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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

私の家族

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これは1929年の写真。

一番右の姉ロッテは当時24歳。母似の細面で、薄いブルーの瞳が印象的なかわいらしい女性であった。性格も穏やかな優しい人で、私とは5歳離れていたが大変仲が良く、打ち明け話や相談事をヒソヒソと夜遅くまで話すが好きだった。おしゃべりな私にケタケタ笑う楽しそうなロッテの顔を今でも懐かしく思い出す。

その横は兄のワルター、当時22歳。大学で造船技術を学んだ後、エルビング造船所でエンジニアとして働いていたが、勤務中に片目を負傷し失明、左眼は義眼であった。そのせいで兵役を免れたのは不幸中の幸いと言っていいだろう。静かに読書をしているのが好きだったが、ピクニックなどに誘えば喜んで一緒に来たし、私達の騒がしいおしゃべりもニコニコと聞いているような寡黙な人だった。

その隣は19歳の私。姉と私の髪のウェーブは二十年代に流行したWasserwelle (ウォーターウェイブ)と呼ばれるヘアスタイルで、ドイツ中の女性達が毎朝熱いコテを髪に当てて苦労してこのスタイルを作っていた。当時はウェストラインがゆったりした直線のワンピースで体のラインを隠すのも流行していた。

そして左端は当時16歳の弟ハンスで、後に歯科医になった。冗談ばかり言って人を笑わせるのが好きな、陽気な男の子だった。特に美男子というわけではなかったが、私の友人達からは絶大な人気で、コソコソと「ハンスってかわいいわ。」とか「ハンスも誘いましょうよ。」とか言われるのが常だった。女の子だけでおしゃべりしているとハンスが口笛を吹きながらその中に入ってきて、たちまち私達は笑いに包まれる。兄のワルターはそんなハンスが羨ましく、ちょっぴりヤキモチを焼いていた。

それでも兄弟仲は良く、私達は一緒にボートに乗ったり海水浴をしたりピクニックでお茶をしたりするのが常だった。

 

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これは父。

寡黙で躾には厳しい人だったが、教育には出費を惜しまない人だった。父自身が大変な読書家だったので、教養があり、芸術にも造詣が深かった。エルビングの町にもゴシック建築の美しい劇場があり、バレエやオペラなど新しい演目が上演されるたび、家族全員でおしゃれをして鑑賞に行ったものだ。

兄と弟は大学で学び、姉と私は9年生で学校を終えた後、二年間実業学校で学ぶことを許された。これは戦前の女性としては珍しいことで、簿記などの経理の勉強をしたのち、姉も私も大きな船舶会社で経理事務の仕事をすることが出来た。

姉と私はピアノの個人レッスンも受けていたので、今でも楽譜を見ながら簡単な曲を弾くことができる。私達姉妹が戦後の過酷な日々を乗り越えることが出来たのは、音楽が心の慰めとなったからだ。厳しい父であったが、当時としては出来る限りの教育を与えてくれたことに、心から感謝している。

 

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母は一言で言えば、愛の権化のような人だった。

常に子供達に心を砕き、ユーモア溢れる言葉で私達を慰め、励ましてくれた。厳格で面白みのない夫を尊敬し、かいがいしく尽くしていた。私の話をいつも微笑みを浮かべて聞き、最後には必ず「ヒルデ、素晴らしいわ。」とか「おまえは私の誇りよ。」と言うのだった。

「ユーモアを忘れてはだめよ。」これが母の口癖だった。私達が勉強や仕事のストレスで機嫌が悪くても、友達や兄弟と喧嘩をしてしてふさぎこんでいても、常に母は私達に片目をつぶってお茶目に言うのだった。

「どんな時にでも笑うことが出来る要素を探すの。そうすればきっと乗り越えられるわ。」

そのせいか脳裏に残る母は常に笑顔なのだ。それと同時に、なぜ神様はこれほど愛情溢れる優しい人に、あのような悲しい最期をお与えになったのだろうと胸が苦しくなるのだ。