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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

フーゴ

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フランスからまるでバカンスを楽しんでいるかのようにのどかな手紙を送り続けてきた夫フーゴは、ラトビアのリガに移ることになった。

1941年、ドイツ軍がソ連への奇襲攻撃を開始したからだ。有名なバルバロッサ作戦である。

ドイツ軍はソ連国境に兵力を集め始めた。総勢300万人。フーゴはバルト海沿岸を伝ってソ連北方に侵入する部隊に配属されたのだ。

ソ連軍はドイツ軍の不意打ちに何の対策もしておらず、一方的な奇襲を受けて退散した。

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ドイツ軍がリガの町に入ると、町は歓迎ムードで盛り上がっていた。

それまでラトビアはソ連の占領下となっており、粛清が続いていた。反スターリン派の何千人という政治家、将校、文化人たちが処刑されたのだ。リガ市民はロシア人を撤退させたドイツ軍を「共産主義の圧制からの解放軍」と呼んで歓待した。(実際のところ、ヒトラーはスラブ民族を劣等人種とみなしていたので、バルト三国を解放するどころか、植民地化する計画だった。)

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フーゴがリガから送ってくる絵葉書は、さすがに「バルト海の真珠」と呼ばれるにふさわしい、美しいものばかりであった。中世の町並みをそのまま残す旧市街、アールヌーヴォー調の優雅な建築物が並ぶ界隈は小さなパリとも言われるゆえんであった。

軍事訓練の合間に書いてくるフーゴの手紙の内容は常に楽しそうで、ある日はこの街がどれほど美しいか、ある日はどれほどリガ市民がドイツ兵に優しく接してくれるか、またある日はここの名物のロールキャベツとハニーケーキがどれほどおいしいかを生き生きと伝えてくる。

しかし、ある日の手紙はまるで様子が違った。

「毎日ゲットー(ユダヤ人居住区)から何千人というユダヤ人たちが連れ去られていく。ああ、なんと気の毒な人々だろう。彼らはもう戻っては来ないだろう。かわいそうに。」

なぜ戻って来ないのか、どこへ向かうのか。私にはその意味がわからなかった。

ドイツがバルト三国を占領してすぐ、リガでもユダヤ人迫害が始まった。これを行ったのは、兵士ではなく、アインザッツグルッペンと呼ばれるナチス保安警察から組織された特別部隊だった。都市が陥落した途端、この特別部隊はユダヤ人を集めて森や野原に連れて行き、銃殺し、遺体を土中に埋める、という業務を遂行していた。

リガでもそれは行われた。まずゲットーが作られ、4万4000人のすべてのユダヤ人はそこに強制移住させられた。アインザッツグルッペンは毎日数百人から数千人のユダヤ人を選抜し、「ここが定員以上になったので、別のゲットーへ移動する。日用品をトランクひとつにまとめるように。」とだけ伝え、リガから8km離れたルムブラの森まで延々と歩かせた。多くの者は死を予感して泣いていたという。ルムブラの森に到着すると、全員裸にしてから銃殺し、遺体を壕に埋めた。(多くのリガ市民もこの殺害を率先して幇助していた。)

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フーゴが見たユダヤ人の行列は、このルムブラの森に向かう死の行進だったのである。ユダヤ人絶滅計画は極秘であったのにもかかわらず、多くの兵士たちは噂を伝え聞いて知っていた。それに抗議すれば銃殺刑に処されることは自明の事実であった。

やがてフーゴもハニーケーキを楽しむ、のどかな日々と別れを告げる時がやってきた。東部戦線へと送られたのだ。

ドイツ軍は快進撃を続けたが、クレムリンまであと十数km、というところで、ロシアの厳しい冬が例年よりも早くやってきた。ドイツ軍は雪と氷と泥とソ連軍の猛攻撃に行く手を阻まれて電撃作戦は頓挫し、持久戦となり、やがて進撃は休止した。ドイツ国防軍指導部は撤退を勧めたが、ヒトラーは頑として戦線維持を譲らなかった。

当時のドイツのマスメディアはすべて政府の管理下にあったので、ラジオ、新聞、ニュース映画ではただドイツ軍の快進撃を誇らしくたたえるだけで、死傷者については全く触れていない。映画館で観るニュース映画に映る兵士たちは皆笑顔で満足げ。行進しながら勇ましいナチス軍歌を声高らかに歌っている。「自由のために!祖国のために!」ドイツ国民はそれを信じきっており、この時点ですでにドイツ側の戦死者が20万人を超えていることなど、想像もしていなかった。

翌年の復活祭休みにフーゴは一週間ほど帰省した。フーゴも私も抱き合って再会を喜び、涙を流した。

フーゴは戦場のことを全く話そうとしなかったし、私も何も尋ねなかった。今はただ心も体ものんびりと癒してほしい。それだけだったから、フーゴの好きなケーニヒスベルグ風肉団子煮込みや魚料理を作ったり、バターたっぷりのケーキを焼いて家の中をいい匂いいっぱいにした。

東プロイセンの四月は肌寒いが、私たちはヨチヨチ歩くフランツを連れて毎日長い散歩をした。膨らんだ白いモクレンやライラックを眩しそうに見つめ、フーゴは久しぶりの家庭の幸せを噛み締めているようだった。

束の間の休暇を楽しんだあと、フーゴはまた前線に戻っていった。

私はこの時二人目を妊娠し、夏を過ぎる頃にはお腹も膨らみ始めた。クリスマス前にこの子は生まれてくる。その頃にはフーゴも戻るだろうし、クリスマスは家族四人でお祝いしよう。

しかし、その願いは叶わなかった。

フーゴが負傷した。ドイツ軍からの手紙には、読むに堪えないようなことが綴られていた。友軍の投げた手榴弾が木の幹にぶつかってこちらに跳ね返って破裂、フーゴのヘルメットが割れ、頭蓋骨の一部が飛び散った。幸い脳に損傷はないが、野戦病院では手に負えないほどの重体であるので、東プロイセンのグンビンネンの病院に移送した、と書いてある。頭が真っ白になった。とにかく病院に行かなくては。フランツを連れて行こう。きっと喜ぶはずだ。グンビンネンなら汽車で3時間ほどだろう。取るものも取り敢えず、フランツを抱きかかえて汽車に乗り込んだ。絶対に死なせない。

グンビンネンの駅から病院までどう行ったのか、全く思い出せない。とにかく病院に入ると、いきなりエントランスホールいっぱいに何十台というベッドが並び、負傷した兵隊たちが呻いていた。私が近くの若い看護婦にフーゴの名前を伝えると、手元のリストを調べ始め、「ご主人は大丈夫ですよ。意識を取り戻しました。ご安心ください。」と微笑んだ。その看護婦は天使だったに違いない。私は喜びが一気に涙となって溢れ出るのを止められなかった。看護婦は私の肩を抱きかかえながら、フーゴが寝ているベッドまで連れて行ってくれた。

フーゴはぼんやりと天井を見つめていた。ああ、生きている!私は体の中からすべての力が抜け落ちるのを感じ、ベッドの端に座り込んだ。頭を包帯でグルグル巻きにしたフーゴは私をじっと見つめ、それから突然子供のように泣きじゃくり始めた。私はフーゴの頬を撫で続け、もう大丈夫よ、と言い続けた。

看護婦の話によると、フーゴは頭蓋骨の一部を損失し、今はそれに代わるメタルのようなものをあてがっているらしい。通常の生活に戻るには数ヶ月かかるだろう、とのことだった。

それから二ヶ月間、私は二歳のフランツを連れ、大きなお腹を抱えて毎日のように病院に通うようになった。フランツが来るのを負傷兵たちは心待ちにするようになり、「ああ天使ちゃんが来た。」と頬をなでたり抱きしめたりする。フランツはベッドの間を無邪気に走り回り、笑顔を振りまく。誰もたしなめる者もなく、皆がそれぞれのベッドから「こっちへおいで。」と手招きするのだった。戦場での辛い体験のあと、フランツの存在は大きな癒しとなっていたのだろう。

フーゴはやっと歩けるほどに回復すると、ただちに軍に復帰した。ヘルメットを被ることができないので前線は免れたが、それでも闘う方法はいくらでもあるという。

クリスマスを家族全員で過ごす、という願いは叶わなかった。私は女の子アニタを無事に出産し、フーゴにこの写真を送った。遠くでドイツの平和のために闘っている勇敢な夫に!

「自由と平和のために戦おう!」

総統はラジオでそう繰り返している。そうだ。平和!そのために兵士は闘ってくれている。私たちの平和な暮らしのために!

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