月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ロッテの告白5.新しいドイツへ

 マリーは再び一年生のクラスに戻り、仲良しの友達と共に幸せな学校生活を送るようになった。難民の子が多いクラスだったので差別されることもなく、穏やかな日常生活が戻った。

 1946年当時のドイツの小学校は、混沌の真っ只中にあった。多くの校舎が空襲で破壊され、空襲を免れた校舎も難民たちの宿泊施設となり、使用できる教室が限られていたのだ。しかし子供には授業を受ける権利がある。当時のドイツでは一クラスに150人の生徒が押し込められて勉強する、などということも珍しいことではなかった。

 教科書不足は深刻で、多くは焼失し、残っていてもナチス時代の教科書は使用禁止となっていた。中にはドイツ帝国時代の骨董級の教科書を使用する学校さえあったのだ。 

 

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上:1946年当時の小学校の女子クラス

 

 不足していたのは教室と教科書だけではない。授業を行う教師が、圧倒的に足りなかったのだ。男の教師は戦死したか、捕虜収容所にいるか、傷病兵となって就労できないか、あるいは健康であっても過去にナチス党員の経歴を持つため教職を追われたか、という者がほとんどだった。占領統治国は、「新しいドイツの青少年は民主主義に則って教育されなければならない」と考えていたため、元ナチス党員教師が再び子供たちにナチスのイデオロギーを教えることを恐れていたのだ。しかし「新しい教師」になるべき若者たちは、やっと大学の教育学部に入学したところで、授業を行う能力も資格も有しない。そこで抜擢されたのが隠居生活に入っていた元教師たちである。かつて教壇に立っていた老人たちが(大学出身者でなくても)、再び授業を受け持つことになったのだ。

 しかし最も大きな問題だったのは、多くの子供たちが生活に追われ、学校どころではないという現実だった。食料不足は深刻で、親の命じるまま食料の確保に奔走し、時には盗み、時にはその盗品を闇市で売りさばいた。まさに生きるか死ぬかという状況の中では、学校に通うという発想はなかったのである。

 

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上:子供の2割以上が栄養失調と診断されたため、昼には給食のスープ(350キロカロリー)が配給された。12歳以上はこれにパンが付いた。これが一日の唯一の食事である子供も多かった。写真では靴を履いていない子供たちも見られる。

下:子供たちは家から飯盒やスープ皿を持参した。スープは野菜スープ、チキンスープ、豆のスープ、ソーセージ入りジャガイモのスープなどが多かったが、子供たちに人気があったのはチョコレートスープだった。熱い牛乳にチョコレートと小麦粉を溶かし、最後に砂糖、塩、卵黄を入れてコクを出す。「最高のスープだった!」と今でも懐かしむ年配者は多い。

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 ロッテの厨房での仕事は過酷であったが、それでも仕事に慣れてくるうちに疲れもストレスも軽減し、同僚たちと軽口をたたきながら要領よく手を動かせるようになった。ほとんどの同僚が難民で、足元を見られているのか給料は雀の涙だ。それでも仕事がなくて野垂れ死にしている難民が実際にいることを思えば、まだましだ。厨房での昼食は必ずスープとパンひとつ、そのパンさえもロッテは家に持ち帰り、マリーに食べさせるのだった。

 親切な同僚ヨハンナが、娘には小さくなったからとロッテにブーツを一足くれた。そのブーツはロッテの華奢な足にぴったりで、やっと雪道を歩くことが苦にならなくなった。厨房の中では木靴を履き、外ではブーツを履く。二足の靴を使い分けられるという贅沢に、ロッテはしみじみ感謝した。

 ヨハンナの娘は17歳。ライプチヒの学校に通っていたが、去年、親友の女の子が忽然といなくなったと言う。噂ではソ連兵に拉致され、ブーヘンヴァルト強制収容所に収容され、そこでソ連兵の子供を産み、育てているのだと言う。

「どうしてわかったの?」

「病気で収容所から解放されたドイツ兵捕虜が言ってたのよ。その子なら知ってるって。他にも若い女の子が何人かいて、強姦された後、隔離されて子供をそこで育てているんですって。しかも男女同じ収容所らしいわ。」

湯気で汗ばむほど暑い厨房が、一度に恐怖で凍り付いた。

 ブーヘンヴァルト強制収容所だけではない。当時のソ連占領地区の強制収容所には、多くの女性が監禁され、そこで子供を産み、育てていたのである。収容されていた女たちの多くが飢餓、チフス、その他の伝染病で命を落としたという。私たちの従姉妹、ソ連兵に連れ去られたコニーも、どこかの収容所にいたのだろうか?そして1946年の記録的な寒さの中、凍死してしまったのだろうか?

 東ドイツ政府が同志ソビエト連邦のこれらの蛮行を糾弾するはずもなく、強制収容所での凌辱が公になったのは、つい最近の話である。

 私の知り合いの60代の男性は、教会の発行した洗礼証を見せてくれたことがある。その父親欄には「強姦による」と記載されていた。

「空欄じゃないんですよ、強姦による、ですよ。教会も残酷なことをしたもんだ。」

そう言って、肩をすくめて笑った。

 そしてまた、ソ連兵だけでなく、その他の占領国、アメリカ兵、イギリス兵、フランス兵との間に生まれた子供は43万人以上にのぼる。もちろん強姦に限らず、食糧と引き換えに肉体を提供した女もいれば、恋愛関係による妊娠もあった。そのうち父親として認知登録をしたのは7%である。これらの子供たちは私生児であるだけではない、敵国兵と肉欲を貪りあった果ての恥辱の子供、裏切りと尻軽女の象徴だと言われた。カウチベイビー(ベッドではなく、ソファで戯れに出来た子供)、ネガーベイビー、アーミーベイビーなどと蔑まれ、世間の好奇の眼にさらされ、差別を受けた。多くの女たちは親から勘当され、生まれたばかりの子供を抱えて右往左往した。アーミーベイビーは罪の子だ。そうでなくても女手一つで子供を育てるのは困難な時代である。多くの母親は泣く泣く子供を施設に預け、子供は似たような出自の子供たちと一緒に成長していった。

 

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 上:1950年頃の養護施設。差別に耐えられなくなり、精神を病んで子供を預ける母親も多かった。

 

 深刻な話は枚挙にいとまがないが、ここにひとり、幸せを噛み締めている人物がいた。マグダである。普段はアパートの台所はマグダが占領し、ロッテが料理を始めるとマグダの機嫌はたちまち悪くなるのだが、この日は違った。ロッテが夕食準備のために台所に行くと、マグダが鼻歌を歌いながら黒パンを切っている。あらロッテ、ごきげんよう、と妙に機嫌がいい。不気味だ。聞きもしないのに、マグダは上機嫌でコソコソと秘密を打ちあけた。

 マグダが働いている事務所には、定期的に税理士がやって来るのだが、その税理士が自分に夢中なのだと言う。実は今日、呼び止められて手紙を渡され、そこにはマグダへの恋慕の情が切々と綴られていたと言うのだ。「あなたが既婚者であると聞き、絶望にのたうちまわり」、「この世のものとは思えぬあなたの美しさを独占できる男を呪い」、「ここに来るたびにあなたの美の魔力に石となり」、「たとえそれが倫理の道から外れていようとも、あなたと一緒になりたい」云々。そして自分はもともとバイエルンの貴族出身で大きな城を持っている、今はアメリカ政府が占拠しているが、数年したら自分に返還されるはずだ、将来はその城で一緒に暮らしてほしい、と書かれているのだと言う。マグダはとろんと夢見るような目で話し続けた。

「バイエルン王侯とも親戚なのよ。わかる?ノイシュバンシュタイン城って写真で見たことあるでしょ?あのお城を建てたのがバイエルン王室よ。あそこに住めるのよ。」

顔は美しいが頭はここまで空っぽなのかとロッテは呆れかえった。ノイシュバンシュタイン城に住めると本気で考えているのだろうか?

 

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上:1946年当時のノイシュバンシュタイン城。 

 

 19世紀に建築された中世風のメルヘン城は、幸運なことに二度の世界大戦で破壊されることなく、美しい姿を保ち続けた。しかし、この夢の城がナチス時代に略奪してきた美術品の保管所となっていたことは、あまり知られていない。

 1940年から1945年まで、ナチス政府が設立したローゼンベルグ特捜隊と呼ばれる略奪組織は、アルフレード・ローゼンベルグ外務局長指揮のもと、占領国であるフランス、ベネルクス三国、ポーランドなどの美術館、博物館、図書館、個人所蔵のものも含めて膨大な美術品を略奪し、ドイツ国内の城や修道院に保管した。

 それらの盗品についての情報は、写真付きローゼンベルグ・カタログの中に几帳面に残されていたため、戦後、連合軍はもとあった施設にそれらを容易に返還することができた。しかし、すべてが無事に返還されたわけではない。アメリカとロシアの美術館に、ローゼンベルグ・カタログに載っていた多くの美術品が展示されているのはなぜだろう?ロシアにいたっては、当時のソ連統治領のドレスデンなどの美術館にあった膨大な美術品を秘密裏に輸送していたことがわかっている。ロシア側に言わせれば、これは略奪ではなく、「ドイツへの制裁」と呼ぶそうだ。

 

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  上:ノイシュバンシュタイン城から美術品を輸送するアメリカ兵。

 

「その税理士さん、戦争にはいかなかったの?いくつなの?」

ロッテの質問に、マグダはちょっと眉間に皺を寄せた。

「もうすぐ60歳になるって言ってたわ。奥さんは3年前に亡くなったそうよ。でも若々しくて素敵な人よ。」

開いた口が塞がらないとはこのことだ。マグダはまだ二十代後半で、自分の父親ほどの年齢の男と結婚しようと言うのか!それにしても相変わらず貴族が好きな人だ。そこそこ裕福だったとはいえ、なぜエミールと結婚したのだろう?かわいそうなエミール。凡庸だが優しい男だ。なによりもマグダを心から愛している。

「それでエミールとはどうするの?離婚するの?」

ロッテはフンと鼻を鳴らし、

「そうするしかないわね。手続き上、すぐに離婚というわけにも行かないから、とりあえず彼のいるライプチヒに引っ越すつもりよ。そんなわけで、ライプチヒに移ったら、台所用品はすべてあなたにあげるわ。」

と得意げに微笑んで見せた。その顔はボッティチェリの描く高貴で優美なヴィーナスそのものだ。内面と外見のこれほどかけ離れた人物には、そうそう会えるものではない。この魔力に惑わされた税理士の今後が危ぶまれると言うものだが、こちらの知ったところではない。知ったところではないが、ロッテはハッと閃いた。マグダが去るということは、仕事の引継ぎが必要だ。ロッテは独身時代、エルビングの大きな造船会社の事務所で働いていたから、経理事務などはお手のものだ。恐る恐るマグダに相談してみると、あっさり上司に紹介してあげると言うではないか。人は幸せになると、こうも親切になれるものなのか?

 やがてマグダはアパートを去り、あとには立派な台所用品と、「上流階級にはそぐわない」衣類と、傷心のエミールが残された。エマ叔母さんはエミールが子供の時、恐慌で財産を失ったエミールの両親に代わって、しばらくの間エミールを引き取って育てたことがあったが、あの時と同じだ。エミールを心配し、彼の部屋を毎晩訪ねる。エミールの大きな背中を、よしよしと撫でて慰めると、エミールは太った体を震わせて、おいおい泣きだすのだった。

 エミールには申し訳ないが、マグダが去ったことで数々の幸運がロッテのもとに舞い込んだ。ロッテは無事にマグダの職場に転職し、事務所に通うのにふさわしい美しい洋服を手に入れ、かぎ裂きだらけの一張羅を捨てることが出来た。こうして厨房での過酷な労働から解放され、事務所の上司はロッテの真面目で几帳面な仕事ぶりに満足した。

 そしてまた、マグダのおかげでライプチヒで開催されているケーテ・コルヴィッツの展覧会の入場券を手に入れることが出来たのだ。エミールがマグダのために買っておいたものを、ロッテが譲り受けたのだ。我が故郷、東プロイセンが生んだ天才コルヴィッツの展覧会に行ける幸運に、ロッテは大いに喜んだ。コルヴィッツはその前年に亡くなっており、彼女の業績が再び見直されている折での展覧会だったのだ。

 

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上:ケーテ・コルヴィッツ(1867年 - 1945年)は、東プロイセンのケーニヒスベルグに生まれた20世紀のドイツを代表する版画家・彫刻家である。もともと飢餓、貧困、病などをテーマとした、貧しい人々に目を向けた作品が多かったが、第一次大戦で長男を、第二次大戦で孫を亡くした体験が彼女の作品に多大な影響を与えた。作風は子を失った母の悲しみを強く打ち出したもので、体制批判と反戦意志に満ち、ナチス政府から「退廃芸術」扱いされ、創作活動を禁止された。息子が入隊を自分から希望した際、コルヴィッツはその意思を褒め称えて応援したことから、生涯自分を責め続け、後悔し、作品を創作することでその苦しみを乗り越えようとした。

 

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上:「死んだ子と女」

 

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 上:「母と抱かれる子供」

 

 

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上:「ピエタ(死んだ息子を抱く母)」。ベルリンの観光目抜き通りウンターデンリンデン通りのノイエ・ヴァッヘ内にある作品。これは第一次大戦で戦死した息子ペーターを抱く自分自身だと言われている。天窓の真下に置くことで、雨や雪にさらされて苦しむ人々を表現した。

 

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上:「種を粉に挽いてはならない」。コルヴィッツ晩年の作品。タイトルはゲーテの小説の一文から取られた。母親ががっちりとした両腕で、あどけない顔をした子供たちを守っている。次の世代を担う子供たちを死なせてはいけない。死を目前にしてもコルヴィッツは作品で戦い続けた。

 

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ナチスに創作活動を禁止されたのにもかかわらず、コルヴィッツは最後まで作品を作り続けた。

 

 展覧会場で、ロッテは打ちのめされていた。子供を亡くす苦しみは、ロッテは誰よりも知っている。日頃、レガ河での悲惨な出来事は思い出さないように、考えないようにと努め、いつも心の奥底に封印しているつもりでいたが、気が付けばその悲しみはムクムクと膨らんでロッテの心を占領していた。コルヴィッツのすべての版画が、彫刻が、ロッテの心臓をこれでもかとえぐり続けたのは、コルヴィッツ自身が息子と孫の戦死と言う悲しみと対峙して生み出したものだったからだ。

 会場から出て外のベンチに座り、肌寒い外気の中に身を置くと、ロッテのほてった身体が深々と冷えて行く。打ちのめされたはずなのに、絶望はしていなかった。それは生涯癒えることのない傷と共に生きる覚悟を決めた瞬間だった。その日からロッテは悲しみから目を背けることをやめた。思い出しては大いに泣き、心の中で子供たちを悼むことによって、子供たちへの愛はより深くなっていった。悲しみは形を変え、心の中に新しい風が吹き始め、これまでとは異なる景色が見え始めた。コルヴィッツの芸術が戦中戦後の傷ついた人々の心にもたらした影響は果てしなく大きい。

 ロッテは転職して過酷な労働からは解放され、給料も若干増えたが、決して生活が豊かになったわけではない。テーブルがないので、マリーは出窓のところに椅子をズルズルと引き摺って行き、そこで宿題をやっていたし、相変わらず直接床の上に敷いたマットレスの上で寝ていた。

 やがて同じ悩みを持つ難民たちを対象に商売をする、商魂たくましい家具貸し屋が出現した。どういった手づるで集めてくるのか知らないが、ベッド、布団、ダイニングテーブル、椅子、オーブンなどすべての家具を貸し、月々いくらかの借料を受け取るのだ。これによって難民たちの生活は著しく改善され、ロッテもこれでやっと人間らしい生活ができると喜んだ。冬の間は小さな石炭ストーブを借り、女たちは石炭専用貨車が落として行く成形木炭を這いつくばって掻き集め、袋いっぱいの戦利品をそのストーブにくべるのだった。真っ黒な手で生きていくことを、恥ずかしがる女など誰もいない。

 エマ叔母さんの体調は悪化の一途をたどり、横になって咳をしている日が多くなっていった。ロッテはやっと休暇をもらい、嫌がる叔母さんを無理矢理病院に連れて行った。診断の結果、重度の肺炎で、緊急に入院が必要だと医師に言われ、ロッテはうろたえた。なぜもっと早く病院に連れてこなかったのだろう?ロッテは後悔し、叔母さんに申し訳なく思った。

 マリーは午後2時には学校から戻り、これまではエマ叔母さんが面倒を見てくれていた。6歳の子供をひとりで家に置いておくわけにはいかない。さて、これからどうしよう?と悩みあぐねていると、マリーのクラスの友達、ラウラの父親のエアガング牧師が突然、ロッテを訪ねてきた。マリーを夕方まで預かりましょう、と申し出てくれたのだ。

「娘と一緒に宿題をさせ、遊ばせれば、ラウラも喜ぶでしょう。」

ロッテは喜び、甘えさせてもらうことにした。このエアガング家とは生涯、親しい付き合いをすることとなる。ラウラは他にも三人の姉妹がいて、マリーを含めた5人の女の子たちが外で跳ね回って遊ぶ様子はほほえましいものだった。クリスマスや復活祭には必ずロッテたちはエアガング家に招待され、エアガング夫人の素晴らしい手料理に舌鼓を打ちながら、音楽に溢れた和やかな休日を過ごしたものだ。経済的には決して豊かではないエアガング家だったが、ロッテとマリーに対する見返りを求めない思いやりと心遣いは、純粋に慈愛に満ちたものだった。かつては他人に甘えることを躊躇したロッテだったが、遠慮は何ももたらさないことを貧乏が教えてくれた。差し伸べてくれた手は感謝を込めて握りしめ、そしていつか必ずこちらが誰かに手を差し伸べる。そうして世の中は回っていくものなのだろう。

 日に日に叔母さんは衰弱していった。熱は下がらず、起き上がることもできない。ロッテは毎日、仕事が終わると叔母さんを見舞ったが、痩せていく叔母さんを見ているのは辛かった。当時は特効薬もなく、医師もお手上げ状態だ。週末はマリーを連れ、叔母さんの好きなケーニヒスベルグ風肉団子を持って行ったが、肉団子が三つ食べられたのが二つになり、ひとつになり、その半分になり、やがては全く食べられなくなった。

 ある日、ロッテは叔母さん手作りのバラの香りのする化粧水を叔母さんの顔に塗っていた。気持ちよさそうに目を閉じて横になっていた叔母さんが、やがて眼を開くと静かに言った。

「ロッテ、神様の国に行く日が近付いたわ。」

ギョッとした。肺を病む人特有の赤い顔とキラキラ輝く目を見つめているうちに、ロッテの眼から涙がハラハラ流れ落ちた。

「叔母さんがいなくなったら、私はどうしたらいいの?母もハンスも死んでしまったわ。父もヒルデもきっと沈没船に乗って死んでしまったに違いないわ。パウルだって、生きているのか・・・。私はひとりぼっちになってしまうわ。」

「 ロッテ、大丈夫よ。神様は常にあなたと共におられるのよ。ひとりではないわ。『あなたがたを捨てて孤児にはしません。』とヨハネの福音書にも書いてあるわ。それにマリーだっているじゃないの。あなたは強い人よ。」 

エマ叔母さんはベッドに突っ伏して泣いているロッテの頭を優しく撫でながら、優しくささやいた。

「心配いらないわ。あなたの心が神様の愛でいっぱいになる日が必ず来るわ。大丈夫。」

 それから三日後、エマ叔母さんはロッテとマリーに見守られながら、苦しむことなく天に召された。静かに眠るように逝った叔母さんの顔は、優しい平安に満ちていた。ひとり娘を誘拐され、たった一人の孫も失い、故郷を追われた波乱な晩年だったのにもかかわらず、常に優しく、信仰深く、愛情に満ちていたエマ叔母さん。かわいらしいロマンチストでもあったから、シーヴェルバインを追われて野宿した時に語っていたように、今頃はロケットで叔父さんと月に向かい、青い地球を仲良く眺めているに違いない。

 悲しみに満ちた冬は去り、春がやって来た。ロッテは事務所を出ると、デイジーの草原を歩いて家路についた。近くの堤防脇には新芽を湛えた柳がしだれ、薄紅色の木蓮が優雅に天を仰いでいる。春の到来はなぜこれほど人の心を高揚させるのだろう?アパートに到着すると、郵便受けに一通の手紙が入っているのに気が付いた。差出人は私たちの共通の連絡先に決めていたフーゴの姉からだ。以前、ロッテが私や兄の消息を尋ねて書いた手紙の返事に違いない!心臓が破裂しそうにドクドクと音を立てる。死んでいるのか?生きているのか?震える指で封を開けると、そこには私が、そしてシュトゥットガルトに住む兄が無事に生きていること、そして私たちの住所が記されていた。ロッテは手紙を握りしめ、地面に座り込んでおいおい泣き崩れたと言う。

「ほらね?あなたを捨てませんと神様はおっしゃったでしょ?」

どこからかエマ叔母さんの声が聞こえた気がした。