恐怖はロシアの冬であった。ドイツ兵には冬用の装備がない。雪がちらつき始めた11月、とうとうソ連軍はドイツ軍を包囲した。ドイツ空軍はソ連軍に爆弾を落とし続けたが、ドイツ軍の攻撃可能な戦車はたった100両、ソ連軍の戦車は1200両。

それでもヒトラーは諦めない。ソ連軍はドイツ軍の降伏を求めたが、ヒトラーはスターリングラード死守を命令し続けたのだった。「兵士の死は大きな問題ではない。困難を乗り切った者こそ勝利者となる。」

スターリングラードのすべての将校たちはヒトラーの命令を無視して降伏すべきだと総司令官パウルスを説得しようとした。もうこの闘いにはなんの意味もない。残った兵士の命を救うべきだ。しかしパウルスはヒトラーを恐れ、降伏を拒否した。

ますますソ連軍による包囲網は狭まり、ドイツ空軍輸送機から投げ落とされる食料だけが頼りだった。しかし、その輸送機も飛行場もソ連軍によって破壊され、兵士たちは軍馬、犬、人肉を食べて飢えをしのいだ。気温はマイナス30度であったが、狙撃されないよう、火を使うことは禁じられていた。飢餓、栄養失調、チフス、凍傷、発狂。まさに生き地獄であった。

業を煮やしたある若い士官は、降伏を懇願するためパウルスのいる司令部に赴いた。デパートの地下室が司令部として使われており、パウルスはそこでコニャックを飲みながら葉巻をくわえ、ステーキが焼き上がるのを待っていたという。兵士たちが餓死し、人肉まで食べている者がいることを知らぬはずはない。パウルスは士官の嘆願も退け、ヒトラーの命令通り死守を続けると言い放った。

一般市民はより悲惨な状況にあった。廃墟や掘った穴の中に住み、木の根、果実、草などを食料としていた。食料と引き換えに、ドイツ兵のためにヴォルガ河まで水を汲みにいく子供も多かった。いたるところにソ連の狙撃兵が潜んでおり、ドイツ兵は河に近付くことができなかったからだ。やがて子供たちの水汲みがドイツ兵のためであることをソ連兵が認識すると、子供たちも容赦なく射殺された。最終的に生き残った市民は1万人足らずであった。

ヒトラーはパウルス総司令官に「スターリングラードを死守せよ。死守できなければ玉砕せよ。」と指令を出し、パウルスを元帥に昇格した。これは暗にパウルスに自決を促しているのだ。ドイツ軍事史上、降伏した元帥はいない。元帥となったパウルスに最後まで降伏を拒否させ、自殺を「英雄の死」として祭り上げるのである。しかしパウルスは元帥にはなったが、自殺はしなかった。

1943年1月31日、司令部にソ連兵が踏み込むと、パウルスはベッドに寝そべっており、「もうこの戦いには関わりたくない。ソ連の捕虜にはなるが、降伏する気はない。」と言った。

パウルス元帥は、生き残ったドイツ兵10万人と共に捕虜となって収容所に向かった。

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ソ連での収容所生活は三日に一度の食事、蔓延するチフスという劣悪なもので、最終的に再び故郷の地を踏めたドイツ兵は5700人ほどであった。

このブラウ作戦で、ドイツ軍100万人、ソ連軍にいたっては230万人の死者を出した。

そして私の弟ハンスも、その330万人のうちの一人だったのだ。どう死んだのかはわからない。狙撃されたのか、餓死か、凍死か。

さて、パウルス元帥のその後の人生について補足しておきたい。パウルスは収容後、即座にソ連側に寝返って、収容所とは名ばかりの贅沢な家をモスクワ郊外に与えられた。料理人と使用人を住まわせ、監視付きではあるが比較的自由に外出ができ、夜はオペラを楽しんだ。その見返りに、モスクワ放送局からドイツに向けて「ヒトラーの蛮行は世界の平和を破壊する、史上最悪のおぞましいものである。」と放送した。当然ヒトラーは激怒し、パウルスの妻と子供たちを強制収容所に送り込んだ。戦後、ソ連から解放されたパウルスは、東ドイツの反ナチとソ連のプロパガンダに利用されたが、ドレスデンに大きな屋敷とアメリカ製乗用車と自由に西側に行く権利を与えられた。

私がなぜこの男を許せないか、おわかりいただけただろうか。

 

母はハンスの死を境に抜け殻のようになって、一日のほとんどを悄然とハンスの部屋で過ごすようになった。子を亡くした親の七転八倒の苦しみ。いったい何百万人の親たちが、このころ同じ苦しみの中にいたのだろう。

これは最近になってわかったことだが、兵士が身につけている認識票は、死体から取り外した後、たとえ敵国であっても軍部に情報を送ることがジュネーブ条約で定められている。ソ連側が拾ったドイツ兵の認識票のほとんどが破棄され、戦後何十年経ってもロシアから息子や夫の帰りを待ち続ける家族が大勢いたのだ。

生きているかもしれないという希望を持って生きるのと、死者を心の中で弔いながら生きるのとどちらが不幸なのだろう?  

 

ハンスを語る上で、外すことの出来ないエピソードがもうひとつある。

それは戦死通知が届いた翌日のことだった。夜遅く、私は家族が寝静まってからひとりハンスの部屋で泣いていた。

ふと見上げた本棚の上に、小さな箱があるのに気が付いた。なぜか私はその箱が妙に気になって、中を開けてみた。50通以上はありそうな手紙の束と何枚かの写真が入っている。写真はすべて同じ女性である。こちらを向いて微笑んでいる写真、ピアノを弾いている写真、一心に本を読んでいる写真。この顔には見覚えがある。間違いない、ヘレナだ。

ヘレナ・ ゴールドシュタインは東プロイセンの首都ケーニヒスベルグ在住の若いユダヤ系女流ピアニストである。ショパンやリストなどロマン派の作品を得意とし、かつてはここエルビングでも頻繁に演奏会を開いていた。高い演奏技術と豊かな音楽性もさることながら、その容姿の美しさに私達は魅了されたものだ。つややかに波打つ黒髪、陶器のように白い肌、黒く輝く大きな瞳。ヘレナが舞台に現れただけで聴衆は感嘆のため息をつき、鍵盤に触れれば情熱的で優雅な音楽の魔法にかかってしまう。ヘレナはまさに麗しいミューズそのものであった。

私達家族は音楽が好きで、彼女がまだ天才少女と呼ばれている頃から頻繁にリサイタルを訪れたものだった。

コンサート終了後に私たちがレストランで食事をしていると、ヘレナも両親と思われる夫婦を伴って店内に入って来たことがある。演奏を褒め称えてブラボー!と拍手をすると、ヘレナは真っ赤になって恥ずかしそうに「ありがとうございます。」とえくぼを浮かべた。情熱的な演奏とは裏腹に、実際は内気で、はかなげな女性であった。

やがてユダヤ人への弾圧が激しくなり、ヘレナも演奏活動を禁止され、彼女の名前も聞かなくなって久しい。風の噂で他のユダヤ人たち同様、国外に移住したと聞いていた。

それにしても、なぜハンスはこのようなプライベートな写真を持っているのだろう?ヘレナと個人的な付き合いなど全くないはずだ。

大きな秘密があるに違いないと直感し、胸がドクドクと音を立て始めた。

何の迷いもなく、私は手紙の束をほどいた。差出人はすべてヘレナである。一通一通、ハンスが日付順に重ねた手紙を、私は床に座り込んで古いものから読み始めた。そこには彼女の音楽のように優雅で美しい文字が並んでいた。

それはハンスが送り届けた物品に対する礼状であった。本、食料品、衣類、日用品、楽譜、薬、毛布まである。ハンスはユダヤ人たちに無料で歯の治療まで行っていたらしい。ヘレナは丁寧に礼儀正しく礼を述べている。

ところが二十通目を過ぎた頃から、二人称が敬称のSieではなく、親称のDuに変わってきていることに気が付いた。

そして三十通目を過ぎた頃、内容はガラリと情緒的になっている。

「最愛の人、ハンス 私も同じ思いです。私にとっても人生で最も美しい時間でした。全知全能の神が私達をめぐり合わせ、愛することを教えてくださったのです。」

やがて手紙は疑いようのない関係を彷彿とさせる内容へと変化していく。

「あなたの優しい腕の中で、私はこの忌まわしい現実をしばし忘れてしまいました。ああ、愛する人よ、あなたの暖かい指が私の肉体に触れるたび、歓びが体の中から熱くほとばしるのを感じるのです。ああ、ハンス、あなたは私の生きる喜びです。」

次の手紙も、その次の手紙も、ヘレナは溢れんばかりの恋心と官能の歓びをめんめんと書き綴っている。弟の性生活の話など知りたくないはずなのに、私は読むのをやめることができなかった。顔は上気し、身体がほてるのを感じた。

そういえば、ハンスは週末のたびにケーニヒスベルグに行っていたことを思い出した。ケーニヒスベルグ大学を卒業していたため、学生時代の友人のほとんどがそこに住んでいたし、姉のロッテも子供達とそこに住んでいる。しかしハンスは友人にも姉にも会っていなかったのだ。

最後の手紙は日付から見てハンスが入隊する直前のものと思われた。

「愛しい人よ。どうかご無事で。あなたがずっと欲しがっていたプロマイド写真を送ります。愛は時空を超えることを忘れないで。離れていても、私はあなたと共にいて、あなたを抱きしめ、愛します。   あなたのヘレナ」

プロマイドは箱の中には見当たらない。きっとハンスは戦場に持っていったのだろう。

私はあまりの衝撃に呆然と座り込んだままだった。

婚前の性交渉はふしだらとされていた時代である。ましてや相手はユダヤ人。1935年にニュルベルグ法が制定されて以来、ユダヤ人との性行為は大罪であり、密告されれば拷問の後、死刑あるいは15年の懲役刑である。それを承知で、ハンスはヘレナのもとに通っていたに違いない。なんと恐ろしいことを・・・。

見てはいけないものを見てしまった。手紙と写真を再び箱の中に入れ、本棚の上にそっと戻した。

当時、私はこの事件を家族にも、夫にさえも話せずにいた。それだけユダヤ人との恋愛はタブーだったのだ。実際、ユダヤ人と恋愛関係を持った2200人以上のドイツ人が「アーリア人の血を汚す者」として逮捕されていた。弟の誇りを守ることが姉としての義務だと確信していたのだ。

しかしそんな必要はなかったのだと今は思う。

私は弟のことをよく知らなかったのかもしれない。私の知っていた弟は、陽気に口笛を吹き、冗談ばかり言って私たちを笑わせている、やんちゃな男の子だった。皮肉屋で悪趣味なブラックジョークで私達に叱られることもしばしばあった。ロマンチックやセンチメンタルが大嫌いな照れ屋だったくせに、あのヘレナとの世界はどうだろう?

しかしその一方で、ナチスを嫌い、ヒトラーをチョビ髭野郎と呼んで軽蔑し、ユダヤ人に同情し、心を寄せていたのもハンスだった。

黒水晶のように輝く、憂いを帯びた瞳のヘレナもよく思い出す。私は内気ではかなげな女性だと思い込んでいた。しかし、放胆に性の歓びと恋慕の情を歌い上げ、それを生きる喜びだと魂を震わせている。ヘレナは骨の髄まで芸術家だったのだ。まさに彼女の情熱的な音楽そのものではないか。

今では東プロイセンのピアニスト、ヘレナ・ゴールドシュタインを知る人は誰もいない。終戦直後に伝え聞いた話によれば、国外に逃げたと思われていたヘレナとその家族は、1942年、ゲシュタポに捕らえられ、それから間もなく東プロイセンのシュトゥットホフ強制収容所のガス室で殺害された。24歳だった。

ヘレナがゲシュタポに捕らえられるまで、あるいはスターリングラードが包囲されるまで、文通は続いていたことだろう。

強制収容所とスターリングラード。それぞれの地獄の中にいても、二人はほんの一瞬でも甘い思い出にこころ癒され、現実とは対極にある愛情あふれる世界にいられたのではないかと想像するのだ。飢えと寒さと戦いながら、ハンスはヘレナの写真を眺めていたに違いない。

若い二人がお互いを必要とし、求めあったのだ。何の不思議もあるまい。 

 

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