月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

1910年生まれのヒルデおばあちゃんは、ドイツ激動の時代を生き抜いた人です。戦前から終戦直後までの、彼女の思い出話を綴っています。

シュルツ牧師は語る5.女たちの戦争

 私が意識を取り戻したのは、病院列車内のベッドの上でした。幸運なことに、私がクスルク近郊の荒野で失神してすぐに軍医を乗せた赤十字車が後方からやって来て、その場で応急処置を受けることが出来たのです。応急処置といっても、前線では「身体に入った物はそのままに、出ている物(骨や内臓)もそのままにして即刻、野戦病院へ。」という鉄則があったので、背中に食い込んだ破片は出血しないよう抜かれることはなく、軍用機で病院列車の停車駅まで移動し、そこから他の傷病兵たち700名と共に、この病院列車でドイツ本国に戻れることになったのです。

 

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上・下:病院列車内部。病院列車とは前線から症状の重い傷病兵を乗せた列車で、軍医、看護婦、衛生兵が付き添い、治療を行いながら本国の陸軍病院、または故郷の病院に送り届けた。列車は座って移送される軽傷者用車両と、ベッドが必要な重傷者用車両、台所、食堂、手術室、医療品倉庫があり、定員は450人、床に寝かせれば1500人の移送が可能であった。

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 目を覚ました時、私は重傷者用車両のベッドのひとつに寝かされていました。すでに手術室で背中の破片は取り除かれ、骨が砕かれた左足にはシーネが固定されていました。

「不幸中の幸いだったね。背中の破片は内臓まで届いていなかったし、しかもその後すぐに軍医が通りかかるなんて!」

医師の言葉を聞きながら、まだ麻酔の抜けない朦朧とした頭で記憶をたどるのですが、状況を把握するのに数分かかりました。背中と足の激痛もさることながら、すでに友人といえるフックス神父が目の前で殺された光景がまざまざと思い出され、私は大人になって初めて声を上げて泣きました。兵士たちの心の痛みに寄り添い、ウクライナのユダヤ人への大量殺戮に憤り、私に「待つ人がいて羨ましい」と言って、寂しそうに微笑んでいたフックス神父。あの攻撃機が飛来する数秒前まで、私たちは冗談を言って笑っていたのです。子供のように泣いている私のところに、若い衛生兵が温かい濡れタオルを持ってきて、涙で汚れた顔を丁寧に拭いてくれました。

「申し訳ない。牧師がこんなことで、情けない」

私がしゃくり上げながら詫びると、若い衛生兵は微笑みました。

「いいんですよ。牧師だって人間です。到着まで私がお世話しますから、ゆっくり休んでください」 

衛生兵の優しい言葉に、私の涙は堰を切ったように再び流れ出るのでした。

 私はこの病院列車のベッドで寝たきりの一週間を過ごすことになりました。傷病兵たちは痛みに唸りながらも、安堵していました。もう塹壕の中で寒さに震えることも、眠気と闘うことも(*見張り中のうたたねは銃殺刑)、機銃掃射、地雷、パルチザンに怯える必要もありません。ドイツに戻れば回復までは陸軍病院、あるいは故郷の暖かいベッドで静養できますし、運が良ければその間に戦争は終わるかもしれないのです。それでも列車が急ブレーキで停まるたび、あちこちで兵士の悲鳴があがりました。衝撃で傷口の縫い糸がプツンと切れて、傷口がパックリと開くことが少なくなかったからです。

 私はこうして無事に懐かしい人々の待つダンツィヒに戻り、傷病兵でいっぱいの病院の大部屋に収容されました。病院から到着の連絡をもらった私の両親とエリカは、ベッドから力なく手を振る私を見ると、喜びで顔をクシャクシャにして私のベッド脇に駆け寄りました。 

「ああ、マックス!ああ、マックス!」

「心配かけたね。足をまだ手術しなくちゃいけないらしい。歩けるようになればいいのだけど」 

母は泣きながら叫びました

「いいじゃない、歩けなくても。生きているんだから!前線に戻らなくてすむんだから!」

 後から聞いた話によると、陸軍から電報が届いたとき、戦死通知だと誤解した母はその場で失神し、普段は沈着冷静な父は狂ったように床を拳で叩きながら泣き叫んでいたそうです。たまたまそこに居合わせた叔父(なんという幸運!)が通知を読んで、

「待て!マックスは生きてるぞ!怪我をしただけだ!帰還療養の通知だ!」

と叫ぶと、両親は一瞬呆然とし、今度は床に座り込んだまま狂ったように歓喜に泣き叫びました。生きていてくれればそれでいい。怪我をしていても、障害が残っても、生きていてさえくれれば!たった一枚の小さな紙が、ドイツ全国で家族を地獄に突き落としたり、天国に引き上げたりしていたのです。

 すでに私の同級生の半分が戦死し、毎日葬式の列が通りを歩いていました。母の真っ白になった髪を見て、不安はいかばかりであっただろうと申し訳なく思いました。母は私の幼馴染たちの訃報を耳にするたび、心臓が凍り付いていたとハンカチで涙を拭いています。

「ペーターはアフリカで、ルーカスとゲオルグとヴォルフィはスターリングラードで亡くなったそうよ。毎日、戦死通知がどこそこの家に届いたって、そんな話ばかり。本当にいやな世の中だわ」 

私は母の話を聞きながら、窓の外をただ悄然と眺めていました。ダンツィヒの夏の空は雲一つなく真っ青で、バルト海から来た白いカモメが悠々と飛び回っています。東部戦線での私の体験は、現実だったのでしょうか?それとも長い悪い夢を見ていたのでしょうか? 

 足の骨折部位は手術によって再び整合されるとギブスで固定され、数週間入院することになりました。エリカは仕事を終えると、満面の笑みを湛えて病院にやってきては、あれこれと世話を焼いてくれました。週末には手作りのブルーベリーのケーキや胡桃入りのクッキーと共に華やかな空気を持ち込んでくれるので、同室の傷病兵たちはエリカが来るのを心待ちにするようになりました。皆が嬉しそうにケーキやクッキーに舌鼓を打ちながら、夏はどんなものが美味しいとか、どんな花が咲き始めたとか、他愛ない話をして笑っています。そんな何でもない風景が現実とは思えないほど不思議で、幸せで、そして切ないのでした。

 それと言うのも、私が向かうはずだったドイツ軍最後の攻勢、クルスクの戦いはすでに終了し、18万人が戦死したことを聞いていたからです。この戦い以降、独ソ戦の主導権はソ連側に渡され、戦況はますます悪化、1時間に100人のドイツ兵が死んでいた計算になります。

 エリカは毎日、仕事が終わると私のところに寄っては、様々な話をしてくれるのでした。中でも大変興味深かったのが、ヴィンター家の話でした。

 ヴィンター氏は、赤ら顔のでっぷりと太った人当たりの良い男で、第一次大戦後はダンツィヒで小さな造船部品工場を経営していました。ヴィンター夫人は夫よりも大柄の陽気な女性で、赤い髪を頭のてっぺんに渦高く盛り、当時としては珍しく、毎日メイクアップを施したおしゃれな女性でした。結婚前は劇場専属の腕の良い美容師で、俳優やオペラ歌手たちはもちろん、上流階級の女性たちにも顧客は多かったのですが、結婚後は家庭に入り、男の子三人、女の子一人の四人の子供たちに恵まれました。

 やがてヒトラーが政権を掌握し、ヴェルサイユ条約を無視して軍需産業を再開すると、ダンツィヒでも多くの企業が便乗し始めました。中でも蒸気機関車や潜水艦の製造業者として有名なシハウ造船所は、ダンツィヒで94艘の潜水艦、魚雷、艦砲などの製造を開始し、ダンツィヒ市民12,000 人がそれに携わっていました。商才に長けたヴィンター氏が早速下請けの部品製造を始めると、瞬く間に工場は拡大され、従業員数も10倍に増加、その業績は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。やがて閑静な高級住宅街にあるアールヌーボー調の大豪邸に移り住むと、夫妻はそこで贅を尽くした暮らしを享受するようになりました。ダンツィヒには中世から続く大地主、貴族、知識層からなる社交界があり、ヴィンター夫人はそういった上流階級への進出を試みたのですが、貴族たちは軍需成金をことごとく軽蔑し、ヴィンター夫妻は全く相手にされませんでした。それならばと夫人は底抜けに明るく陽気な性格だったことと、もともと劇場の芸術家たちとの交流があったことから、邸宅はパリ風サロンを気取った華やかな場所として有名になりました。 

 しかし、これがヴィンター夫人の運命を大きく変えることになります。このサロンにしょっちゅう顔を出していた、ヴィンター夫人もよく知る新進の美人女優とヴィンター氏が恋仲になり、ヴィンター氏は家族を捨ててこの若い愛人に走ったのです。これはダンツィヒの大スキャンダルとなり、ゴシップ好きなおしゃべり雀たちは、連日その話で持ち切りでした。

「あんなずんぐりむっくりな男のどこがいいのかね?」

「そりゃあお金に決まってる。あの女優、まだ二十三歳だそうよ」

「演技は下手だけど、あの素晴らしい身体を見た?」

「ヴィンター氏ったら、そりゃあ嬉しそうに女優と腕を組んで散歩してるのを見たよ。急に金持ちになったから、勘違いしちゃったんだろうね」

「かわいそうなヴィンター夫人、この間見かけたけど、すっかりやつれてしまって気の毒ったらありゃしない」

 ここで打ちひしがれたヴィンター夫人に手を差し伸べたのは、ナチスの女性組織NSF(国家社会主義女性同盟)でした。連日、メンバー数名が夫人の元を訪れ、傷ついた夫人の心を優しく慰めながら入党を勧め、ついにヒトラーへの忠誠を誓わせて熱狂的ナチス信奉者へと生まれ変わらせたのです。

 ヴィンター夫人は再び元気を取り戻すと豪邸を売却し、中心地に立派な美容室を開きました。当時としては珍しい最新のパーマネント機が備え付けられた粋な美容室で、夫人は経営者及び美容師としての手腕を発揮し、もともと社交的な人柄だったことも手伝って連日満員の大繁盛となりました。

 ナチスの女性政策は、女は結婚後は家庭に入ることでしたから、これと相反して職業婦人となったことに後ろめたい気持ちがあったのでしょう、その穴埋めをするかのように、夫人はNSF活動に没頭していきました。慈善募金活動、プロパガンダポスター貼り、党員勧誘などを熱心に行うようになり、やがてはNSFダンツィヒ支部の幹部となったのです。

 ちょうどこの頃、四人以上の子供を出産した女性には、政府から母親十字章が授与されることになり、ヴィンター夫人も四人の子供がいましたので、十字章の銅メダルが贈られたのです。 町で見かけるヴィンター夫人は、もはや夫に捨てられたかわいそうな女ではなく、自信に溢れた活動的なNSF党員だったのです。

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上:ナチス政府は母の日を祝日に制定し、母親十字章の授与式を行った。右から銅(4、5人の子供を出産)、銀(6、7人の子供を出産)、金(8人以上の子供を出産)の母親十字章。ただし、両親とも「純粋なドイツ人」であり、すべての子供が健康であり、遺伝的疾患がなく、婚姻関係のもとで(つまり私生児ではなく)生まれた子供に限られた。 

 

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上:10人の子供を出産し、金の母親十字章を授与された女性。

 

 ヴィンター家の末っ子レナーテはエリカの教え子なので、ヴィンター夫人のことを良く知っていました。ウェーブをあてた赤い髪を高く結い上げた大柄でおしゃれなヴィンター夫人は、エリカを見かけると、 満面の笑みで駆け寄ってはNSFへの入会を勧めるのでした。

「先生、ぜひお入りになって!メンバーになれば花嫁修業コースを無料で受講できるんですよ」

「ヴィンター夫人、せっかくですが、入会する予定はないんですよ」

「でも先生がお入りにならないと、子供たちへの示しがつかないんです。結婚後はお仕事を辞めておうちに入られるんでしょう?」

「いいえ、結婚後も仕事を続ける予定です。婚約者ともそう話しております」

ヴィンター夫人は大きな目をより大きく見開いて、素っ頓狂な声でまくしたてるのです。

「あらまあ、先生ったら!再就職しないと結婚登記所で宣誓なさらないんですか?結婚資金を無利子で借りることが出来なくなりますよ!」

当時は結婚奨励法というものがあり、結婚後は家庭に入って再就職をしないことを誓約すれば、結婚資金1000ライヒスマルクを無利子で国から借りることができた上に、子供を一人産むたびに25%ずつ返済が減額されたのです。つまり四人産めば返済は免除されたことになります。1000ライヒスマルクと言えば当時としては大金で、これで家具やラジオなどほとんどの生活必需品を調達できたのです。

「ええ、わかっています。でもヴィンター夫人こそ、今もお仕事を続けていらっしゃるじゃありませんか。ご立派ですわ」

ヴィンター夫人の顔が一瞬曇りました。

「私には夫がいませんからね。やむを得ず働いているんですよ。本来は夫は外で働き、妻は夫を支えて家を守るべきなんです。健全な子供たちはそういう健全な家庭にこそ育つんですよ」

「でもお宅のレナーテは聡明で心優しい、素晴らしい娘さんじゃありませんか。三人の息子さんたちも優秀で、良い評判しか聞きませんよ。お子さんたちは立派な美容室を切り盛りされているお母様を心から誇りに思っていると思いますわ。ヴィンター夫人は私のお手本でいらっしゃるんですよ」

ヴィンター夫人の顔がパッとばら色に染まり、それ以降、エリカに入会を勧めることはありませんでした。

 

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上:ナチス政府は、女性は結婚後は家庭に入り、子育てに集中することを奨励した。女性の就労は出生率を低くすると考えたためである。女性の就職先として許可されたのは、教師、看護婦、保母、店員、電話交換手、秘書、家政婦、調理師などであり、公的機関や一般企業で働くことは稀であった。酪農家の女性は働くことを許されたが、その土地を離れてはならなかった。

 

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上:1943年、ザクセン州に住むこの一家の写真は、理想的家族としてナチスのプロパガンダに利用された。父親はナチス党員の役人、母親は胸に金の母親十字章をかけた主婦、12人の健康な子供達のうち長男から5男までは兵士、6男は勤労兵、7男から9男まではヒトラーユーゲントに所属しており、長女はBDM(ヒトラーユーゲントの女子版)の制服を着ている。

 

 ヴィンター夫人の娘、14歳のレナーテは、ナチスが理想とする金髪碧眼で成績優秀な女生徒でした。母親に似て人懐っこい性格で、エリカを慕って何かと話しかけてきます。

 毎週水曜日と土曜日、すべての生徒たちは給食を終えると、いそいそとドイツ女子同盟(略してBDM。ヒトラーユーゲントの女子版)に向かうのですが、レナーテもBDMを心から楽しんでいる様子でした。

「先生、BDMはそりゃあ楽しいんですよ。毎回いろいろなプログラムがあって、私は特にダンスとお料理の時間が大好きなんです。3歳年上のグループリーダーの先輩は、本当のお姉さんのように優しいんですよ。夏の合宿なんて最高に楽しいんです。10日間も宿舎に泊まるなんて、生まれて初めてです。私の母は仕事をしてますでしょう?旅行なんて行けないから、もう嬉しくて!合宿は分刻みのスケジュールで厳しいけど、ハイキングの時間もあるし、湖で泳ぐことも出来るし、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりできるんですよ」

レナーテの嬉しそうな様子に、エリカは目を細めます。

「そう、いいわね。今日は何をするの?」

「合唱です。BDMの歌を習っているんです」

レナーテは澄んだソプラノでエリカに歌って聞かせました。

  見よ、東に見える朝焼けを

  あの太陽は自由の証

  生きていても死んでいても

  我々は固く団結する

  国民の前に総統は現れて

  信仰と希望を再びドイツに与えてくれた

  国民よ、銃を取れ!国民よ、銃を取れ! 

エリカは呆気に取られていました。「東に見える朝焼け」とは、東部戦線で闘う兵士たちのことに違いありません。大切な教え子に「銃を取れ!」と歌わせて、町を行進させているのかと思うと、こんこんと怒りが湧き起こるのを感じました。しかし、レナーテは無邪気に続けます。

「勇ましくて素敵な歌でしょう?それから人種教育の授業もあるんですけど、これは正直言って退屈です。でも結婚するときのために、今のうちに知っておかなくちゃいけないって、教官の先生がおっしゃるんです。アーリア人の純血を守るためだそうです。男性とお付き合いするときは、まず相手の鼻の大きさをよく見なさいって」

エリカは眉をひそめます。

「どういうこと?」

「ユダヤ人かもしれないからです。ユダヤ人は鼻が大きくて醜いそうです」

「まあ、愚かなことを・・・」

「それから怪しい苗字にも気を付けなさいって。苗字にゴールド、シルバー、宝石、動物、果物の名前が付いていたら要注意、ユダヤ人の可能性が高いそうです。まずは家系図を見せてもらって、何代も前まで遡って調べること、純粋なアーリア人種であるか確認しなくちゃいけないそうです」

エリカは絶句しました。女生徒たちはこのBDMに強制的に加入させられ、ゲームやハイキングなどで少女たちを惹きつけておいて、差別と偏見に満ちたナチスのイデオロギーと共同体意識を植え付けるという巧妙な手口を使っていたのです。少女たちの長い髪は三つ編みのおさげに結われ、アクセサリーも化粧も厳禁、制服も体操服も画一化され、着飾っていれば「非国民」と揶揄されました。

 しかし、もっともエリカを悲しませたのは、少女たちがBDMを心から楽しんでいることでした。嬉々としてBDM集会所に向かう教え子たちを、エリカは忸怩たる思いで見つめていました。私達の世代の女性は、ゴールドのハイヒールを履いてチャールストンを踊り、『おお、ドンナ・クララ』(タンゴ調の流行歌)を歌いながら自由を謳歌した世代ですから、政府の政策を疎んじる者も少なくなかったのです。しかし、1925年以降に生まれた少女たちこそは、ナチスのイデオロギーしか知らない世代だったのです。 

 

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 上:人種教育の授業。「アーリア人種の中でも最も知能が高く、容姿が美しいのはドイツ民族である。他の人種は劣等であるから、ドイツ民族は彼らを支配する義務を持つ。よって、ドイツ民族はその高貴な血を守るために他の人種との性交渉はあってはならない。ドイツ民族の純血が守られることによって、知能はより高く、精神はより高邁に、容姿はより美しく進化していくのである」

 

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上・下:ドイツ女子同盟(略してBDM)は、10歳から17歳までの女子で構成されたナチスの国家組織であり、ヒトラーユーゲントと対を成していた。1937年からは入会が義務化された。ナチスのイデオロギーにのっとった教育が行われ、国家への忠誠と自己犠牲、連帯意識、キリスト教信仰の放棄、肉体の鍛錬が目的とされた。週二日の授業内容は人種・優生学、ドイツの国民音楽・国民舞踊、家政科実習、スポーツ、看護実習が中心となっており、休暇には10日間の合宿が行われた。

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上:陸上、球技、体操などのスポーツの授業は、将来多くの子供を出産できる健康な肉体を作るために重視された。特にリズム体操は結束と女性らしさを自覚させるために必要とされた。

 

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上:傷病兵慰問もBDMの重要な任務だった。他にも孤児の世話、戦地への寄付金集め、空襲後の瓦礫清掃、怪我人の世話、食糧配給、プロパガンダポスター貼り、前線の兵士への手紙とプレゼントの送付などが義務付けられていた。

 

 エリカの教え子の一人に、BDMが義務化されても入会することを拒む生徒がいました。父親が社会主義者で投獄された経験があったからです。その女生徒はBDM幹部に呼ばれ、こう言われたそうです。

「あなたは反体制派を気取っているの?愚かなことはおやめなさい。ゾフィー・ショルと同じ運命をたどることになるわよ」

当時、21歳の大学生、ゾフィー・ショルがナチス抵抗運動によって逮捕され、ギロチンで処刑されたことは誰もが知っていました。

 

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 ゾフィー・ショル(1921年~1943年)は、ミュンヘン大学の学生たちで構成された抵抗運動グループ『白ばら』の主要メンバーであった。ミュンヘン大学の学生たちは、ポーランドでのユダヤ人の悲惨な状況を目撃したこと、そしてソ連の戦線を体験したことから、「この戦争を受け入れてはならない。ナチスがヨーロッパを支配することを我々は許さない」と、このグループを立ち上げ、メンバーの妹ゾフィーも後から加わった。大学構内でビラを撒いているところを発見され、ゾフィーは兄と他の学生と共に逮捕され、処刑された。21歳だった。現代では、ゾフィー兄妹はナチス抵抗運動の象徴となっており、ドイツの学校名で一番多いのが「ゾフィー・ショル校」である。

 

 進歩的な働く女性たちにとって、ナチス政府の推奨する「控えめで夫に従順で家庭的な女性」という理想像は前時代的であり、腹立たしいものでした。彼女たちの熱心な女権拡張運動によって、1908年には女子の大学入学が認められ、ワイマール共和国時代には「男女平等」が議論されるようになり、1919年には女性参政権を獲得するまでに進展したのです。それが今さら家庭復帰?多産奨励? 

 エリカと同僚の教員たちにも、ナチスの女性政策に辟易している者は少なくありませんでした。女性教師は15%も削られた上に、すべての教員は国家社会主義教職員同盟  (NSLB)への入会が義務付けられ、何週間もの合宿に参加しなくてはならなったのです。

「おお、マックス、信じられる?人種政策と愛国心をいかにして子供たちに教導すべきかを、狂信的指導官から講義されるのよ。生徒たちの家系図を見てユダヤ人がいないか確認しろとか、世界の頂点に君臨するドイツ民族としての誇りを忘れるなとか。そんな馬鹿げた講義を何週間も毎日聞かされるのよ。うんざりだわ」

 

 エリカの友人リザが妊娠に気付いたとき、夫は特別休暇を終えて、すでにソ連の前線に戻っていました。リザは婦人科で妊娠証明書を受け取ると、その足で役所に向かい、妊婦用食糧配給券の発行を申請しました。当時、妊婦は牛乳、バター、オートミールを追加してもらうことが出来たのです。エリカを訪れたリザは、花嫁修業合宿を終えたばかりで、少しイライラした調子でした。

「私が家事が出来ないからって、義母が勝手に花嫁学校に申し込んだのよ。まあ確かに料理は下手だから、仕方ないんだけどね。義母が『あんたが党員じゃないから、払わなくちゃいけないじゃないか。』っていちいち文句を言うのよ。払ってくれるからまあいいわ。それより、その花嫁学校がすごく立派なお屋敷でびっくりしたわ。どうやらそこはユダヤ人の家だったらしいのよ。そこで6週間、お屋敷に寝泊りしながら毎日授業を受けるのよ。朝7時起床、7時半には鉤十字旗の掲揚、しかもナチス敬礼をしている間、どんなに寒くても、上着を着ちゃいけないのよ。ドイツの母は文句を言っちゃいけないって、冗談じゃないわ。それからナチス党歌を歌いながら、湿原を行進するのよ。もう私、あまりのバカバカしさに笑いをこらえるのに必死だったわ。そして一日が始まるの。授業は料理、育児、裁縫の他に、国家社会主義についての講義を受けなくちゃいけないのよ。育児の授業では教科書にこれを使ったのよ。私はもう読まないから、良かったらあげるわ。最高の育児書よ!」

リザが差し出した本は、当時、大ベストセラーになっていたヨハンナ・ハーラーの育児書『ドイツの母と初めての子供』でした。リザはパラパラとページをめくり、自ら線を引いた「面白い箇所」を読み上げました。

「出産直後から24時間の間、母親は赤ん坊から離れていなければならない。新生児を抱き締めたり、キスしたりといった行為は強い母親としての自覚を喪失させる。感情に支配されない堅固な意思を持つ訓練を出産直後から始め、戦地にいる男たち同様に勇気をもって闘わなければならないのだ。忍耐こそがドイツの母の基本である」

「母よ、強くあれ!子供に魅了されてはならない。幼児とはいえ決して甘やかしてはならない。男たちは前線のステップ地帯の猛暑の中で、あるいは吹雪の中で耐えているのだ」

「子供たちにとって母親は絶対であり、反論や不満の言葉を発することを決して許してはならない。まず服従することを学ばせるべきである」

リザは呆気にとられているエリカを見て、声を上げて笑いました。

「エリカ、パロディじゃないのよ。本気なのよ。赤ん坊にキスすることを禁じているのよ、この育児書は」 

 

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上:ヨハンナ・ハーラー(1900~1988 )は元々肺病専門の医師であり、教育学の専門ではなかったが、一人目の子供を出産してすぐ新聞に育児についての記事を書き始めた。寄稿文はナチス政府に絶賛され、ナチスのイデオロギーを土台とした育児の手引きとして書籍化され、ベストセラーとなった。ハーラーは多くの育児書の他に、『母さん、アドルフ・ヒトラーの話をして!』などの児童書も出版し、その中で反ユダヤ主義、反共産主義の重要性を説いている。主人公の英雄ヒトラーが、悪魔のようなユダヤ人と共産主義者からドイツ民族を救い出す物語は、子供でも楽しめるように豊富な挿絵の入った本となった。この本の目的は、ヒトラーユーゲントとBDMの必要性を説くことにあった。ハーラーには5人の子供がいたが、戦後、子供たちはインタビューに、「冷酷な母のもとで、私たちは辛い子供時代を強いられ、苦しみました」と語っている。

 

「それで家事はこなせるようになったの?」

エリカの問いにリザは肩をすくめました。

「それが全然よ。6週間なんて大して学べないものよ。義母はいったいいくら払ったと思ってるんだって、もうカンカンよ」

ふたりは声を上げて笑いました。 

 

 私は退院すると、軍の指定医師のもとで兵役検診を受けました。足はかなり回復してはいましたが、前線では使いものにならないとの診断で、ダンツィヒの病院で衛生兵としての勤労兵士、いわゆる銃後の守りを任されることになりました。両親とエリカは泣き出さんばかりに喜びましたが、私は何とも複雑な気持ちでした。私の新しい任務は従軍牧師ではなく、病院での傷病兵の世話と薬品の管理でした。

 このころから左手の薬指にふたつの結婚指輪をする女性が増えていきました。(*ドイツでは結婚指輪は右手薬指だが、当時の未亡人は左手薬指に亡くなった夫の指輪と重ねてつけた。)まだ二十代の若い女性たちです。夫はどこで亡くなったのでしょう?スターリングラード?クルスク?地図にも載っていない小さな村?出征した夫と、いったい何年一緒に暮らしたのでしょう?

 

 戦争後期になると、学校での授業の継続は難しくなりました。生徒たちは配給と農業の手伝いを中心としたBDM活動に、教師たちは勤労奉仕に駆り出されたからです。あれほど女たちの家庭回帰を叫んでいた政府が、今度は女たちを軍需工場に縛り付けたのです。労働時間は一日10時間に及び、もちろん土曜日も出勤でした。

 エリカは縫製工場でミシンをかけるチームに配属され、毎日、軍服を縫っていました。

「悲しい作業だわ。物資不足で布地が手に入らないから、素材は前線で戦死した兵士たちの軍服を再利用しているのよ。死体から剥がされた軍服が私たちのところに届けられるんだけど、穴の開いた弾の痕があるものや腕の無い軍服ばかりなの。血が赤黒くこびりついて固くなっているから、まずはそれを綺麗に洗い落として、使える生地を切って繋いで軍服を作るの。最初はそれが恐ろしくて、縫いながら『今度はどの前線にいる兵士がこれを着るのかしら?その後、またここに送られてくるのかしら?』と考えては、また涙が出たものよ。でも、一ヶ月もすればすっかり慣れてしまうの。同僚たちと『誰か右腕余ってない?』とか『左足残ってない?』とか用立てしながら作業しているのよ」 

 

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上:「我々は前線を支える!」戦地で闘う男たちに代わって、女たちは様々な仕事に就いた。特に軍需産業における女たちの労働力は重要だった。

 

 1943年秋、私たちは結婚しました。ドイツの法律により、まず役所の結婚登記所で結婚式を挙げる必要があり、教会式はその後と決まっていました。この役所の結婚式というものが厄介で、それぞれの両親の両親、つまり私たちの祖父母がすべて純血アーリア人であること、つまりユダヤ人の血が混じっていないことを証明した血統書を役所に提出する必要がありました。そうして初めて婚姻許可証が発行され、結婚登記所での極めてナチス的で無味乾燥な結婚式を挙げることが許されたのです。

 

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上:アーリア人血統書。当時は結婚のみならず、 SS、公務員、医者、弁護士、大学職員、教師などもこの書類の提出が義務付けられていた。

 

 この頃、戦時中にもかかわらず結婚式が目白押しで、なかなか予約が取れないことに私たちは驚きました。これには理由があって、第一次世界大戦では多くの戦争未亡人が空腹を抱えて路頭に迷ったものですが、ナチス政府は同じ苦しみをこの戦争では繰り返さないことを約束していました。兵士に安心して戦闘に集中してもらえるよう、つまり自分の死後、未亡人となった妻が仕事を探す必要がないよう、十分な経済的保障を約束していたのです。そして政府は未来の兵士たちを確保するため、たとえ戦時中であっても、結婚と出産を奨励しました。戦争前半に兵士たちに約一カ月近い休暇が与えられたのは、妻の排卵日を逃さず、妊娠させるためだったのです。

「女は馬車馬のように働くか、繫殖牝馬のように子を産むかだ」

これは戦時中の女のことを皮肉った、ナチス国家ゲーリング元帥の言葉です。

 花婿が前線にいて結婚式に参加できない場合は、いわゆる鉄兜婚が挙げられました。これは花嫁が二人の証人を伴って登記所に赴き、ヘルメットを横に置いて結婚証明書に署名する儀式です。前線の花婿もまた同様に、戦友たちの見守る中で署名をし、花嫁のいない結婚式を挙げるのです。1942年からは戦死した婚約者との結婚も可能となり、これもヘルメットを横に置いて行われました。これは通称「死者婚」と呼ばれました。

 

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上:結婚登記所での鉄兜婚。終戦までに約25,000件の鉄兜婚が行われ、これによって夫が戦死した場合も生まれる子供は私生児でなくなり、国からの結婚資金の借り入れ、夫の財産分与、及び寡婦手当の受給が可能となった。しかし「息子は婚約などしていなかった」と、この婚姻の無効を訴える花婿の両親も後を絶たなかった。

 

 私たちキリスト教徒にとっては、教会での結婚式にこそ大きな意味があります。空に鱗雲が広がり、レンガ造りの教会の外壁を覆う蔦が赤く染まり始めた頃、私たちは教会結婚式を挙げました。ウェディングドレスも大きなパーティーもない、身内とごく親しい友人だけが列席するささやかなものです。エリカはシフォンの白いワンピースに白いバラの花束だけという慎ましい装いでしたが、輝くばかりの美しさでした。

「死が二人を分かつまで、命の日の続く限り・・・」

私たちの堅信礼クラスの担当だったへンツェ牧師が、同じ教会で結婚式を執り行うという不思議。軍服の胸ポケットからマイスターシュテュックを取り出し、結婚誓約書に署名しながら、このペンでいったい何十人の兵士たちの遺書とお悔やみを書いただろう?と複雑な気持ちになりました。やっとヨハネスとの約束を果たせる時がきたというのに、ここに彼はいません。ヨハネス、君はどこにいるのだろう?独ソ戦が始まってからというもの、彼の行方はわからなくなっていました。

 

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上:戦時中のある結婚式。花婿は軍服と決められていた。

 

 ダンツィヒ郊外の小さな居心地の良いアパートが、私たちの新居となりました。木材も少ないうえに多くの家具職人は徴兵されていたため、新しい家具を買うことはほぼ不可能でした。エリカが古い本棚に英語の少女小説を並べると、私と目を合わせて笑いました。かつて役所が学校図書館から敵国の本を処分せよと言って来たので、その役目をエリカが率先して引き受け、ジェーン・オースティン、ブロンデ姉妹、オルコットなどの英語の本がずらりと本棚に並んでいたのです。

「なぜ女流作家ばかりなの?」

私の質問に、エリカは微笑みました。

「女は戦争を書かないわ」

豊かとは言えない暮らしでしたが、それでも愛する人との生活は温かく幸せでした。

 結婚式から一週間もしない夜、ダンツィヒはアメリカ空軍による激しい空襲に見舞われ、多くの死傷者を出しました。私たちの新居は郊外にあったため難を免れましたが、中心部の軍需工場と港湾の造船所周辺の損害は甚大で、私は不眠不休で衛生兵としての業務に奔走しました。あのヴィンター氏の軍需工場も壊滅的な被害を受け、翌日にはまだ黒い煙の上がっている瓦礫の間で呆然と佇んでいるヴィンター氏を見かけました。

 この頃になると連合軍の軍用機が「ドイツ国民よ!ヒトラーを信じてはいけない!東部戦線のドイツ兵を、これ以上死なせてはいけない!もはや勝算はないのだ!」と書かれたビラを撒いていくことが増えていきました。 戦死通知は後を絶たず、エリカの働く工場には相変わらず血まみれの軍服が連日運ばれてきます。「もはや勝算はないというのは、あながち嘘とも言い切れないのではないか」と人々は囁き合うようになっていました。 

 農家が人手不足で作物も激減してきたため、配給食料品も少なくなっていました。誰もが空腹な上、毎晩のように鳴り続ける空襲警報で睡眠不足なのですが、勤労奉仕を休むわけにはいきません。「国家総力戦」は体力的にも精神的も私たちを打ちのめし、すでに限界に近付いていました。

 

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上:1943年、マリエンブルグ市近郊の戦闘機工場に爆弾を落とすアメリカ第8空軍爆撃機。

 

 その年の暮れ、病院列車で運ばれて来た傷病兵の中に、小学校の同級生だったフリードリヒがいました。ポーランドでパルチザンの投げた手榴弾で右手を失くしましたが一命をとりとめ、ダンツィヒの病院に移送されて来たのです。フリードリヒは赤十字の腕章を付けた私を見ると、涙を流して喜びました。

「ああ、ここは天国だ。ああ、君は天使だ」

フリードリヒはポーランド侵攻が始まってすぐに志願兵となっていたと言うのですから、かれこれ4年以上も戦地にいたことになります。

「あっという間の電撃戦でイワン(ロシア兵の蔑称)は半年で降伏すると言われたんだがね、だまされたよ。こっちが降伏する日もそう遠くはない。そのうちイワンが復讐しに押し寄せてくるだろう」

「フリードリヒ、ここではそういうことを話さない方がいいよ。ゲシュタポがしょっちゅう出入りしてるし、看護婦の中にも密告屋がいるんだ」

「ふん。ここでのたうち回って苦しんでる兵隊に、Endsieg(最終的勝利の意。ヒトラーが好んで使ったスローガン)と耳元で囁いてみろよ。腹を抱えて笑い出すか、ヘドを吐いて卒倒するかだ」

フリードリヒはポーランドの駐屯地で聞いた身の毛もよだつような話を聞かせてくれました。ポーランドのクラクフの近くに出来た、あのアウシュヴィッツ絶滅収容所についてです。ヨーロッパ中からユダヤ人、ロマ、社会主義者、聖職者、同性愛主義者などが集められ、毒ガスで殺されていると聞いた時、私は俄かに信じることは出来ませんでした。

「本当なんだよ、マックス。クラクフの居酒屋で酔っ払ったSS隊員たちが話してくれたんだ。家畜用列車に人間が詰め込まれているのは、俺もよく見ていたんだ。小さい窓に鉄条網が張ってあって、そこから悲しそうに外を見てるんだ。あれはユダヤ人だったんだよ」

これは国家機密で情報の漏洩は死刑であったのにもかかわらず、ポーランドに駐屯する兵士たちの多くが知っていたのです。フリードリヒが聞いた絶滅収容所の話は耳を塞ぎたくなるようなものばかりで、私はただ呆然と聞いているしかありませんでした。それについては、すでに生還者たちが証言していますから、ここでは省きましょう。ただし、フリードリヒの話の中には、ニュルンベルグ裁判でも証言されなかった事実がありました。

「そこには囚人用の売春宿があるそうだ」

「囚人用?」

「ああ、強制労働の生産性の向上のためだそうだ。褒美のようなものだ。もちろんユダヤ人たちは許されない。ドイツ人かポーランド人の特権を持つ囚人、まあ社会主義者か政治犯になるんだが、そいつらがその恩恵に預かれると言うんだ」

「ポーランド人の売春婦を雇ってるの?」

「いや、女の囚人だよ。売春婦になれば餓死しないですむから、自分から名乗り出る女もいるし、強要される女もいるそうだ」

明日をも知れぬ恐怖の中で男たちの相手をさせられる女たち。これが地獄でなくてなんでしょう。

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上:グーゼン強制収容所の売春宿。多くの強制収容所には囚人用の売春宿があり、ドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人などの囚人女性に売春を強制していた。一回15分で客は2マルクを支払い、そのうち0,45マルクは女に、残りはSSの懐に入った。女たちの食事は他の囚人より恵まれていたが、半年ほどで「交換」となり、多くがガス室に送られた。このことが長い間、知られなかったのは、生き延びた女性が恥じて沈黙を守ったこと、そして政治犯や共産主義者などのポーランドの英雄たちが買春を行っていた事実を、ドイツ政府もポーランド政府も公にしなかったからだと言われている。

 

フリードリヒは話を続けました。

「そのSS隊員が言うには、彼は女性収容所のカナダで働いているって言うんだ」

「カナダ?」

「そう呼ばれてるバラックがあるんだそうだ。豊かな富に恵まれた、素敵な場所だからって」

「どういう意味?」

フリードリヒは声を落としてヒソヒソと打ち明けました。そこでは収容者のスーツケースや衣類の中から金銭、ダイヤ、時計、貴金属などを探し出して分別しているのだと言うのです。かわいそうに、ユダヤ人たちは財産を没収されないよう、連行される直前にコートの表地と裏地の間や、スーツケースの内布の中にダイヤや貴金属や札束を隠し持っていたのです。

「そこは世界で最も豊かな場所だと言うのさ。それでカナダと呼んでいるらしい」

「そこで貴重品を探すのがそのSSの任務なんだね?」

「いや、探し出すのは選抜された収容者の女たちで、SSはその女たちを見張っているんだ。女たちは収容者の中で一番恵まれていて、コートのポケットの中から食べ物が出てきたら、それを食べることが許されているんだ。ダイヤモンドよりパンの欠片の方が嬉しいんだよ。かわいそうに。SSは本当は盗人は鞭で叩かなくちゃいけないんだけど、そんなことはしないと言うのさ。だって・・・」

フリードリヒはより小声でコソコソと囁きました。

「女たちが金を見つけたら、SSにそっと渡すんだ。それで奴らは女たちがパンをかじるのを見逃してやってると言うんだ。一日の終わりには、SS隊員たちのポケットは、札束でパンパンさ」

「なんてことだ。そこで集めたものはどうするんだい?」

「帝国銀行に送るそうだ。いや、もちろん全部じゃないけどね。そこの所長夫人なんか最高級のミンクのコートを着て、高級車に乗って、宝石をジャラジャラつけて・・・。さぞかし笑いが止まらないだろうよ」

「なんてことだ・・・」

「SSは自分を正当化して、俺にこう言ったんだよ。『ユダヤ人はドイツ帝国の滅亡を望んでいるのだから、殺られる前に殺るのは当然だ。あいつらがイワンを操ってるんだからな。スターリングラードを見てみろ。どれだけの戦友がイワンに殺されたんだ。どれだけの罪のない女子供が空襲で殺されたんだ。もともとはユダヤ人のせいなんだ』とね」

返す言葉が見つかりませんでした。しばらく黙ってから、フリードリヒはこう呟いたのです。

「牧師の君に言うのもおかしいけど、我々の信仰やこれまでの価値観は捨て去った方が賢明だ。あれだけの兵隊が犠牲になって占領した国土が、また奪還されて小さくなっていくんだ。戦友たちの死はなんだったんだ?このSSみたいな男の方が、今も戦後も幸せに違いない」

 底知れぬ悲しみに襲われ、重い足を引き摺るように、私はトボトボと自宅に歩いて行きました。居間に入って行くと、薄明りの中、ソファに横になって本を読んでいるエリカが顔を上げてにっこりと私に笑いかけました。

「鶏肉が手に入ったから、チキンスープを作ったの。温めるわね。」

私はひざまずいて妻の膨らんできたお腹にキスをして突っ伏すと、エリカは何も言わずに私の頭を優しく撫で続けてくれました。

 

 1944年6月、ベラルーシではソ連軍の反撃戦、バグラチオン作戦が始まっていました。二ヶ月の間にドイツ軍はじりじりと国境まで追い詰められ、結果的には30万人以上のドイツ兵が死にました。

 その中にヴィンター家の三人の息子たちがいました。税理士になって美容室の経理を手伝っていた長男も、医学部学生の次男も、ナチスのエリート学校ナポラから前線に放り込まれた17歳の三男も、すべての息子たちが戦死したのです。この残酷なニュースは瞬く間に町中に広まり、心配した近所の人々が、準備中の札をかけた美容室の店内を窓越しに覗き込んで行きました。

 ある日の夕方、レナーテと仲の良い女生徒イリスが、レナーテを救ってほしいとエリカのもとにやって来ました。

「先生、レナーテのお母さんは狂ってしまったんです。ずっと髪を掻きむしりながら泣いているんです」

「レナーテはどうしているの?」

「お母さんが自殺しないように、見張ってるんです。美容室のハサミもカミソリも、キッチンのナイフも全部隠したんですけど、この間はパーマネント液を飲んでいるのを見つけて、慌てて吐かせたんです」

「なんてこと・・・」

エリカのお腹はすでに大きくなっていましたが、どうしてもスープをレナーテに届けたいと言うので、私はスープの入った鍋と救急カバンを持ち、エリカと連立ってヴィンター夫人のもとへと急ぎました。不安そうな顔をして出て来たレナーテは、エリカの姿を認めた途端、抱きついて泣きじゃくりました。

「先生、兄たちが戦死したんです」

「聞いたわ。辛かったわね」

エリカはレナーテを抱き締めて、痩せた背中をさすりました。まだ14歳でこの悲しみを一人で背負っていかなくてはならないのです。居間に入って行くと、赤いボサボサの髪を垂らし、呆然と椅子に座っているヴィンター夫人の姿がありました。いつも大柄な体を揺すって笑っていた、あの自信に満ちた姿は見る影もありません。生気のない青白い顔には目の下の真っ黒なクマが目立ち、口を半開きにしたまま憔悴しきっています。私はヴィンター夫人の脈拍と血圧を測ると軽い導眠剤を与え、エリカは夫人の肩を抱いて寝室に連れて行きました。レナーテには持ってきたレンズ豆のスープを温め、私たちは祈りを捧げました。

「天の神様、御名を讃美します。今、絶望の淵にいて苦しんでいるヴィンター夫人を慰めてください。そして、私たちがヴィンター夫人に寄り添う者となれますよう、力をお与えください。われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

エリカはレナーテの手を握りしめました。

「大丈夫、あなたを一人にはしないわ」

 翌日からエリカの呼びかけで、近所の人たちと教会の婦人会メンバーが交替でヴィンター夫人とレナーテの様子を見に行くようになりました。エリカも勤労奉仕を終えると大きなお腹を抱えてヴィンター家を覗き、一緒に夕食を取ったり、お茶を飲んだりしていました。ヴィンター夫人があれほど忠誠を尽くしてきたナチスの女性組織NSFはヴィンター夫人を慰めるどころか、息子たちの死を名誉なことであると褒め称えた手紙を送って来ただけで、誰ひとりヴィンター家にはやってきませんでした。連帯と協力を謳っていたNSFですが、ヴィンター夫人の慟哭する姿は党員の士気高揚の妨げにしかならないと判断したのでしょう。BDM教官からはレナーテに「早く任務に戻って、前線の兵士に激励の手紙を書くように」との連絡をよこしただけでした。

 一ヶ月ほど経ったある日の晩、ヴィンター家から帰宅したエリカを見て私は仰天しました。長く美しかった金髪が、バッサリと耳元まで切り取られ、20年代に流行したブービーコプフ(少年風ショートカット)になっているではありませんか。

「ヴィンター夫人に切ってほしいとお願いしたら、一瞬、目を輝かせたのよ。やはりプロフェッショナルだわ。ちっとも腕は落ちていないのよ。ヴィンター夫人たら、代金を受け取ろうとしないのだけど、置いてきたの。だってお金を稼ぐことが、生きる力になるかもしれないでしょう?どう?新しい髪型は。赤ちゃんが生まれたら、これくらい短い方が楽でいいわ」

私はエリカの絹のように輝く金髪を愛していましたので少し落胆しましたが、彼女の胸の内はわかっていました。

「なかなか似合うよ。随分若返ったね」

その少年のような頭をクシャクシャと撫でると、エリカは恥ずかしそうに微笑みました。

 何週間かすると、ヴィンター夫人は身だしなみを整え、時々店に顔を出すようになりました。ある日の午後、息子たちの死を聞きつけたのでしょう、ヴィンター氏がひょっこり美容室にやってきました。空襲で工場が閉鎖されると、若い女優の愛人は金の切れ目は縁の切れ目と言わんばかりにヴィンター氏をさっさと捨て、かねてから懇ろになっていた若い男優と慰問劇団に加わって姿をくらましていました。夕方、美容室に立ち寄ったエリカに、レナーテが話してくれたのです。

「父さんてば、母さんの足元に跪いて泣き出したんです。すまなかった、許してくれって」

「驚いたわ。それで、お母さんは何て?」

「台所からスピリトゥス(アルコール度数90度以上のポーランド産ウォッカ)を持って来たんです」

「スピリトゥス?それで?」

レナーテの話によると、ヴィンター夫人はスピリトゥスの瓶の蓋を開けると、ヴィンター氏の頭からバチャバチャとかけ、マッチを擦り、火をつけようとしたと言うのです。ヴィンター氏は這う這うの体で店から逃げ出し、店の客たちは拍手喝采で見送りました。

「先生、母ったら、父を燃やそうとしたんですよ。皆、どうして笑ったりできたんでしょう?いくら何でも、ひどすぎませんか?」

エリカは涙ぐんでいるレナーテの頬を撫でました。

「おお、レナーテ。配給ウォッカは水で薄めたまがいものなのよ。燃えないことを皆知っているの。ヴィンター氏だってご存知だったはずよ」

 

 戦死通知は毎日、誰かの家に届けられ、毎日、葬式の列が町を練り歩いていました。牧師の後に続く喪服を着た人々の列、死体の入っていない棺、うなだれて歩いている妻や年老いた両親たち・・・。

 

f:id:ritsukoguenther:20180516190533j:plain 上:人口800人にも満たないある村の戦死者と行方不明者。第二次世界大戦で戦死したドイツ兵500万人のうちのほんの一部である。 

 

 1944年夏にはノルマンディーに連合軍が上陸し、パリは解放され、東部前線のドイツ軍の戦況はますます悪化していました。7月にヒトラー暗殺計画が未遂に終わったとラジオニュースが伝えた時には、もうこの戦争に勝ち目はないだろうと誰もが思い始めていました。これほど多くの将校たちが反旗を翻しているのです。いったい戦争を続けて何の意味があるのでしょう?もはや私たちにとっての最大の恐怖は、ソ連の報復でした。殺戮、強姦、強奪、追放。「イワンは間もなくここにやって来るに違いない」 

 不穏な空気の中で、幸せな出来事がありました。9月に入ってすぐ、エリカが小さな女の子ティナを出産したのです。私たちはこの美しい娘に夢中になりました。エリカそっくりな薄青い目、小さな鼻、小さな手、ムチムチとした腕と足、うっとりとする甘い香り。この神の芸術品は、何時間見ていても飽きない最高傑作です。私たちにはハーラー女史の育児書など必要ありません。抱き締め、キスし、頬ずりし、「感情に翻弄され」ながら幸せを噛み締めました。私の両親もエリカの両親も同様に、毎日のようにティナに会いに来ては、「こんな美しい赤ちゃんを見たことがない!」と大満足して帰って行きました。

 秋が深まるにつれて、ダンツィヒにもソ連軍から逃れてきた難民が大挙して押し寄せるようになりました。ソ連軍はいよいよポーランドとの国境を越え、ドイツへの進軍を始めたのです。政府はいまだに市民の移住許可を出さないので、食糧配給券の書き換えが出来ません。

 難民たちは総合体育館、映画館、学校、市民館などに泊まりながら、バルト海を渡る船が出るのを待ち続けていました。ただでさえ傷病兵で溢れている病院には、もう空き部屋はありません。感染症に侵された難民は個室に隔離されましたが、それ以外の病人は廊下に寝かせるしかありません。特に持病を悪化させた老人たちの呻き声が一日中廊下に響き渡り、他の病人たちが「聞くだけで憂鬱だ。何とかしてくれ」と怒り出す始末です。

 しかし最も気の毒なのは、ソ連兵たちに強姦された少女たちでした。ソ連兵から逃げ遅れた村人たちのうち、女たちは一軒の家に集められ、ソ連兵に順番に強姦されたと言うのです。拒否した女性はその場でカラシニコフ(ソ連軍の使用した小銃)で頭を殴られ、気絶したところを襲われました。

「地下室に連れていかれて、大きなソ連兵がズボンのベルトを緩めたの。私が泣き叫んだら、いきなり殴られて気を失ったの。ものすごい痛みに目が覚めたら、ソ連兵が上に乗っていたの」

淡々と話す少女はまだ12歳でした。局部の裂傷で歩くことも出来ず、馬車に乗ってやってきた難民の少女たちの傷の手当てをする医師は、首を振って呟きました。

「これが人間のすることか・・・」

看護婦たちは震え上がりました。

「もうすぐ野蛮人たちがここに来るのよ!明日は我が身だわ!」 

 この頃、ティナが熱を出し、苦しそうな咳をし続けていました。近所の小児科医に診てもらっても、ただの風邪だから脱水症状に気を付けてと言われるだけで、薬を処方してくれるわけでもありません。熱が三日も引かないので今度は大きな病院に行くと、医者は、面倒そうに聴診器を当てた後に言い放ちました。

「ああ、一人目の子供だから神経質になりすぎですよ。風邪くらいで慌てないで!はい、次!」

ただでさえ薬品不足なこの非常時に、赤ん坊の風邪ごときで病院に来るなんて、と言わんばかりの扱いです。薬は傷病兵が優先され一般市民は後回しですから、当然、赤ん坊には何も処方されることなく、エリカは苦しそうに咳をするティナを抱いたまま、再び凍った道をトボトボと歩いて帰って行きました。

 毎日、何十人という傷病兵がダンツィヒに輸送されて来ており、私は目が回る忙しさでした。病院では収容しきれないので、大型体育館、映画館、教会、多目的ホールなどで他の難民たちと共にキール港への引き揚げ船を待ち続けていたのです。

 ようやく大型客船が難民輸送船としてキール港に向けて出港するという連絡が入り、エリカ、エリカの両親、私の両親が同じ船の乗船券を得ることが出来ました。私は衛生兵として傷病兵の付き添いと世話をするため、ダンツィヒから20㎞離れたゴーテンハーフェン港まで傷病兵を移送し、エリカたちと同じ船に乗ってキール港まで傷病兵を送り届け、再びダンツィヒに引き返して同じ業務を繰り返すことになっていました。

「食料は輸送船で供給があるから必要ないよ。終戦後はすぐに帰れるそうだから、とにかく貴重品だけ乳母車に入れよう」

外はマイナス20度です。エリカは苦しそうに咳をして泣いているティナにありったけの衣服を着せ、湯たんぽを入れた乳母車の上に毛布を敷き、その上にティナを乗せました。脱水にならないようにと、哺乳瓶に白湯を入れ、頻繁に飲ませるようにしていました。エリカたちは港のあるゴーテンハーフェンまでを汽車で行き、私は病院のトラックで傷病兵を移送するので、移動も乗船も別行動でした。

 輸送船に乗り込んだ難民の数は6000人以上で、定員の3000人の二倍です。床にも廊下にも水のない船内プールにも毛布が敷かれ、人がぎっしりと寝そべっています。傷病兵たちをキャビンに運び込み、薬を取りに医務室に行くと、そこにエリカたちがいるではありませんか。しかし、彼女たちの顔色を見て、私は凍り付きました。私の両親とエリカの両親が診察台を取り囲んで泣いています。エリカは正面に座ったまま茫然と診察台の上に寝ている小さなティナを見つめ、その横に背の高い白衣を着た初老の医師が厳しい顔で立っていました。父は私に低い声でこう言いました。

「マックス。ティナがたった今、息を引き取った」

死んだって?医者はただの風邪だと言ったじゃないか?私は診察台のティナに近付くと、無意識のうちに小さな首に指を置いて脈がないことを確認し、ただ呆然としていました。私の父によると、乗船後、ティナが苦しそうに息をしながらぐったりしていたため、慌てて医務室に連れてきましたが、もう遅すぎたというのです。医師によると、娘は肺炎を起こしていたのだそうです。まだ生後5ヶ月にもなっていなかったのです。エリカはティナをピンクのショールにくるむと抱き締めたまま泣きもせず、微笑みすら浮かべて子守歌を静かに歌いだしました。そこに看護婦が医務室に入って来て、私を見つけると、

「ああ、シュルツ牧師、ここにいらしたんですね。さきほど船上で85歳のお婆さんが亡くなったんです。水葬式を執り行ってください」

と事務的に伝えました。船上の遺体は直ちに水葬する規定があることも、私が牧師であることも、看護婦たちは知っていました。

「わかりました。私の娘も亡くなりましたので、一緒に執り行います。赤ん坊用の遺体収容袋も用意してください」

私が何を言っているのか看護婦は一瞬わからない様子でしたが、赤ん坊を抱いて静かに歌っているエリカを見るとギョッとし、

「お悔やみ申し上げます」

と言って、慌てて医務室から出て行きました。静かに子守歌を歌い続けているエリカに、今から水葬式が執り行われること、ティナに別れを告げなければいけないことを伝えると、エリカは初めて激しく泣いて抵抗し、ティナを固く抱きしめて離そうとしません。それは私たち夫婦にとって生涯で最も辛い瞬間でした。私はエリカを抱き締めて、ティナはすでに神の御許に召されてここにはいないこと、そこには平安だけがあり、私たちもいずれそこに行けるのだと説得している間中、エリカはティナにキスしながら嗚咽していましたが、やがて観念してティナを私にそっと渡しました。

 刺すように冷たい風が容赦なく吹き付けるデッキの上で、私は20人ほどの参列者と葬式を執り行いました。ひとつの黒い遺体袋の横には小さな遺体袋がちょこんと置かれ、それぞれの袋の上に純白の百合の花が一輪ずつ置かれています。私は聖書を開き、「コリント人への第二の手紙」を読み上げました。

  わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
  見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

祈りを捧げ、賛美歌「主よ 御許に近づかん」を参列者全員で歌い、ふたりに別れを告げました。やがて二つの遺体がデッキからスライダーを伝って水面に滑り落ち、飛沫をあげて冷たい灰色の波間に消えていきました。水面に残った白い百合の花が二本、ゆらゆらと揺れながら次第に遠くなり、水平線の手前で消えてしまうまで、私はエリカの肩を抱き、震えながらそれを見つめていました。

 バルト海を渡った難民の数は250万人(50万から60万人が傷病兵)、そのうち25,000人が亡くなり、小さなティナもそのひとりでした。それまで何十人という兵士たちの葬式を執り行ってきましたが、戦争最後の葬式が自分の娘のためだったのです。

 そうしてキール港に到着し、私の家族はそこからシュレスヴィヒへと移送されましたが、私は再びダンツィヒに戻り、傷病兵の輸送に携わりました。やがてキールで終戦を迎え、衛生兵だったことから捕虜収容所送りを免れて、家族のもとへと急いだのです。

 あれから2年以上が経過しましたが、エリカはいまだに娘の話をしたがりませんし、時々涙ぐんでいることを知っています。娘の写真は一枚も残っておらず、あれほど愛していた小さな娘の面影が、私の脳裏で少しずつ薄らいでいく罪悪感に胸が痛むのです。それなのに冬の灰色のバルト海の波間で、二本の白百合がゆらゆらと水平線に向かって揺れている風景だけは、戦争の最後の記憶として鮮明に覚えているのです。