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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

春の到来

村に春がやって来た。地中海沿岸からの長い旅を終えた渡り鳥、ムクドリ、セキレイ、クロジョウビタキたちが、恋人を探し、嬉しそうにさえずっている。そろそろコウノトリたちもやって来て、家々の煙突の上に巣作りを始めるだろう。草原で飛び跳ねる子馬を、…

フーゴの終戦2. 捕虜生活

フーゴたちは大きな農家に連行されると、そこにはすでに30人ほどのドイツ兵捕虜がいた。皆、やつれ切った顔で床に座り、フーゴたちに目礼した。 「ウーア!ウーア!」 ソ連兵が叫ぶ。どうやら腕時計が欲しいらしい。捕虜たちは腕時計を差し出すと、その他に…

フーゴの終戦1.ベルリン市街戦

フーゴの心がどのように蝕まれていったのか。それを初めて理解したのは、戦後30年以上経ってからである。思うところがあったのだろう、フーゴは定年退職後、終戦前後の回想録をしたためたのだ。それと並行して私にも少しずつ話してくれるようになり、想像を…

フーゴとの再会

1946年が明けてすぐ、フーゴはやって来た。 空襲でところどころ遮断されていた鉄道路線はいまだに復旧しておらず、バスやローカル線を乗り継ぎ、随分遠回りをして、二日がかりで私たちの住むブルンスホルム村に到着した。 粉雪が舞う午後、家族全員で駅まで…

村での日々 2

シュレスヴィヒにいた頃は食糧不足も深刻で、多くの餓死者を出した。男たちは戦地と軍需産業に駆り出され、農家は圧倒的に人手が足りず、農地は荒れ放題、収穫は当然例年より少なかったのにも関わらず、流入する難民で人口は増え続ける。私たちが強制的に村…

村での日々 1

難民たちは目的地別のグループに分けられて乗車し、私たちはベルゲンフーゼン経由でブルンスホルム村の農家に送られることになっていた。 車窓からは延々と広がる牧草地と、遠くにのんびりと草を食む牛たちが見える。これが休暇ならば心癒されるだろうが、転…

ナンツ家の人々

上:毎日押し寄せる難民の波。 こうして子供たち三人、ヴァリー、私の5人は、新しい住居が見つかるまでの間、ナンツ家に居候することになった。 小児病棟からアニタを引き取ると、ナンツ家の台所でアニタにチーズを乗せたパンを一枚食べさせた。難民も配給切…

リュックサック族

東プロイセン、ポメラニア、シレジアといったドイツ領土から逃げてきた難民は、1,500万人にものぼった。餓死、凍死、病死、殺害などで、210万人がドイツ本土に渡る前に命を落としている。ソ連とポーランド政府は、ドイツ人に食糧を与えることを禁止していた…

シュレスヴィヒにて

キール港に降り立つと、何十台ものバスが私たちを待っていた。 キール市は海軍の本拠地であることと、潜水艦生産を含むドイツで最も大きな造船所を三つも所有していたことから、開戦してすぐに爆撃機の標的となり、市の人口27万2,000人のうち、16万7,000人が…

ドイッチュランド号

その晩、私だけお婆さんのところには泊まらず、映画館で一夜を過ごすことになった。夜中に輸送船準備完了の告知があるかもしれないからだ。 グストロフ号への乗船で映画館も空きスペースが出来ただろうと思いきや、難民たちは増える一方だった。椅子は背もた…

ぬいぐるみのルポ

翌日も私は映画館で一日を過ごし、母とロッテたちの到着を待っていた。母に父の死を告げることを思うと気が重かった。厳格な父だったが、母が父を深く愛していたことを知っていたからだ。 ホールで木箱から子供たちが着られそうな古着を選んでいると、トゥー…

ダンツィヒにて

馬車に揺られて身も心も落ち着いた頃、乗客が増えていることに気がついた。新入りの年配夫婦が5歳くらいの男の子を連れている。男の子はずっと黙り込んだまま、毛布にくるまってじっと一点を凝視しているのが何とも奇妙で、ついに夫婦に話しかけた。 「お孫…

夕星の歌

宿泊を許された農家では、大抵玄関口や広間に毛布を敷いて休ませてもらった。ただでさえ底冷えのする家屋の床に横たわるのは辛いが、贅沢は言えない。中には馬小屋で家畜たちと寝ている難民もいたのだ。 しかし、ある晩、私たちは大地主の屋敷に泊まることが…

幌馬車は行く

昨日の大渋滞に比べ、早朝は通りを行く馬車の数は少ない。中には寝ずに夜通し歩き続けた者、馬車からバスに乗り換えた者もいたようで、私たちの幌馬車にも随分空席が増えた。乗客は私たちの他に、御者の家族、幼い子供たちを連れた家族が4組、老夫婦2組、若…

出発

ラジオをつけると、突然、東プロイセン民謡「暗い森と水晶の湖」のメランコリックなメロディーが流れてきた。ヴァリーと私はギョッとして顔を見合わせた。というのもこの曲をベルリン放送局が流すときは、このあと深刻なニュースが読み上げられると決まって…

ヤコブ神父

年末年始にかけてソ連軍は不気味な沈黙を続けていたが、1945年1月22日、遠くに夕立の雷のような轟を聞き、私たちは震え上がった。あれは前線の大砲に違いない。まさかこんなに早くソ連軍がやってくるとは! 避難禁止令が解除されたらすぐに出発できるよう、…

ギザの誕生

上:1944年夏、フランツ4歳、アニタ2歳 フーゴは私を安心させようと、いつも同じことを手紙に書いてくる。 「超兵器が装備されれば、ソ連軍はドイツ国境を越えることは絶対に不可能だ。心配はいらない。」 しかし1944年10月、ソ連軍はついにドイツ国境線を超…

超兵器

ハンスが死んでからというもの、私の両親はすっかり老け込んでしまった。 やりきれない悲しみの中でも、幼いふたりの子供がいるということは大きな救いだ。特に2歳のフランツの片言のおしゃべりは私達を癒し、時には笑わせてさえもくれるのだった。 夏にはブ…

ハンス

1943年1月、フーゴは前線には送られず、生まれ故郷のマグデブルグ市にある弾薬工場の監督官となった。マグデブルグはエルビングから700km以上離れており、兵士と同等に休暇は限られている。しかしそんなことは戦場に比べれば大したことはない。とりあえず私…

フーゴ

フランスからまるでバカンスを楽しんでいるかのようにのどかな手紙を送り続けてきた夫フーゴは、ラトビアのリガに移ることになった。 1941年、ドイツ軍がソ連への奇襲攻撃を開始したからだ。有名なバルバロッサ作戦である。 ドイツ軍はソ連国境に兵力を集め…

マルティン

夫のフーゴは私たちの息子フランツが1歳になる前にフランスに出征していった。 出征と言ってもフランスはすでにドイツの占領国であり、前線で戦うわけではない。フランスから送られてくる美しい絵葉書に几帳面に並ぶ小さなフーゴの字は、のどかな駐屯地の雰…

忍び寄る影

1940年、長男フランツが誕生した。 写真の母に抱かれたフランツは生後半年、コロコロと太った愛想のよい子で、夫も私もこの子に夢中だった。 母はそのムチムチしたフランツのほっぺたにキスしたり頬ずりしたりしながら、よく古い民謡「月は昇りぬ」を歌って…

エルビングでの青春時代

人生で最も幸せだったのはいつ?と聞かれたら、私は迷わず答えるだろう。二十代、つまり1930年代だ。 この写真は私(前列左から二番目)がまだ二十代半ばだったころだ。右隣は姉のロッテ、後列左の女性は、学校時代からの親友アニーだ。戦後、私が東ドイ…

私の家族

これは1929年の写真。 一番右の姉ロッテは当時24歳。母似の細面で、薄いブルーの瞳が印象的なかわいらしい女性であった。性格も穏やかな優しい人で、私とは5歳離れていたが大変仲が良く、打ち明け話や相談事をヒソヒソと夜遅くまで話すが好きだった。おしゃ…

エルビングでの幼少時代

私の名はヒルデ。正しくはヒルデガルト・シュライバー。 1910年、シャクナゲの花が満開の頃、東プロイセンの港町エルビングで生まれた。 エルビング。なんと懐かしい響きだろう。潮の香り、豊かな緑、瀟洒な町並み、市場のざわめき、教会の鐘の音、懐かしい…

ヒルデおばあちゃん

これはヒルデガルドおばあちゃん。当時96歳。下を噛みそうななので、ヒルデおばあちゃんとしよう。 2008年に98歳で亡くなったヒルデおばあちゃんは、私の夫の母の母、つまり私の姑の母親、つまり私の娘たちの曾祖母。ユーモアにあふれ、歌と踊りが大好きなチ…