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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

リュックサック族

 東プロイセン、ポメラニア、シレジアといったドイツ領土から逃げてきた難民は、1,500万人にものぼった。餓死、凍死、病死、殺害などで、210万人がドイツ本土に渡る前に命を落としている。ソ連とポーランド政府は、ドイツ人に食糧を与えることを禁止していた。女子供であってもドイツ人であれば容赦なく殺害したのは、ナチスによる「民族の浄化」と銘打った、ソ連とポーランドに対する残虐な殺戮への報復であった。家族を殺され、村を焼き払われたソ連人とポーランド人の憎しみは、そのまま難民たちにぶつけられた。

 すべての財産を失い、ソ連兵から命からがら逃げきって、やっと本土にたどり着いた難民たちが大きく安堵したのも束の間、逆境はここドイツ本土でも続いた。

 空襲でただでさえ住居不足、食糧不足であるのに、1,500万人もの汚い厄介者たちがやってきたのだ。当然のことながらそこには歓迎ムードは見当たらず、人々は私たち難民を「リュックサック族」、「ポラック(ポーランド人の蔑称)」などと呼び、嫌悪した。もちろん私たち難民はれっきとしたドイツ国民だ。地理的にポーランドに囲まれた飛び地であったということだけで、蔑視されたのだ。

「難民は出て行け!宿の代わりにムチを与えろ!」 

立て看板や張り紙が目に入ると、難民たちは目を伏せた。

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上:難民たちは「リュックサック族」と呼ばれた。

 

 私は退院してすぐに役所に直行し、新しい住居を探すことにした。暖房の効いた居心地のいい部屋を見つけたら、すぐに家族を呼び寄せなくては。

 役所の難民住宅相談室は、あいかわらず長蛇の列だ。三時間ほど待って、やっと自分の番になり、室内に入ると、鼻の大きなメガネをかけた難民担当者は私の顔を一瞥しただけで、リストを上から指でなぞっていった。

「シュライバーさん、どうしたもんでしょうねえ。まあとりあえず、この住所をあげましょう。お年寄りの御夫婦の家で、一部屋空いているそうで、下宿人を探しています。」

もらった住所の家にたどり着くと、そこは古い小さな一軒家で、中から70代のお婆さんが怪訝そうな顔で出てきた。

「あらまあ、難民なの?ダメよ、それは。難民を家に入れたなんて言ったら、主人に殺されるわ!」

そう言って、私の鼻先でドアをバタンと閉めた。これではまるでペスト菌ではないか。怒髪天を衝くとはまさしくこのことか。

 再び役所に戻り、三時間ほど待った挙句、鼻の大きなメガネ男がため息をついて新しい住所を私に与えた。その家はシュレスヴィヒの高級住宅街にあった。レンガ造りの瀟洒な屋敷の玄関の前で、私は深呼吸した。この地方独特の豪華な飾り扉は、アールヌーヴォー調のカラフルな花柄レリーフがほどこされている。物々しいノッカーでカツカツと扉を叩くと、しばらくして扉が開き、上品な中年の奥方がにっこりと温和な顔を出した。

「役所からご紹介をいただきましたシュライバーと申します。東プロイセンからの難民です。」

奥方は難民と聞いたとたん、別人のような険しい形相になったが、私は怯まなかった。

「お代はもちろんお支払いします。東プロイセンでは私の夫は公認会計士、父は大きな印刷工場の経営者でした。決して怪しい者ではございません。今夜、赤ん坊の娘を知り合いから引き取って来ますが、他の家族は別の場所にいます。新しい住居が見つかるまでの間だけ、娘と私を置いていただけませんか?」

奥方は少し安心した様子で、私を部屋に案内した。ペルシャ絨毯が敷かれた立派な居間には、アップライトピアノ、赤々と燃える暖炉、ゴブラン織りのソファ、アールヌーヴォー調のしなやかに曲がりくねった足のテーブルがある。しかし私が通されたのは、暗くて寒い地下室の片隅であった。暖房用の石炭がうず高く積まれ、湿った空気は埃臭く、半窓の鉄柵から漏れ入る日の光がなんとも心細い。古い簡易ベッドがポツンと置かれている以外には、家具は何ひとつ見当たらない。それでも雨漏りや隙間風に悩むことはなさそうだし、病み上がりの私には、市役所でまた三時間並ぶ体力はすでにない。もう少しましな住処が見つかるまで、私はここに留まることにした。

 そうと決まれば、まずはギザを引き取りに、フリーデ先生の自宅に急いだ。先生は私の快復を喜び、二週間ぶりのギザを私に手渡した。鶏がらのようだった足にはまた肉が付き始め、私を見てにっこり笑う健康な赤ん坊に戻ったギザを見て、私は喜びに涙が溢れた。心から礼を言い、謝礼を手渡そうとするのだが、先生は頑として受け取ろうとしない。ギザを預かったのはあくまで自分から言い出したことであって、あなたが支払う必要はないと言うのだ。それでも私が強硬に渡そうとすると、

「どうしてもとおっしゃるなら、うちの家政婦にあげてください。彼女が私の留守中、面倒をみてくれたんです。」

と言うので、その若い家政婦に謝礼を直接手渡した。ギザはこうしてまた、他人からの善意によって命を救われたのだった。

 私がギザを連れて再び下宿先の邸宅に戻ると、居間には主人と十代後半の金髪の美しい娘がいた。大きな食品店の店主というでっぷりと太った主人は、暖炉の前のソファで葉巻をくゆらせ、私が挨拶をすると、眼鏡の奥から私をジロリと眺めた。

「ようこそ我が家へ。ごゆっくりおくつろぎ下さい。」

主人は慇懃無礼に挨拶するとニヤニヤ笑いながら娘に目配せし、それを受けて娘はクックックッと忍び笑いをした。

 自分たちは暖かな居間でくつろぎ、難民を石炭が積まれた地下室に追いやっておいて、「おくつろぎください。」と皮肉を言って笑っている。こんなに立派な邸宅に住み、立派ななりをしているのに、心はなんと貧しく品が無いのだろう。

 夜中にギザにミルクを与えたいので、台所でミルクを温めさせてほしいと奥方に頼むと、奥方は上品に微笑んでこう言った。

「いいえ、夜10時から朝8時までは地下室から出ないでくださいね。台所も使用禁止です。家の中をうろついて欲しくないのよ。それは守っていただかないと。オイルランプと小鍋をお貸ししますから、それでミルクを温めたらよろしいわ。」

つまり夜中に難民に家の中を徘徊されたら物騒だ、ということだ。その取って付けたような上品な語り口が、なんともいまいましいのだった。

翌朝、布オムツを洗わせて欲しいと奥方に頼むと、

「裏庭に大きなタライがあって、水がたっぷり入っています。そこで洗ってくださって構いませんわ。その横に鉄条網がありますから、そこに干してくださいな。全く問題ありませんわよ。」

と上品に微笑む。

言われた通りに行ってみると、確かに古いタライがある。まず表面に張った厚い氷を、その横に転がっている石を叩きつけて割ってから、その下の水で洗えというのだ。水の中に手を突っ込んで、汚れた布オムツを洗う。氷のような冷水にたちまち手は痛み始め、感覚がなくなり、涙が溢れた。私は手の痛みに泣いていたわけではない。濡れたオムツを広げて鉄条網に干すと、たちまちオムツはバリバリに凍った。これが奥方の「全く問題ない」ということなのだろうか?ここにこれ以上住むわけにはいかない。何とかして住処を見つけなければ。

 私はとりあえずギザを連れて、家族に会いに行くことにした。私の入院中、フランツ、義母、ヴァリーの三人はちょくちょく病院に見舞いに来てくれていたが、アニタに会うのは二週間ぶりになる。義母は老人ホームの修道女からケーキを分けてもらい、見舞いがてら、入院中のアニタにそれを届けることにした。

 二週間ぶりのアニタは、すっかり内気な子供になっていた。ギュッと抱きしめても、その腕は私を抱き返すでもなく、だらりと下に垂れたまま、恥ずかしそうに目をそらしている。私のことを忘れてしまったのだろうか?

「アニタちゃん、このケーキを食べなさい。」

私がケーキを小さく切ってアニタに渡すと、アニタは黙ってそれを口に運ぶ。するとどうしたことだろう、8人部屋の他の難民の子供たちが、耳をつんざくような声で「ケーキ!ケーキ!」と泣き叫ぶではないか。私と義母は持ってきていたケーキを慌てて人数分に切り分けると、子供たち全員に均等に分け与えた。小児科病棟の子供たちまでもが、飢えと戦っていたのである。

 何としてでも早急に新しい住処を見つけて、アニタを引き取らなくては。もう二度と私のそばから離すものか。そう固く心に誓った。

 難民は市内の指定レストランで、無料で昼食をとることが許されていた。メニューは毎日同じ、ふかしたジャガイモと赤キャベツ煮だ。大きなレストランは難民たちがひしめき合い、皿の上のほんの少しのじゃがいもと赤キャベツを胃袋にガツガツと詰め込んでいた。これでしばらくは飢えずにすむ。

 家族を老人ホームに送り、ギザを少しの間ヴァリーに預かってもらい、私は難民収容施設にいる友人トゥーテル一家を訪ねてみることにした。私の入院中、ヴァリーのもとにトゥーテルが住所を届けてくれていたのだ。もしかしたら、そこで空き部屋が見つかるかもしれない。

 その収容施設は、東プロイセンでは見たこともないような、恐ろしく粗末なトタン製のバラック小屋群であった。

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 メモにあるハウスナンバーを探し当てると、私は壊れかけた薄い木戸を開け、中を覗き込んだ。15㎡ほどの部屋にびっしりと並べられた二段ベッドに難民たちが寝そべり、ムッとする湿気と悪臭が鼻をつく。

「ヒルデ!こっちよ!」

トゥーテルが部屋の片隅にある調理器で何か作っている。頬がこけて目が落ち窪み、一瞬誰だかわからなかった。

「驚いたでしょ?汚くて。ここに20人が暮らしてるのよ。隙間風がひどいし、暖房もないからみんな病気なの。」

トゥーテルはそう言うと、座り込んでさめざめと泣き始めた。雨が降ると部屋に水たまりができること、食事は一日一回だけで、子供たちが始終お腹を空かせていること、母親は肺を病んだのか、ずっと嫌な咳をしていること、薬がないこと、子供たちの頭がシラミだらけだけれど薬品がもらえないこと、難民同士の喧嘩が絶えないこと。

「隣のハウスの子供たちが栄養失調で死んでるの。3人も!餓死した子もいるのよ。」

私の知っている、いつも生き生きと明るいトゥーテルが泣きじゃくっている。私はただ背中をさすりながら、黙って話を聞くことしかできなかった。ここに空きがあれば、と思ってやってきたのに、あの意地悪な邸宅の方が、雨漏りがないだけマシだったのだ。

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 このバラック小屋群は、かつては外国人労働者の住居であった。ナチスの政権掌握の後、ドイツは飛躍的な経済発展を遂げたが、軍備拡大による労働力不足が深刻化した。そこで政府は、ヨーロッパ諸国、ポーランド、ソ連などから労働者を募集したのだ。1942年以降は占領国からの外国人を強制連行し、総勢780万人もの外国人労働者と戦争捕虜を、土木建築や軍需産業に強制的に従事させた。

 オランダ、フランス、ベルギーなど西ヨーロッパからの労働者に対しては生活上大きな制約もなく比較的自由だったが、「人種的に劣る」ポーランド人とロシア人に対しては、過酷な労働と劣悪な生活を強いた。降伏後のイタリア人労働者もまた「裏切り者」とみなされ、同様だった。

 いまだに「当時の外国人労働者は強制連行だけではない、自主的にやって来た者もいた。」といった議論がかまびすしいが、私は彼らが住んでいたバラック小屋を実際に見て知っている。いったい誰がここに自発的に住もうと思うのか。甘い言葉にのせられて、はるばるドイツまでやって来た外国人労働者たちの苦しみは、いかほどだっただろう。

 そして難民たちもまた、この不衛生極まりないバラック小屋に住まわざるを得なかったのである。東プロイセンほどの極寒地ではないにしても、まだ二月、三月である。暖房も湯もない劣悪な住環境の中、難民たちの多くが、ジフテリア、チフス、結核で命を落とした。栄養失調は当たり前で、多くの子供たちは、手足は棒のように細く、肋骨がくっきりと浮き出ているのにもかかわらず、腹部はパンパンに腫れ上がっていた。

 私はトゥーテルに、とにかく役所の難民住宅相談室に行くことを勧めた。今は物件がなくても、担当者に顔を覚えてもらうだけでもいい。トゥーテルは涙をふいて、うんうんと頷いた。

 トゥーテルに別れを告げ、私自身も役所に向かって鬱々とした気分で歩いていると、見覚えのある女性と偶然鉢合わせした。私が入院中、同室の女性をよく見舞っていた地元に住むナンツ夫人だ。私たち難民にも分け隔てなく話しかける、陽気で優しい人柄で、よく話の輪に入って笑ったものだ。ナンツ夫人もすぐに私に気付き、道端で長々とおしゃべりを始めた。私が今の下宿にはこれ以上いられないこと、家族と住む新しい住居を探していること、見学した収容施設の悲惨な状況を話すと、ナンツ夫人はいたく同情したようだった。

「シュライバーさん、よかったらうちにいらっしゃらない?居間をお貸ししますよ。もちろんお代は結構です。暖房も効いてますし、台所もどうぞ一日中自由に使ってください。」

まさしく干天の慈雨、私は飛び上がって喜び、ありがたい申し出に感謝した。そのままナンツ夫人の家までついていき、居間を見せてもらった。私とヴァリーに簡易ベッド二台を用意してもらい、子供たちはソファで寝かせ、義母は快適な老人ホームにもうしばらく居てもらうことになった。

 私はギザを連れて意気揚々と下宿に戻ると、奥方に翌朝ここを出ることを告げた。太った主人も金髪の娘も居間にいたが、私には何の関心も示さず、眉ひとつ動かさない。私が地下室の階段を降り始めた途端、娘の「クックックッ」という忍び笑いが聞こえてきた。厄介払いができて、そんなに嬉しいのだろうか。このまま黙って引き下がるわけにはいかない。

 翌日は日曜日で、主人も娘も居間でくつろいでいた。私はギザと荷物を乳母車に入れると、支払いを済ませ、奥方に言った。

「大変お世話になりました。お礼にピアノ演奏をプレゼントさせてください。」

三人はきょとんとして顔を見合わせている。私は返事も聞かずにピアノ椅子に腰を下ろすと、美しい木目のアップライトピアノの蓋を開けた。ドイツ・ライプツィヒのブランド、ツィンマーマンは、実家のものと同じだ。プロのテクニックには程遠いが、15年もピアノを教わっていたのだ、人前で弾くには恥ずかしくない腕前だと自負している。亡くなった父は教育熱心で厳しかったが、芸術こそが人間を高みへと導き、強めてくれると固く信じ、すべての子供たちに楽器を与え、レッスンに通わせてくれた。それは二十年代の超インフレ時も同じだった。

 私は目を閉じ、意識を集中して静かに鍵盤に指を置くと、ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』第三楽章を弾き始めた。情熱的なプレストのこの曲が大好きで、何年もこればかり弾いている時期があった。嬰ハ短調のピアノから始まり、激情が鍵盤上にほとばしり、フォルテに向かう。ベートーヴェンがこれを書いたとき、作曲家として致命的な難聴と失恋で絶望していた。この作曲のすぐ後に、有名なハイリゲンシュタットの遺書をしたためたのだ。ベートーヴェンの傷だらけの魂の叫びを、そしてまた、その絶望の底から湧き上がる音楽への愛を、私は初めて理解した。ベートーヴェンは難聴によって外界と遮断された現実の中、心の中での神との対話を聞き取る、内なる聴覚が研ぎ澄まされていったのだ。

 弾き終えた私は静かにピアノの蓋を閉め、立ち上がった。三人は呆然と立ったままだ。娘の忍び笑いは聞こえない。やがて奥方が口を開いた。

「まあ、なんてことでしょう。シュライバーさん、素晴らしいわ。モーツァルトのソナタですよね?今日の午後、私の友人たちをお茶会に招待したの。ぜひ皆さんの前で弾いていただけないかしら?皆さん、きっと喜ぶわ。」

私はコートを着ながら言った。

「この程度のピアノは私の里ではごく普通です。大したことはありません。」

乳母車を外に出すと、振り向いて別れを告げた。

「それでは、お世話になりました。ちなみにモーツァルトではありません。ベートーヴェンです。ごきげんよう。」

外に出ると激烈な寒さが私を襲う。一歩進むたびに霜がジャリジャリと音を立て、鼻の奥がツンと痛い。しかし見上げれば抜けるような青空が広がり、ブナの木は新芽を付け始めている。なんと清々しい朝だろう。

「神は天にいまし すべて世は事もなし」

 父の好きだったブラウニングの詩が、ふと口をついて出た。

さあ、家族を迎えに行こう。ナンツ夫人が待っている。