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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

マルティン

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夫のフーゴは私たちの息子フランツが1歳になる前にフランスに出征していった。

出征と言ってもフランスはすでにドイツの占領国であり、前線で戦うわけではない。フランスから送られてくる美しい絵葉書に几帳面に並ぶ小さなフーゴの字は、のどかな駐屯地の雰囲気を伝えている。私は葉書が来るたびにそれを実家に持って行き、両親の前で読むのだった。

ある日、いつものように乳母車を押して実家に向かっていると、女性の叫ぶような大きな泣き声が聞こえてきた。実家に近付くに連れてその声が大きくなる。どうもはす向かいのコッホさんの家から聞こえてくるようだ。

慌てて実家に入り、台所にいる母に尋ねた。コッホ家の一人息子マルティンが亡くなったのだと言う。

マルティンは12歳。小児麻痺の後遺症で、歩くことも話すこともままならい重度の障害を持っていたが、それでも常にニコニコと陽気なかわいい男の子で、近所の人気者だった。長いこと子供に恵まれず、やっと生まれてきたマルティンをコッホ夫妻は溺愛していた。その様子は幸せな親子そのもので、なんとも微笑ましいのだった。

そのマルティンが一ヶ月ほど前に入院させられた。突然、療養所の車がやってきて、まるで犯人が逮捕されるかのごとく、強制的に連れて行かれたのだ。マルティンの体調は良好で、病気ではない。なのになぜ?

コッホ夫人は「マルティンを検査しなくてはいけないと言うの。新しい法律だって。すぐに戻るから心配要らない、誰も付き添ってはいけないというのよ。」と涙をハンカチでふいていた。

しかし待てど暮らせどマルティンは帰ってこない。コッホ夫妻は毎日市役所に通い、マルティンの消息を尋ねるのだが、どの療養所かもわからないと言う。

一週間後、やっと療養所から手紙が来た。

マルティンは重症であるので、しばらくの検査入院が必要だというのだ。しかも見舞うことは許されないと。

コッホ夫妻は憤慨し、市に抗議した。息子は病気ではない。返してほしい。

しかし、市からの返事はいつも同じで、我々の管轄ではない、と言うだけであった。

マルティンは字を書くことができないので、療養所の職員からの報告だけが唯一の繋がりであった。

「検査の結果、大変重度の心臓疾患があることがわかりました。ここでしばらく入院することが決定しました。」

新しい手紙に、コッホ夫人は半狂乱になった。そこには住所も記載されていない。マルティンはどこの病院にいるのか、なぜ見舞ってはいけないのか。

そして今日、病院から手紙が来た。

「残念ながら、御子息は心臓発作のため、お亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りします。」

コッホ夫人の叫び声で私の母は何事かとコッホ家に走っていくと、うなだれたコッホ氏がそう話してくれたという。

アオーン、アオーン、と、狼の遠吠えのように泣き叫ぶコッホ夫人の声が、60年以上経った今でも耳の中に残っている。

ナチス政府は優秀なアーリア人だけを残すため、すべての身体・精神障害者と病人を殺害するT4政策を極秘で行っていた。

生産能力のない障害者は生きる価値がない。

ドイツ国内で20万人の障害者、病人が検査という名目で集められ、ガス室で殺害されていたのだ。マルティンもその一人だった。(ここでガスによる殺害が効率的であることが証明され、後にアウシュヴィッツなど強制収容所で使用されるようになる。)

当時はそんなことは知る由もない。それでも愛する息子を無理矢理連れて行かれ、付き添うことも見舞うことも許されず、挙句の果てにただ死んだとだけ告げられる。コッホ夫妻の悲しみと憤りを思い、体が震えた。

「むごいことをするよ。」

母は涙を指でぬぐい、台所でスープを作っている。後でコッホ夫妻のところに持っていくのだと言う。とてもそんな食欲はないだろうが、それでも何かしないではいられなかったのだろう。

もう泣き声は聞こえてこない。夕暮れの静寂の中でスープがコトコト音をたてている。私たちは湯気で曇ったガラス窓からコッホさんの家を黙って眺めていた。

翌日、コッホ氏は市役所に抗議に行ったのだが、職員は耳元で「コッホさん。おやめなさい。あなたが危険な目に会いますよ。」と囁くだけだった。

コッホ氏は肩を落として帰っていった。