月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

ナンツ家の人々

 

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上:毎日押し寄せる難民の波。

 こうして子供たち三人、ヴァリー、私の5人は、新しい住居が見つかるまでの間、ナンツ家に居候することになった。

 小児病棟からアニタを引き取ると、ナンツ家の台所でアニタにチーズを乗せたパンを一枚食べさせた。難民も配給切符がもらえるようになり、食糧が手に入ったのだ。アニタは数秒でペロリと平らげると、恥ずかしそうに笑っている。

「もっと欲しい?」

「うん。」

もう一枚与えると、またペロリと食べてしまう。もう一枚、もう一枚、またもう一枚・・・。7枚目を平らげたとき、この子の胃袋と頭はどうしてしまったのだろうと不安になった。極度のストレスで、満腹中枢が故障してしまったのではないだろうか?8枚目を欲しがったとき、私はアニタを抱き締めて言った。

「アニタちゃん、あとは明日にしましょうね。お腹が壊れちゃうから。」

アニタは恥ずかしそうに頷いた。かわいそうに。二週間もの間、どんなに寂しかったことだろう。たった二歳の幼児を家族から引き離してしまったことを、心の中で詫びた。

 私たちは毎日、指定レストランで難民用の昼食を取った。そこは赤い絨毯が敷き詰められた、大きなクリスタルのシャンデリアが輝く、豪華絢爛な最高級レストランだったのだが、客は私たち貧しい難民で、料理はあいかわらずジャガイモと赤キャベツ煮だけという有様だった。その対極的な取り合わせに、私たちは自虐的に笑ったものだ。

 ナンツ夫人の夫は看護師で、戦地の「どこか」にいるらしい。音信不通になって半年経つという。私もフーゴからの手紙をかれこれ一ヶ月以上待っていた。縮小された鉄道事情により、当時の郵便は混乱を極め、小包郵送は禁止、葉書の投函のみが許されていた。しかしそれも、ドイツのどこかで消失する、というのは珍しいことではなかった。

 ナンツ家には、長男ヴィルヘルム15歳、長女ウルズラ13歳、次男フレッド7歳、三男ハインツ5歳の四人の子供がいた。優しく、人懐っこい子供たちで、私の子供たちもすぐに打ち解けることができた。

 ナンツ夫人の心の優しさを表すエピソードがある。私たち難民は、古着の寄付をもらうことが出来たのだが、さすがに何万人分もの服が間に合うわけでもなく、特に赤ん坊の服には限りがあった。蚤の市会場から戻り、フランツとアニタの分は何とかなったのだが、ギザには何もなかったとナンツ夫人に話すと、夫人はいきなり縫いかけの白いドレスの両袖を取って、私に渡すではないか。それはウルズラがもうすぐ受ける教会の堅信礼で着る白いドレスだ。

「長袖が袖無しになったまでのことよ。これなら赤ちゃんの服が作れるわ。」

私は感極まって泣きそうになった。

 長男のヴィルヘルムはアニタを大変可愛がってくれた。勤労奉仕から戻ると蓄音機を床におろし、回転盤の上に小さなテディベアを置いてクルクル回す。アニタは歓声をあげ、床に腹這いになってそれを延々と見続ける。あるいはアニタを膝に乗せると、毎晩絵本を読んで聞かせてくれた。わがままなお姫様の話、狼と鶏の友情話、空想癖のある妖精の物語・・・。特に「ネズミの冒険」はアニタのお気に入りで、何度も何度もねだるのだった。弱虫ネズミが猫の悪党どもを果敢にやっつけて、英雄になり、家族の待つ故郷で大歓迎される話だ。猫たちが尻尾を巻いて退散する場面では、「ヤッター!ヤッター!」と大はしゃぎして部屋を駆け回る。夕方になると、アニタはヴィルヘルムの帰りを今か今かと窓際に肘をついて待ち続け、ヴィルヘルムが角を曲がってこちらにやって来る姿を見つけると、尻尾を振って喜ぶ子犬のように、玄関先に飛んで走っていった。

 ウルズラはギザの世話に興味津々、オムツを替えたがり、ミルクを飲ませ、離乳食を食べさせるのが好きだった。学校から戻るとギザを乳母車に乗せて近所を散歩し、友達に自慢して見せびらかす、お母さんごっこを満喫していた。

 一番下のハインツはちょうどフランツと同い年。朝から夕方まで、近所の子供達と外を走り回り、「最高級レストラン」に昼食を取りに行く時以外、ふたりは常に一緒だった。夕方になると窓を開け、「フランツ!ハインツ!」とナンツ夫人が叫ぶ。ふたりはほっぺたを真っ赤にして、ハアハア息を切らしながら帰って来て、今日の冒険を興奮して話すのだった。

 夕方5時から7時の間は節電のため、すべての家庭は電気を消さなくてはならなかった。私たちはロウソクの光の中で夕食を取り、その後はおしゃべりを楽しむ。時々、隣家の奥さんもやって来るのだが、ナンツ夫人とこの奥さんとの会話は低地ドイツ語という、この土地独特のオランダ語に近い方言で、私には全く理解できないのだった。ナンツ夫人は私と話すときには、標準語で話してくれていた。

 ナンツ夫人が私たち一家が不自由しないよう、常に心を砕き、ナンツ家の子供たちが明るく子供たちに接してくれたおかげで、私も精神的な明るさを取り戻していった。せめてものお礼にと、支給されていた配給切符のうちの半分を、ナンツ夫人に贈った。役所も混乱していたのだろう、どういうわけか難民用の切符は、子供も大人も同量の人数分が配給されていたのだ。子供たちはまだ幼く食べる分量が少ないので、私たちには半分あれば十分だった。(アニタの満腹中枢も、あれからすぐに正常に戻っていた。)

 ナンツ家での和やかな日々を三週間ほど経て、私たちはここから30kmほど北東に位置するブルンスホルム村に強制的に移住させられることになった。まだ大量にやって来る難民で、都市部では住居も食糧も限界に達していたので、口減らしというわけだ。

 1945年3月21日、ナンツ家に別れを告げる日がやってきた。駅のプラットホームで、笑顔でアニタの頭をなでるヴィルヘルムに対し、アニタのヴィルヘルムへの惜別の情は果てしなく、恋人との別離のようにオイオイと泣き崩れるのだった。

「永遠の別れじゃあるまいしね。」

ナンツ夫人も私も微笑みつつ、もらい泣きした。蓄音機の回転盤の上でクルクルと回っていた小さなテディベアを譲り受け、早速ヴィリー(ヴィルヘルムの愛称)と名付けて、アニタは長いあいだ大切にしていた。

 その駅での別れから二週間後、ヴィルヘルムは16歳の誕生日を迎えると同時に、総統からの「徴兵のプレゼント」を「拝受」した。何の軍事訓練も受けぬままにソ連軍に包囲されたベルリン市街戦に放り込まれ、廃墟の地下室にパンツァーファウスト(携帯式対戦車擲弾発射器)を設置している最中、ソ連軍の砲撃を受けて戦死した。ドイツ降伏の二週間前だった。

 今でも脳裏に浮かぶのは、蓄音機をはさんで床に腹這いになり、クルクル回る「ヴィリー」を見て笑っているふたりの姿や、窓辺でヴィルヘルムの帰りを待ち続ける小さなアニタの姿だ。ネズミは英雄になって家族のもとに戻って来たけれど、ヴィルヘルムは帰って来なかった。息子を英雄にしたい母親なんて、いったい世界のどこにいるのだろう?