月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

1910年生まれのヒルデおばあちゃんは、ドイツ激動の時代を生き抜いた人です。戦前から終戦直後までの、彼女の思い出話を綴っています。

ニュー・ルック

シュルツ牧師の悲しい体験談は、当時は決して特別なものではなかった。戦前のドイツの人口は7千万人、そのうち635万人が戦争中に命を落としたのだから、生き残ったドイツ人の多くが家族の誰かしらを亡くしていた。私自身もまた、両親、弟、姉婿、姪、甥たち…

シュルツ牧師は語る5.女たちの戦争

私が意識を取り戻したのは、病院列車内のベッドの上でした。幸運なことに、私がクスルク近郊の荒野で失神してすぐに軍医を乗せた赤十字車が後方からやって来て、その場で応急処置を受けることが出来たのです。応急処置といっても、前線では「身体に入った物…

シュルツ牧師は語る4.東部戦線にて

「この戦争はクリスマスまでには終わるだろう」 独ソ戦が始まった1941年夏頃、私たちは何度この言葉を口にしたことでしょう。今回もポーランド侵攻やフランス侵攻の時と同様、あっという間の電撃戦(*敵戦線を迅速に突破すること)で、ドイツ軍は再び勝利の…

シュルツ牧師は語る3.善き力に守られて

1939年、私は神学第一次試験に合格し、ヴィカールの真っ最中でした。ヴィカールとは指導牧師のもとで牧師見習いをする修業期間のことで、これを経て、初めて神学第二次試験を受験する資格を得られるのです。 私はベルリン・ヴェッディング地区にある教会での…

シュルツ牧師は語る2.ベルリンオリンピック

1936年7月、ベルリンのウンターデンリンデン通りの菩提樹並木は小さな黄色い花をたっぷりとつけ、辺りに甘い芳香を放っています。べルリンオリンピックを一カ月後に控え、浮足立った市民たちでいっぱいの通りには鉤十字の旗と垂れ幕、五輪の旗、参加国の国旗…

シュルツ牧師は語る1.夢の都ベルリン

1914年、私、マックス・シュルツは、東プロイセンと隣接する港町ダンツィヒで生まれました。ギムナジウムでアビトゥア(大学入学資格試験)に合格すると、神学と哲学を学ぶため、1932年にベルリン大学に入学しました。 ベルリン大学(当時のフリードリヒ・ヴ…

「本当に知らなかったのか?」

1947年、復活祭の頃になると、ようやく厳しかった寒さも緩み始め、春の陽光は再び人々に平穏な生活をもたらした。先月までは大量の雪解け水がアイダー川を氾濫させていたが、今ではすっかり穏やかさを取り戻し、輸送船がくねくねと200㎞の蛇行を続けて北海へ…

フリングスの冬

1946年の夏は異常に短かった。まだ9月だというのに、森の木々は驚くような速さで色づきはじめ、朝晩は5℃を下回る冷え込みとなった。 6歳になったフランツは小学校に入学した。例年ならば半ズボンで過ごすのだが、この年はこの頃からすでに冬物のコート、毛糸…

渡り鳥の歌

最愛の母とかわいい甥や姪たちの死。ロッテの衝撃的な体験談に、私は顔を覆って泣き続けた。しかし私がそうやって悲嘆に暮れている間も、ロッテは一度も涙することなく、ただ淡々と静かに話し続けるのだった。 母が孫たちを道連れに冬のレガ河にジャブジャブ…

ロッテの告白5.新しいドイツへ

マリーは再び一年生のクラスに戻り、仲良しの友達と共に幸せな学校生活を送るようになった。難民の子が多いクラスだったので差別されることもなく、穏やかな日常生活が戻った。 1946年当時のドイツの小学校は、混沌の真っ只中にあった。多くの校舎が空襲で破…

ロッテの告白4.バラのケーキ

再び難民となったロッテたちを乗せたトラックは、ひとまずエマ叔母さんの友人が住むベルリンに向かった。その友人が住むベルリン市ツェーレンドルフ区の家は戦災を免れ、ロッテたちが一晩やっかいになることは葉書に書いて知らせてあった。やっと目的地に着…

ロッテの告白3.追放

こうしてロッテたちはシーヴェルバインの町を追放されると、その途切れることのない難民の群れに加わった。西へ西へ。とにかく一日も早く、新しい国境となるオーデル川を越えなくては。 1945年2月、終戦の三ヶ月も前に、ソ連、イギリス、アメリカの首脳たち…

ロッテの告白2.闇の中で

丸二日間、ロッテとマリーは他の女たちと共に、このシーヴェルバイン近郊の地獄の館に監禁された。昼間は遠くから砲撃の轟音がひっきりなしに聞こえ、女たちは恐怖に凍りついた。果たしてドイツ国防軍は抗戦を続けているのか?それともドイツ軍はすでに撤退…

ロッテの告白1.シーヴェルバインにて

私の姉ロッテと子供たちは、東プロイセン最大の都市、ケーニヒスベルグ市から20㎞離れたポッゲンフールという小さな町に住んでいた。子供たちは上から女の子マリー5歳、男の子ルディ3歳、女の子クリスタ2歳の三人だ。 それは1944年8月にさかのぼる。夜遅く…

春の到来

村に春がやって来た。地中海沿岸からの長い旅を終えた渡り鳥、ムクドリ、セキレイ、クロジョウビタキたちが、恋人を探し、嬉しそうにさえずっている。そろそろコウノトリたちもやって来て、家々の煙突の上に巣作りを始めるだろう。草原で飛び跳ねる子馬を、…

フーゴの終戦2. 捕虜生活

フーゴたちは大きな農家に連行されると、そこにはすでに30人ほどのドイツ兵捕虜がいた。皆、やつれ切った顔で床に座り、フーゴたちに目礼した。 「ウーア!ウーア!」 ソ連兵が叫ぶ。どうやら腕時計が欲しいらしい。捕虜たちは腕時計を差し出すと、その他に…

フーゴの終戦1.ベルリン市街戦

フーゴの心がどのように蝕まれていったのか。それを初めて理解したのは、戦後30年以上経ってからである。思うところがあったのだろう、フーゴは定年退職後、終戦前後の回想録をしたためたのだ。それと並行して私にも少しずつ話してくれるようになり、想像を…

フーゴとの再会

1946年が明けてすぐ、フーゴはやって来た。 空襲でところどころ遮断されていた鉄道路線はいまだに復旧しておらず、バスやローカル線を乗り継ぎ、随分遠回りをして、二日がかりで私たちの住むブルンスホルム村に到着した。 粉雪が舞う午後、家族全員で駅まで…

村での日々 2

シュレスヴィヒにいた頃は食糧不足も深刻で、多くの餓死者を出した。男たちは戦地と軍需産業に駆り出され、農家は圧倒的に人手が足りず、農地は荒れ放題、収穫は当然例年より少なかったのにも関わらず、流入する難民で人口は増え続ける。私たちが強制的に村…

村での日々 1

難民たちは目的地別のグループに分けられて乗車し、私たちはベルゲンフーゼン経由でブルンスホルム村の農家に送られることになっていた。 車窓からは延々と広がる牧草地と、遠くにのんびりと草を食む牛たちが見える。これが休暇ならば心癒されるだろうが、転…

ナンツ家の人々

上:毎日押し寄せる難民の波。 こうして子供たち三人、ヴァリー、私の5人は、新しい住居が見つかるまでの間、ナンツ家に居候することになった。 小児病棟からアニタを引き取ると、ナンツ家の台所でアニタにチーズを乗せたパンを一枚食べさせた。難民も配給切…

リュックサック族

東プロイセン、ポメラニア、シレジアといったドイツ領土から逃げてきた難民は、1,500万人にものぼった。餓死、凍死、病死、殺害などで、210万人がドイツ本土に渡る前に命を落としている。ソ連とポーランド政府は、ドイツ人に食糧を与えることを禁止していた…

シュレスヴィヒにて

キール港に降り立つと、何十台ものバスが私たちを待っていた。 キール市は海軍の本拠地であることと、潜水艦生産を含むドイツで最も大きな造船所を三つも所有していたことから、開戦してすぐに爆撃機の標的となり、市の人口27万2,000人のうち、16万7,000人が…

ドイッチュランド号

その晩、私だけお婆さんのところには泊まらず、映画館で一夜を過ごすことになった。夜中に輸送船準備完了の告知があるかもしれないからだ。 グストロフ号への乗船で映画館も空きスペースが出来ただろうと思いきや、難民たちは増える一方だった。椅子は背もた…

ぬいぐるみのルポ

翌日も私は映画館で一日を過ごし、母とロッテたちの到着を待っていた。母に父の死を告げることを思うと気が重かった。厳格な父だったが、母が父を深く愛していたことを知っていたからだ。 ホールで木箱から子供たちが着られそうな古着を選んでいると、トゥー…

ダンツィヒにて

馬車に揺られて身も心も落ち着いた頃、乗客が増えていることに気がついた。新入りの年配夫婦が5歳くらいの男の子を連れている。男の子はずっと黙り込んだまま、毛布にくるまってじっと一点を凝視しているのが何とも奇妙で、ついに夫婦に話しかけた。 「お孫…

夕星の歌

宿泊を許された農家では、大抵玄関口や広間に毛布を敷いて休ませてもらった。ただでさえ底冷えのする家屋の床に横たわるのは辛いが、贅沢は言えない。中には馬小屋で家畜たちと寝ている難民もいたのだ。 しかし、ある晩、私たちは大地主の屋敷に泊まることが…

幌馬車は行く

昨日の大渋滞に比べ、早朝は通りを行く馬車の数は少ない。中には寝ずに夜通し歩き続けた者、馬車からバスに乗り換えた者もいたようで、私たちの幌馬車にも随分空席が増えた。乗客は私たちの他に、御者の家族、幼い子供たちを連れた家族が4組、老夫婦2組、若…

出発

ラジオをつけると、突然、東プロイセン民謡「暗い森と水晶の湖」のメランコリックなメロディーが流れてきた。ヴァリーと私はギョッとして顔を見合わせた。というのもこの曲をベルリン放送局が流すときは、このあと深刻なニュースが読み上げられると決まって…

ヤコブ神父

年末年始にかけてソ連軍は不気味な沈黙を続けていたが、1945年1月22日、遠くに夕立の雷のような轟を聞き、私たちは震え上がった。あれは前線の大砲に違いない。まさかこんなに早くソ連軍がやってくるとは! 避難禁止令が解除されたらすぐに出発できるよう、…