月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

フリングスの冬

 1946年の夏は異常に短かった。まだ9月だというのに、森の木々は驚くような速さで色づきはじめ、朝晩は5℃を下回る冷え込みとなった。

 6歳になったフランツは小学校に入学した。例年ならば半ズボンで過ごすのだが、この年はこの頃からすでに冬物のコート、毛糸の帽子、マフラー、手袋が欠かせない寒さで、毎朝真っ白な息を吐きながら、友達と元気に登校していった。

 ロッテの訪問からほとんど毎週のように、私たちはお互いの近況を手紙で報告しあった。子供たちのこと、近所の人々のこと、仕事のこと。お互いを励まし合い、笑い合う。喜びと悲しみを分かち合える姉妹の強固な絆は、何ものにも代えがたい。

 ロッテの住むベーレンはソ連占領地区なので、役所のロシア兵たちがどれほど横柄で意地悪なのかを書いてくる。同じアパートに越してきたシュレジア地方からの難民のシュターデル家は、母親、祖母、子供たち3人という構成で、父親はスターリングラードで戦死していた。移住先でまず最初にすることは、役所での食糧配給券の申し込みだ。指定の部屋に家族全員で入って行くと、ふんぞり返って座っているソ連兵将校が無愛想にジロリと家族を眺める。俺たちのおかげでお前たちが飢えずに済むんだ。わかっているだろうな?とでも言いたげなふてぶてしい態度に、誰もが恐れをなして震え上がる。横にいる秘書らしきソ連兵は書類を眺めながら、ドイツ語で「名前!年齢!」と叫ぶ。シュターデル夫人が恐る恐る言う。

「マリア・シュターデル、40歳。」

将校は、

「ダー!」

と面倒そうに親指を上にあげる。どうやら配給券発行を許可する、という意味らしい。引き続き、三人の子供たちが名前と年齢を言う。

「ダー!ダー!ダー!」

そして祖母の番だ。

「ローズマリー・シュターデル、74歳。」

将校は薄笑いを浮かべて親指を下にして言った。

「ニェット!」

剣闘士にトドメを刺せと指示するローマ皇帝でも気取っているのか?秘書が無表情に言う。

「婆さんは配給券無し。他は良し!隣の部屋でこの許可証を見せなさい。次!」

シュターデル夫人はショックを隠せない。

「無しってそんな・・・。お婆ちゃんに死ねと言うんですか?」

「早く出なさい!次!」

配給切符無しは餓死を意味する。シュターデル夫人はそうして翌日も翌々日も役所に通い、四日目にやっと祖母の配給券を得ることができた。これはソ連占領地区ではよくあることだ。最終的にはやるけれど、すぐにもらえると思うなよ。そもそも老人はただのごくつぶしで、労働力にはならない役立たずだ。子供と同じ「配当クラス5」でもありがたく思え。

「文句があるならおまえの配給券も剥奪だ!」

そうソ連兵に脅されて、シュターデル夫人は泣きながらアパートに帰って来たと言う。

「おおヒルデ、戦争が終わっても、そんな屈辱的な話ばかりよ。おまけに今年の作物の取れ高は散々だって言うじゃない?配当分もどんどん少なくなっているのよ。この冬は異常な寒さになるって噂もあるし、いったいどうなるんでしょう?」

ロッテが珍しく悲観的になっている。若い男たちは戦死したか、まだ捕虜収容所から戻らないかで、農地は働き手を失って荒れ放題、農作物の取れ高は例年の半分だ。

「そっちに食べ物がないんだったら、こっちに引っ越してくればいいわ。まだ村にはジャガイモもリンゴもベーコンもたくさんあるから大丈夫よ。」

そのころはまだ気前よく、そんな返事を書いていた。

 食糧不足は深刻だったが、それに加えて厳しい寒さがすべてのドイツ人を苦しめ始めていた。10月になると、いきなり冬に突入したのかと思われるほどの寒い日々が続いた。日中は5℃、夜はなんと氷点下4℃である!

「今年の冬は悪魔がやって来るらしい。」

誰が言い出したのだろう?人々はそんな噂を口にし始めた。凍てつく10月は一時的な自然のいたずらだと誰もが思っていたが、下旬になっても気温は下がる一方だ。

 もともとドイツは褐炭と石炭の産出国である。工業用電力も家庭用電力も、ほとんどすべてが火力発電により供給されていたのにもかかわらず、1946年の石炭採掘量たった6000万トン、これは戦前の半分だ。原因は戦時中の空襲による採掘場、重機、輸送路線の徹底的な破壊によるものが大きい。英・米空軍の攻撃目標は輸送路線であり、終戦直後は実に全国90%以上の路線が運行不可能な状態であった。

 そして鉱夫たちの労働意欲の低下も大きかった。重労働の鉱夫たちは一般人よりも一日1000キロカロリー増の食糧を摂ることを許されたが、それでも毎日、栄養の偏った炭水化物ばかりの食事であれば、身体に力が入らないのも無理はなかろう。

 そしてまた、軍需工場の解体作業も石炭採掘量を激減させた大きな要因の一つであった。連合軍は再びドイツが兵器生産を始めて戦争遂行能力を高めることを恐れていたのため、全国1600以上の軍需工場が解体されたのであるが、この作業を最優先し、労働者たちが総動員されたのだ。

 もうひとつ、ドイツにおける当時の石炭不足は、戦後の産業復興を目指すフランスに大量に供給され、ドイツ国内は後回しにされていたことも大きい。フランスは工業生産を戦前の5割増しにすることを目標にしており、それと同時にドイツの工業生産能力を恒久的に制限し、競争力を押さえつけようとしていた。

 これらのことがドイツ国民に石炭不足、電力不足をもたらし、悲惨な冬を強いることになることは火を見るよりも明らかではないか。それを連合国側は予想できなかったのだろうか?

 この状況を回避するためには、通貨改革と早急な産業の復興、それによる輸出量の増加、そして輸入による食糧確保しかなかったはずだ。しかし連合国はそれぞれの占領地区で手をこまねいているばかりで、全国的見地から政策を練り出す中央政府が存在しなかったことは経済的な致命傷であった。

 11月にはマイナス10℃となり、一晩中降り続けた雨が翌朝にはカチカチに凍り付き、翌日からはその上に雪が降り続けた。それがこれから5ヶ月も続く「飢餓の冬」と呼ばれる、20世紀で最も寒く悲しい冬の始まりだとは、誰も予想だにしていなかった。

 

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 上:路上でたき火に集まる市民。外気温はすでにマイナス10℃だったが、住宅ではすでに暖房が止められていた。

 

「おお、ヒルデ、ヒルデ!大変よ!」

ショールで巻いた頭に雪を積もらせた義母が、教会の婦人会から息を切らして帰って来た。

「何があったんですか?」

「役場のベルガー氏がオイレン夫人と不貞を働いていたんですって!」

私はギョッとして動けない。あの現場に遭遇し、そのあと畑で会話して以来、私はオイレン夫人に会っていなかった。小さなアニタが尋ねる。

「母さん、不貞ってなあに?」

「あんたはあっちに行ってなさい。フランツとカードで遊んでいいわ。」

義母の話によるとこうだ。ベルガー氏が夕食後、しょっちゅうチェスの集まりに行くようになったのを不審に思ったベルガー夫人は、ある晩そっと後をつけていった。凍り付く闇の中、ベルガー氏が辺りをうかがいながらオイレン夫人の家に入って行くのを見届けると、ベルガー夫人は家に戻り、包丁を持って再びオイレン夫人のもとに駆け付けた。

「それでどうしたの!」

私の声は震えていたと思う。ベルガー夫人は寝室に怒鳴り込んで行くと、ベッドで裸で夫と抱き合っているオイレン夫人の髪を掴み、刺し殺そうと包丁を振り上げたところをベルガー氏が取り押さえた。ベルガー氏のこめかみに包丁の刃があたり、3針縫う怪我をしたが、オイレン夫人は無事だった。全裸のままマイナス10℃の外へ飛び出し、泣き叫びながら助けを求めた。これを目撃し、家に招き入れてすべてを白状させたのが、村の「歩く放送局」と呼ばれるゴシップ好きなミュッケ夫人だったのが運の尽きだった。翌日には格好のネタとなり、村では知らない者がいないほどの大スキャンダルとなった。義母も教会の婦人会主催の「聖書を読む会」で、早速その話を聞いてきたのである。ベルガー夫人が自宅で夫をどなりつける声は外まで響き、オイレン夫人はそれ以来、全く外に出てこないのだと言う。私は頭を抱えて椅子に座り込んだ。

「おおヒルデ、あのオイレン夫人よ。信じられる?そんな恐ろしいことをしていたなんて。人間てわからないものね。おお神様!」

私が二人の浮気現場を目撃したことは誰にも話しておらず、当然義母も知らなかった。義母は首を振ってため息をつき、こう言った。

「それにしてもベルガー氏はバカな男ね。チェスだなんて言わなければ良かったのよ。彼はチェスが出来ないのよ。」

 翌日、私は二週間ごとに発行される食糧配給券をもらいに役場へ行かなければならなかった。受付の奥には大きな絆創膏をこめかみに貼ったベルガー氏が書類になにか書き込んでいる姿が見え、女たちは配給券を受け取ると、クスクス笑いながら部屋を出ていった。

 12月に入ると再び厳しい寒波がやってきて、ついにマイナス20℃になり、水路は凍り付き、猛吹雪と積雪で汽車は動かなくなった。当然、石炭や食料の輸送もままならない状況で、新聞のトップには「8年目の戦争」と見出しがついた。ドイツ国民の多くが苛立ち、怒りを連合国に向けた。いや、もともとは戦争を始めた我々のせいだ、と戦争責任を思い起こさせようとする者もいたが、原因などほとんどのドイツ国民にはどうでも良いことだった。興味があることはただひとつ。石炭輸送トラックはいつ来るのだ?ラッキーストライクはどこで手に入るか?それさえあれば、闇市でパンも肉も手に入るのに!

 誰もが家の中でも冬のコートを着て、毛糸の帽子を被っていた。ベッドは二人で一台。湯たんぽで温めたベッドにセーターを着たままで入ると、さらに人肌でお互いを温め合って眠りにつこうとした。

 石炭が手に入らないのであれば、燃やせるものをストーブにくべるしかない。村には大きな森があったが、焚き木は雪に濡れ、湿った枝に火を点けたくても白い煙が立つだけだ。私たちは毎日森に入っては枯れ木の枝を掻き集め、部屋で乾燥させた。

 セントラルヒーティングも稼働せず、電灯もない。暖を取るために、ありとあらゆる物が盗まれ、燃やされた。庭を囲ってある木製フェンス、公園のベンチ、郵便箱、空き家のドア、床板、図書館の本・・・。

f:id:ritsukoguenther:20170922083400j:plainベルリン。燃やせるものはすべて持ち帰った。
 

 唯一、町や村の何カ所かある公民館などで石油ストーブの使用が許された。暖かいホールで子供たちは駆け回って遊び、女たちはストーブの近くを陣取って縫物や編み物を抱えて話し込み、老人たちは簡易ベッドで横になった。私も家族を連れて暖を取り、自分のセーターをほどき、子供たちのタイツを編みながら、村の女たちや難民の女たちとのおしゃべりを楽しんだ。そこでは湯を沸かすことも許されていたので、空腹を紛らわすために熱いお茶をひたすら飲んだ。皆が湯たんぽをいくつも持ち込んで、帰りにはタプタプと音を立てながら、湯たんぽを抱えて帰って行った。

 公民館には大きなスクリーンと映写機もあり、映画やニュースを観ることが出来た。この頃から映画館や公民館で「親探しキャンペーン」が放映されるようになった。親とはぐれた幼い子供たちの親探しである。スクリーンいっぱいにあどけない子供の顔が映し出され、この子がどこで発見されたのか、名前、推定年齢、住んでいた環境で覚えていることなどの解説が始まると、あちこちからすすり泣きが聞こえてくるのだった。

「ユリア、推定年齢3歳。ポンメルン地方からの難民の子と思われます。両親の名前は憶えていませんが、抱いている人形の名はモニカです。」
そのニュースは大変有効で、何百件という感動的な親との再会を導いた。私は子供を抱き締めておいおい泣く両親と、母親の腕の中で恥ずかしそうに笑っている幼児の映像を見たことがあるが、この暗い世相の中で唯一救われる思いがする瞬間だった。 

 

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上:親とはぐれてしまった子供たちの「親探しキャンペーン」が毎週上映された。

 

 オイレン夫人が公民館に一向に現れないことがどうにも気になった私は、ある12月の雪の降りしきる午後、小さなケーキをひとつ持ってオイレン夫人を訪ねることにした。

 小さな家のドアをノックしても反応がない。私は勝手に戸を開けて、中に入って行った。暖房がないので、部屋の中は外気温と大差なく、窓ガラスの内側の結露が凍りついている。オイレン夫人の名を呼んでみた。すると、カーテンを閉め切った暗い寝室から、痩せた身体に毛布をグルグル巻きにした、幽霊のような女が現れた。

「ああ、シュライバーさん、お久しぶりですね。」

オイレン夫人の顔は真っ白で頬も眼も落ちくぼんでいるが、私に向かって一生懸命微笑んでいる。私は仰天して駆け寄り、夫人を椅子に座らせた。聞けばここ一ヶ月ほど、ろくに食べていないと言うではないか。

「食糧配給券を取りに行けないんです。あの人がいるでしょう?迷惑をかけられません。」

つまり役場の職員のベルガー氏に遠慮して、配給券をもらわずにいると言うのだ。この人は狂ってしまったのだろうか?

「配給券なしで、どうやって食べていたんですか?」

「夏に作っておいたジャムとかピクルスとか・・・。小麦粉もまだ少し・・・。」

「ベルガー氏は?」

「もうあれきり会っていません。何があったかお聞きになったでしょう?」

「でも、役場の職員なんだから、あなたが来なかったら心配して来るはずでしょう?」

オイレン夫人は力なく笑うと、白い首筋の青い血管がヒクヒクと動いた。

「あの後、奥さんがここに来たんです。あの人が私と関係を持ったのは、同情心からだそうです。本当はひどく迷惑していたけれど、難民だから気の毒になってほっておけなかった、もう二度と会いたくないって・・・。役場に来ても配給券は渡さないからそのつもりで、と言ってました。」

心の底から怒りが沸々と湧き、頭に血がのぼるのがわかった。

「オイレンさん、そんな権利は彼らにはありません。配給券がなければ死んでしまいますよ。明日、私が受け取りに行って来ますから、委任状を書いてください。」

私は長い時間かけてかまどに火を起こし、お茶を入れた。オイレン夫人は涙をこぼしながらボソボソとケーキを食べ、お茶を飲み、「なんて美味しいんでしょう。ありがとう。」と言ってベッドに横になった。

 翌日、私は役場に行き、受付でオイレン夫人が病気で配給券を取りに来れない旨を伝え、署名入りの委任状を見せた。受付の女性は訝し気に私を見る。オイレン夫人の名前が耳に入ったのだろう、奥の方にいたベルガー氏が私をチラリと見た。受付の女性は、

「シュライバーさん、せっかくいらしたんですが、本人でなくてはダメなんです。」

と、けんもほろろに言うのだ。

「本人は病気なんですよ。」

「それでも本人以外に渡すことは厳禁なんです。委任状があってもダメなんです。渡してしまったら、私がイギリス軍に叱られて、職を失います。」

この辺りはイギリス軍の占領地区であり、配給券を本人以外に渡してはならないのは事実だった。それだけ盗難が多く、再発行が効かない唯一無二の貴重品だったのだ。無くしたり盗まれたりすれば、その人は二週間、食糧にありつけないことになる。私がベルガー氏に助けを求めて声をかけようとすると、ベルガー氏は慌てて奥の部屋に行ってしまった。何という臆病者だろう。保身のためなら元愛人を餓死させても平気なのか?いったいこの男のどこが良いのだろう?

 私は怒りと寒さに震えながらオイレン夫人のもとに急ぎ、一緒に役場に行こうと促した。

「でもあの人が・・・。」

「あの人のことは忘れて、とにかくコートを着てください。帽子とマフラーと手袋もね。道が凍ってますから気を付けて。」

家を出る前に、「ちょっとまって。」と、オイレン夫人は鏡を見ながら髪を整え、赤い口紅を薄い唇に丹念に塗り、指で紅を少し取って頬に塗った。やつれていた青白い顔が、みるみる美しく輝いた。

 二人そろって役場に入って行くと、ベルガー氏はチラリとこちらを見ただけで、挨拶もしない。受付の女性が配給券を探している間、オイレン夫人は涙を浮かべてベルガー氏をじっと見つめ、何の反応も示さないことを確認すると落胆して目を伏せた。帰り道、オイレン夫人は小さくつぶやいた。

「かわいそうに。痛かったでしょうね。」

ベルガー氏のこめかみの傷のことを言っているのだろう。この期に及んで、そんなことを心配しているオイレン夫人が切なすぎて、私は何も言えなかった。オイレン夫人の肩を抱き、私たちは凍りついた道をゆっくりと帰って行った。

 こうしてオイレン夫人は無事に配給切符を受け取ることが出来たのだった。 

 私はロッテにこのことを手紙に書くと、こんな返事が来た。

「ヒルデったら、そういうところ、母さんにそっくりね。でも気を付けてね。村の女たちを敵に回すと、面倒なことになるから。」

 ロッテの言ったことが正しかったと、翌週にはわかることになる。私はオイレン夫人を連れて、暖かい公民館に行った。ストーブのそばに座ろうとすると、女の一人がきつい口調で言った。

「この椅子は先約があるの。あの椅子も、あれもダメよ。」

女たちはクスクスと笑い、オイレン夫人を横目でチラチラと見る。

「じゃあ簡易ベッドならいいでしょ?」

私は空いているベッドをズルズルと引き摺ってストーブの傍に寄せ、そこにオイレン夫人を座らせた。女たちは呆れ果てた顔で私たちを避けるように座りなおすと、わざと聞こえるように話し始める。

「難民はこれくらい図太くなくちゃね。」

「人の旦那を寝取るくらいだものね。羞恥心なんて持ち合わせていないんでしょう。」

「ストーブなんて要らないんじゃない?裸で外にいられるくらいですもの。」

女たちがけたたましく笑うと、オイレン夫人はうつむいて編み棒を激しく動かすのだった。なんと品のない低俗な人々だろう?この人たちは、先週にはスクリーンに映る「親探しニュース」のあどけない子供たちの様子に泣いていたのではなかったか?幼い子供に涙を流す人たちと、ひとりの女性を叩きのめすことに快感を覚える人たち。これらが同一人物とはとても思えないのだった。

 オイレン夫人は買い物先でも、ベルガー夫人の息がかかった店では冷たくあしらわれた。商品があっても売ってもらえなかったり、聞こえよがしに悪口を言われたり。ひとりぼっちで見知らぬ土地に暮らしている夫人が気の毒で、私は彼女の代わりに配給券を持って食糧を調達するようになった。

「まるで魔女狩りだわ。」

オイレン夫人の居間でお茶を飲みながら、私は憤慨していた。

「みんなで寄ってたかって大人げないわ。こんなことが許されていいはずがないわ。」

オイレン夫人は優しく微笑んでお茶を飲んでいたが、やがて淡々とした調子で身の上話を始めた。オイレン夫人はポンメルン地方の小さな町に、小学校教師の夫と幼い娘と三人で暮らしていた。夫はすでに40を過ぎていたので徴兵されないと思い込んでいたが、戦況が怪しくなってくるとソ連の前線に送られて、そこですぐに戦死した。オイレン夫人は終戦後もしばらくその町に残っていたが、ポーランド政府から即刻ポンメルンから退去するよう命令があり、着の身着のまま娘を抱いて西へと歩いた。途中、栄養失調で弱っていた娘が弱り始め、一週間後に死んだ。症状から見て赤痢だったらしい。遺体を抱いたまま炎天下を何日間も歩き続けたが、同宿の難民たちが気味悪がるし、腐敗が始まって臭うと怒るので、やむを得ず街道のブナの木の下に埋めたのだと言う。娘の写真をポンメルンに置いてきてしまったのが残念だ、財産や家などどうでもよいから、娘の写真だけでも取りに行きたいものだ。そう静かに言って、オイレン夫人は雪が降りしきる闇の中に目をやった。ブリキ製卓上オーブンの中の枯れ木がパチパチはじける音だけが、冷え切った居間に響いている。なんという深く重い静寂だろう。マイナス20℃の夜は深々と更けていった。

 12月の第二待降節の日曜日の朝、私たち家族は暖房があまり効いていない教会でぴったりとくっついて座り、少しでも寒さをしのごうとしていた。指先部分を切り取った毛糸の手袋をしたオルガン奏者が讃美歌「ひさしく待ちにし」を弾き始めると、シュルツ牧師が祭壇に上がり、にこやかに信者たちを見渡した。この秋に以前の牧師が退職し、私も懇意にしているシュルツ牧師が新しくここに着任したのだ。もともと難民としてやって来たシュルツ夫妻はまだ若かったが、その美しい容貌に加え、篤実な人柄と高い知性が尊敬を集め、信奉者を増やしていった。特にシュルツ牧師のミケランジェロのダヴィデ像のように美しい顔立ちと甘いバリトンの響きは、女たちの心をすぐにつかんでしまった。日曜礼拝は毎回参列者でいっぱいになり、それは厳冬においても変わらなかった。

 最初に教会員が牧師の指示した聖書を朗読し始めた時、私も他の信者たちもギョッとし、顔を見合わせた。なぜならそれは降臨節とは全く関係のない「ヨハネによる福音書、第8章」の「姦通をした女」の話だったからだ。降臨節にこの箇所を選ぶなんて、聞いたことがない!

 イエスのところに姦通を犯した女が連れてこられた。姦通罪は石打の刑だとモーセの律法にある、と人々は騒いでいる。しかしイエスは「あなたがたのうちで、罪を犯したことのない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と諭して群衆を立ち去らせ、女には「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 と言った。

 シュルツ牧師はオイレン夫人に対する村人たちの仕打ちを、牧師夫人から聞いたに違いない。教会の婦人会までもが、その話でもちきりだったのだ。今日の礼拝にはオイレン夫人もベルガー夫妻も出席していなかったが、あの公民館で意地悪だった女たちや、オイレン夫人に商品を与えなかった店主たちは揃って参加していた。私の心臓の鼓動は高鳴り、身を乗り出してシュルツ牧師の説教に耳を傾けた。

「私たちは自分自身を過信してしまいがちで、自分のことを棚に上げて他人の罪を裁くのが大好きです。しかし、裁く前に果たして自分はどうなのか?同じ罪人ではないのか?と自問できる者こそが、その罪を共に背負おうとする優しさを持ち得るのです。共感しようと歩み寄る瞬間、そこに愛が生まれます。イエス様は女をお許しになりました。それは罪の赦し、そして赦しは愛です。私たちに必要なもの、それをイエス様は私たちに身を挺して教えてくださったのです。それは隣人への愛なのです。」

 私はオイレン夫人を吊るし上げていた女たち一人一人の顔をじっくりと観察した。清廉潔白な敬虔な信者のような顔をして、シュルツ牧師をうっとりと見つめ、うんうんと頷いている女たちを見ているうちに、私は吹き出しそうになった。

 その日を境に、オイレン夫人に対するあからさまないじめはなくなった。シュルツ牧師の説教が功を奏したということは、村の女たちは根っからの性悪というわけではなかったのかもしれない。 私はシュルツ牧師の勇気とカリスマ性に驚き、感謝した。

 12月中旬になると、配給券の食糧はますます少なくなっていき、大人の一日の摂取カロリーは800キロカロリーとなった。野菜、果物、肉類はほとんど配給されなかったため、極度のビタミン不足とタンパク質不足に苦しんだ。当時の9割の子供たちが栄養失調であり、そのうちの3割が重症だった。私の子供たちも始終お腹を空かしていたが、まだ都会よりましだったのは、自分の畑で採れたジャガイモや野菜のピクルスが保存してあったこと、そして酪農を営んでいる大家のエッゲ夫妻から、牛乳を分けてもらうことができたからだ。私も子供たちもかなり痩せてしまったけれど、栄養失調にはならずにいた。

 重病人がこの冬を乗り越えることは、ほぼ不可能だった。特に結核、消化器系の疾病、糖尿病など、力をつけるために栄養が必要な、あるいは特殊な食品目が必要な病人たちが生き延びることは難しかった。

 それは食事の問題だけではなかった。当時、糖尿病患者には豚の膵臓から作られたインスリンを注射していたのだが、ここのところ、どうもその効き目がない。それもそのはず、製薬会社の従業員が空腹に耐えかねて、豚の膵臓を焼いて食べ、その代わりに全く別の薬品をアンプルに入れて病院に送っていたのである。

 この村にも都会の人々が食糧探しに群れるようになり、戦死した夫の形見の品や家宝の骨董品をジャガイモと交換している。しかし物々交換は禁止されていたため、帰りの駅で待ち構えていた私服警官たちに、野菜やソーセージでいっぱいになったリュックサックを取りあげられた。駅のあちこちでは、リュックサックを取り合う悲鳴や泣き声が聞こえたものだ。 それは死にあらがう叫びだ。警察は、なぜあのような残酷なことができたのだろう?

 

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上:石炭輸送トラックから石炭を盗む人々。生き延びるために盗むのは当たり前の時代だった。

 

 この頃のケルンの大司教、ヨゼフ・フリングス枢機卿の説教は、歴史に残るものとなった。

「私たちは今、苦悩の時代に生きています。通常であれば労働によって得られるはずの生活と健康が得られないです。空腹や寒さをしのぐためにどうしても必要と言うならば、非常時の小さな泥棒は罪ではありません。」
大司教らしからぬ説教はドイツ全国で物議をかもし、それ以降、燃料や食料を盗みに行くことを fringsen (=フリングスする) と言うようになった。しかし、この演説は本当はこう続くのだ。

「しかし、それらの盗品は返さなくてはいけません。神はそれを望むからです。」

誰もその退屈な箇所には興味を持たず、いつの間にか省かれ、子供たちは「石炭トラックが通るぞ!フリングスに行こう!」と外に飛び出して行った。

 

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上:ヨゼフ・フリングス枢機卿(1887~1978年)は日本とも関わりが深い。1955年に上智大学の大泉孝学長がケルンを訪問した際、フリングスが「上智大学には法学部がないのはおかしい。神学、哲学、法学、医学がなければ総合大学とはいえない。」と言うと、大泉学長は「金がないからです。」と答えた。フリングスは法学部設立に要する半額を大学に寄付し、二年後に法学部法律学科が設立された。その開学式にはフリングスも招聘され、上智大学は多大な援助を惜しまなかったフリングスに名誉法学博士号を贈呈した。フリングスは独特のユニークで進歩的な教義のため、カトリック的でないと揶揄されることもあったが、彼のグローバルな視野と実行力は現代でも高く評価されている。

 

 普段は学校をさぼって闇市でフリングスしている子供たちも、金曜日だけは必ず登校した。毎週金曜日にはチョコレート30gが子供たちに支給されたからだ。昼食のスープが給仕されている間も、子供たちは大鍋の横に積まれたチョコレートしか目に入らない。闇市で交換することがないように、子供たちは受け取ってすぐにチョコレートを細かく割らなくてはならなかった。戦争中は絵本や映画でしか見たことのなかったチョコレートは、想像以上に素晴らしい味がした。紙から取り出した時の香ばしいカカオの香り!口に入れればほのかな大人っぽい苦みと優しい甘さ!溶けてなくなっていくその瞬間が何とも切ないのだ。子供たちの顔は喜びに包まれ、ひとときの魔法にうっとりと夢を見る。また来週の金曜日になればこの至福の時がやってくる。チョコレートの金曜日が!  

 しかし、ついに送電はストップし、石炭も石油も尽きて学校は休校となり、待望のチョコレートの日もなくなった。水道管は凍り付き、氷を家に運び込んで溶かすしかない。お腹を空かした子供たちは、親に急かされて食べ物を探しに町中をうろついている。家じゅうの窓枠やドアの隙間にコーキングテープを貼り、隙間風や氷から身を守ろうとしたが、そのテープさえ手に入らなくなった。

 年が明けて1947年1月になっても、気温は相変わらずマイナス20℃のままだ。

 この冬はドイツだけではなく、ヨーロッパ中の人々に悲しい記憶を残した。イギリス、フランス、イタリア、オランダも、何度も押し寄せる長い寒波に苦しみ、最低気温はマイナス28℃を記録した。ドイツでは数十万人が、ソ連にいたっては200万人が餓死、あるいは凍死した。凍死は苦しい。体温が15度以下になると、人は意識を失い、筋肉と関節が硬直し、やがて心臓は動きを止める。このように死んだ者は、ほとんどが屋外ではなく、冷え切った室内のベッドの上だった。死者の数がはっきりわかっていないのは、「凍死」、「餓死」と死亡証明書に医師が書き込むことはまれで、大抵は肺炎、栄養失調、風邪、老衰などの別の病名が使われたことによる。

 無数の死体が最長四ヶ月も死体安置所に放置されたのは、土が凍って埋葬が不可能だったからだ。三月下旬になって、やっと土にシャベルが食い込むようになり、全国の墓地で毎日、埋葬が執り行われた。
   

 

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上:全国いたるところで抗議デモが行われた。「石炭が、パンが必要だ」

 

 東プロイセンから引き揚げたとき、私たちはマイナス30℃という極寒の中、馬車の幌の中で震えていた。食べ物も熱いお茶もない。赤ん坊のオムツも替えられなければ、ミルクを与えることもできない。そんな体験をした私たちでさえ、この冬は耐え難いものだった。食糧がジャガイモ一個とパン一枚という毎日に、決して慣れることはない。しかし、最も辛いのは、空腹で泣き叫んでいる子供たちに何もしてやれないことだ。空腹は痛い。空腹は悲しい。 

 こうして1946年11月から1947年3月にかけての 「悪魔の冬」、「飢餓の冬」は、私たちの心に大きな爪痕を残して去って行った。