月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

1910年生まれのヒルデおばあちゃんは、ドイツ激動の時代を生き抜いた人です。戦前から終戦直後までの、彼女の思い出話を綴っています。

ニュー・ルック

 シュルツ牧師の悲しい体験談は、当時は決して特別なものではなかった。戦前のドイツの人口は7千万人、そのうち635万人が戦争中に命を落としたのだから、生き残ったドイツ人の多くが家族の誰かしらを亡くしていた。私自身もまた、両親、弟、姉婿、姪、甥たちを亡くしていたし、夫は生還はしたけれど、心身ともに大きな傷を残して生涯その後遺症に苦しんだ。

 無事に家族のもとに戻った男たちのほとんどがトラウマに苦しみ、戦地で何を目撃したかを家族に語ることはなかった。ウクライナの街角で、リトアニアの森の中で、ポーランドの広場で、殺害されたユダヤ人、パルチザン、捕虜、一般市民、女、子供たち・・・。自分がやったのなら尚更だ。男たちは固い殻を閉ざした貝になり、永遠の沈黙の底へと沈んでいった。 

 1947年の連合軍外相たちによるモスクワ会議では、すべての連合軍管理下にある捕虜収容所に収容されているドイツ人捕虜を、翌年末までに全員釈放すると決議した。しかしソ連だけはドイツ兵捕虜を戦争犯罪人と認定し、釈放を渋り続けた。英軍管理下の収容所に入れられた幸運な捕虜たちは家族に手紙も書けたし、解放されるのも早かった。仏軍、米軍管理下ではドイツ兵に対する虐待や殺害があったが、それでも復讐に燃えるソ連とポーランド管理下の収容所に比べればまだましだった。ここから運良く生きて出られたとしても、その後の人生には大きな影を落とすこととなった。

 例えば、この一見平和な小さな村でさえ悲劇はあった。まだ三十にもならないバウアー夫人は、三人の子供を抱えて戦地から戻るであろう夫を待っていた。しかし戦後二年経っても戦死通知も来なければ、手紙も来ない。次々と捕虜収容所から戻る男たちの中に、夫の姿はない。夫の四年前の休暇で身籠った一番下の息子に夫と同じ名前をつけたものの、夫はその子をまだ一度も見ていない。夫を待つ女たちの中には、「音信不通から3年たてば戦死」とい不文律があった(もちろん戦後十年以上、生還を信じていた女もいたが)。待つことに疲れた女と待つことを心の拠り所にする女。バウアー夫人は三人の子供を抱えてすっかり疲労困憊し、経済的にも緊迫していたので、罪の意識にさいなまれつつ、隣村の五十代の男やもめと一緒になった。大恋愛の末というわけではなかったが、相手の男は酪農業を営む寡黙な心優しい男で、孫のような子供たちをかわいがり、バウアー夫人を大切にした。バウアー夫人は新しい夫と共に20頭の牛と30匹の豚と50羽の鶏と三人の子供たちの世話に明け暮れながら、穏やかな日々に安堵していた。教会の日曜礼拝で会うバウアー夫人は常に新しい夫と並んで座り、通りで見かける一家は誰が見ても幸せそうな家族だった。

 しかし、夫は死んではいなかった。シベリアの収容所からやっと解放され、村に戻ってきたのだ。かつての家を訪ねると、そこには別の家族が住んでいて仰天し、慌てて自分の両親を訪ねた。両親は歓喜に泣きながらも妻と子供のことを話さざるを得なかった。夫は妻の「裏切り」を俄かに信じることができず、両親の制止を振り切って、妻と子供たちの新居を訪ねた。二人の再会がどれほど重苦しいものになったのか、想像するだけで胸が痛む。家族に会えることだけが、地獄の捕虜生活の支えになっていたはずだ。このようなテニスンの『イノック・アーデン』もどきの話はドイツ国内そこら中で発生したが、現実はこの格調高い物語詩とは大きく異なった。無人島から10年ぶりに故郷に戻ったイノック・アーデンは、妻が別の男と幸せに暮らしているのを陰から確認するとそっと立ち去ったけれど、収容所から戻ったこの男は女を罵倒し、止めに入った新しい夫を殴り倒して大怪我を負わせると、泣き叫びながら森に駆け込んで絶望のうちに首を吊って死んだ。

 また、ロッテの同僚クララの話も切ないものだった。クララは難民ではなく、戦時中は勤労兵の夫、二人の幼い子供たちと共にドレスデン近郊の小さな町に暮らしていた。終戦直後、町はソ連軍に占領され、すべての男たちは広場に集められ、「役に立ちそうな技術」を持つ男たちはその場から連れ去られたのだ。クララの夫は電気工であるからそのまま姿を消し、いったいどこへ行ったのか、誰にも聞いてもわからないと首を振る。役所に聞きに行っても門前払いで、クララもその他の夫や息子の行方を探す女たちも、ただ待ち続けるしかなかった。噂ではドイツ軍が破壊したソ連の町を再建するため、強制労働をさせられているらしい、技術者だけを集めたのであれば現地で重宝がられ、殺されることはないだろう、と聞かされて安堵した。それでもクララは女手一つで幼い子供たちを育てなければならない。タイプライターが打てたので、ロッテと同じ職場で事務員として働き、夜中は洋裁の内職をして必死に働きながら夫の帰りを待ち続けた。

「あの人は絶対に生きているわ。私にはわかるの」

クララは夫の生存を固く信じ、職場の机の上には軍服を着て微笑む夫の写真を置いていた。

 それから二年後、本当に夫はクララのもとにふらりと帰ってきた。すっかり痩せて顔には深い皺が刻まれて髪は真っ白、まだ35歳なのに60歳に見えるほどやつれていたが、クララは喜びに泣き叫び、夫の首に抱きついた。しかし夫は力なく棒のように立ち尽くすだけで、クララを抱き締めようとしない。きっと疲れているんだわ。無理もないわ、収容所でロシア人に散々こき使われて、どんなに辛かったことでしょう。

 夫の話を聞いて驚いた。ソ連軍に連れて行かれた先はソ連ではなく、なんとそこから100㎞も離れていないブーヘンヴァルト特別収容所だったと言うのだ。それほど近くにいながら、二年もの間、手紙一枚家族に送ることも許されていなかったと聞いて、クララは冷酷なロシア人を憎んだ。劣悪な環境、日常的な拷問、飢餓。戦時中はナチスドイツがソ連兵捕虜たちに対して、同じ収容所で同じことをしていたことなぞ、クララは知る由もない。クララは子供たちを呼んで、さあ父さんよ、と抱かせようとしたが、3歳と5歳の子供たちは父親の顔をすっかり忘れていて、恥ずかしそうにクララのエプロンを掴んでもじもじしている。二年ぶりの家族団らんは二年前とは大きく異なり、緊張感漂う何とも居心地の悪いものになった。夕食の後、子供たちをベッドに送って夫婦二人きりになると、夫は話があると言って深刻な顔で切り出した。

「離婚してほしい」

クララは訳もわからず、ただ唖然と夫の顔を見つめていると、夫は滂沱の涙を流しながら声を震わせた。

「収容所での毎日がどんなだったのか、君にはわかるまい。ろくな食事もとれずに働かされ、倒れたら鞭で打たれて気を失って、バケツの水をかけられたんだ。どうせ生きては帰れないと自殺を考えていた時に、同じ収容者の女性と知り合って、僕を救ってくれた。お互いに励ましあい、慰めあっているうちに愛情を抑えきれなくなったんだ」

ブーヘンヴァルト特別収容所の2万8千人の収容者のうち1000人が女性収容者であり、そこでお互いの苦労を慰め合う男女も多かった。クララはあまりの驚きに茫然自失し、やがて泣き叫んだ。

「何をねぼけたことを言っているの?私はあなたの帰りをずっと待っていたのよ。必死に子供たちを育てながら!」

「申し訳ない、クララ。あの辛い時期を彼女なしでは乗り越えることが出来なかったんだ。彼女も同じだ。お互いが必要なんだ」

最後の言葉がクララを打ちのめした。私だってあなたが必要だわ。でもあなたは私が必要ではないのね。その言葉を飲み込んで、膝の上に置かれた自分の握りこぶしをじっと見つめ、はらわたが捩じあげられるような痛みにうめき声をあげそうになった。そうして夫は眠っている子供たちの額にキスをすると、泣き崩れている妻に別れを告げて闇の中へと消えていった。ロッテはこの話をこう締めくくった。

「クララの悲しみようは見ていて私も辛かったけれど、それでも今では立ち直ってしっかり働いているのよ。驚いたことに、前のご主人のことも今では少しは理解できると言うの。絶望のどん底から彼を救い出してくれた女性がいたなら、その人と添い遂げたいと思うのは自然なことなのかもしれないって」

私はクララの寛容さと強靭な精神力に感服し、それと同時に切ない気持ちをぬぐえなかった。と言うのも、机の上の夫の写真は片付けられることなく、ずっとそのままだったからだ。

 

f:id:ritsukoguenther:20180802064821j:plain

 上・下:捕虜収容所から帰還した夫を迎える妻。

f:id:ritsukoguenther:20180711184932j:plain


 しかし、女たちは泣いてばかりもいられない。子供たちを食べさせなければ!昼間は懸命に働き、意地の悪い上司や気の利かない同僚たちをいまいましく思い、帰宅すれば子供のテストの点数に怒りは沸点に達する。夜中には息子のズボンのカギ裂きを縫わなければならないし、そろそろ古いセーターをほどいて子供たちにマフラーや手袋を編まなくては。てんてこ舞いの日常は、戦死した夫を悼んだり、自分たちを見捨てて出て行った夫を憎んだりする余裕を女たちに与えなかった。

 

f:id:ritsukoguenther:20180710184217j:plain

上:当時の選挙ポスター。「やっとまた買い物が出来る」、「自由でより良い未来のために」 と書かれているが、そこに夫の姿はない。戦争未亡人か、捕虜収容所から戻るのを待っているのか。
 

 それでも忙しい合間を縫って、女たちは少しずつ人生を楽しむ術も見出していた。そのひとつがファッションだ。戦時中は堅苦しいストイックな服装を強いられ、終戦直後は空腹と栄養失調と厳しい冬との闘いで着飾ることなど論外だった。

 それが1947年になって私たちを感嘆させたのが、クリスチャン・ディオールの「ニュー・ルック」である。丸い肩、細く絞ったウェスト、女性的な身体の線を強調した上半身、たっぷりと贅沢に布を使ったAラインのフレアースカート。女たちは雑誌を切り抜き、同じデザインの服を縫おうと躍起になったけれど、いかんせん布地が手に入らない。それでも闇市で布地や古着を探し、少しでもディオールに似せようと手を替え品を替え、ひらすらミシンをかけた。

 ニュー・ルックは女たちに夢を与え、陰鬱な現実から解放し、着飾る喜びを思い出させた。これでパリのマダムのように街を歩くのだ!裕福な女は150ライヒスマルクで本物のニュー・ルックを手に入れ、町を闊歩し、道行く女たちの羨望の眼差しを集めた。私もシュレスヴィヒの繁華街で本物のニュー・ルックを着た淑女を見かけたときは、立ち止まってうっとりと見惚れたものだ。

「ああ、なんてエレガントで美しいのかしら!」

この奥方は洋服に150ライヒスマルクを払うことが出来るのだ。150ライヒスマルクと言えば、当時の一カ月分の平均収入である。ショーウインドーに映る田舎臭い服を着た自分が目に入らないよう、私は慌ててその場を去り、闇市で使い古したグレーの兵士用セーターを買い付ける。

 家に戻ったら買い付けたセーターの身頃や袖をハサミで慎重に切り離し、毛糸を一本一本引き抜いて、結んで繋ぎながら毛糸玉を巻いて行く。この気の遠くなるような作業は、家族総動員で行われた。今度はそれを椅子の背にクルクルと巻きつけた後、水を吹き付ければ翌日には縮れた糸が真っ直ぐになっている。再び毛糸玉に巻き付け、やっと子供たちのセーターを編むことが出来る。灰色のセーターは軍隊を思い起こさせるということで禁止されており、毛糸は他の色に染色されなければならない。赤ビート、赤キャベツ、たまねぎの皮、タンポポ、ニワトコの実、胡桃など、田舎にいれば染料には事欠かない。煮出した液を使い、ボロボロだった中古のセーターはワインレッドや鮮やかな赤の美しいセーターに生まれ変わる。出来上がった物を着ている子供たちを眺めている時の達成感は、150ライヒスマルクのニュー・ルックを着ている奥方にはわかるまい、と負け惜しみを言ってみる。

 

f:id:ritsukoguenther:20180707042026j:plain

上:1947年にクリスチャン・ディオールが発表した「ニュー・ルック」によって、女たちは再び着飾り始めたため、平和の象徴とも言われた。世界中で似たようなデザインの服装が流行した。

 

 ある日、心優しいトニおじさんがどこからか国民ラジオを手に入れて、私達に譲ってくれた。国民ラジオとは、かつてナチス政府が大量生産させた安価なラジオ受信機で、これを使って国民に向けたプロパガンダニュースを放送していたのだ。私たちも東プロイセン時代に全く同じものを持っていた。

「こんな古いラジオでも無いよりはましだろうよ。もうヒトラーやゲッベルスの叫び声は聞こえてこないから安心さ。」

私達は飛び上がって喜んだ。子供たちは何でも叶えてくれるトニおじさんに抱きついた。

「わーい!ラジオだ!ラジオだ!トニおじさん、ありがとう!」

イギリス軍が新しく創設したハンブルグ・ラジオ局の流す最新の流行歌、ジャズ、スウィングは、新しい時代の到来を感じさせた。戦時中は「ネガー音楽」は禁止されていたから、久し振りの軽快なリズムに、自然と身体が動き出す。義母のお気に入りは、女優マリア・アンダーガストの歌う「マリアンドゥル」で、ラジオから流れてくるたびにうっとりと歌ったものだ。

  ヴァッハウから来たマリアンドゥル、アンドゥル、アンドゥル

  かわいい名前 愛の言葉 

  僕の心をつかみ どこにも行かせない

  若い男が愛を語れば 詩が生まれるのさ

なんとも陳腐な歌詞だが、それでも祖国への忠誠とか民族の誇りとかいった言葉はどこにもないことに私たちは安堵した。

  マリアンドゥル、アンドゥル、アンドゥル・・・

一日中、義母の調子っぱずれな鼻歌を聴いているのは些か辛いものがあったが、トニおじさんのおかげで私たちの生活は著しく変わり、再び戦前の明るい日々を思い起こさせてくれた。こんなちっぽけな受信機が、私たちに生きる希望を与えてくれたのだ。

 

f:id:ritsukoguenther:20180719171140j:plain

上:マリア・アンダーガストのレコードジャケット。主演映画で歌う『マリアンドゥル』が大流行した。

 しかしラジオが私たちにもたらすものが、常に明るい希望に満たされていたわけではない。ナチス大物を裁くニュルンベルグ裁判が終了した後、米軍による「ニュルンベルク継続裁判」と呼ばれる12の軍事法廷が引き続き審理され、医師、法曹、親衛隊などが法廷で裁かれる様子を、連日、ラジオは伝えていた。 

 私が最も戦慄を覚えたのは、「医師裁判」で明らかになっていった強制収容所の人体実験についてである。医師たちはユダヤ人やポーランド人の収容者たちをモルモットと呼び、思いつく限りの残酷な実験を行っていたのだ。内臓を取り出し、皮膚を移植し、双子の上半身を接合して人工的にシャム双生児を作り、注射で眼の色を変え、細菌を注射し、氷水に漬け込み、毒ガスを吸わせ・・・悪魔だってここまで残虐なことは出来まい。そして医師たちはこう繰り返した。

「医学の発展のためだと上から言われていたのです」 

「ドイツ兵をマラリアやチフスから救うため、薬品開発は焦眉の急を要したのです。葛藤に苦しみながら、やむを得ず行っていました」 

 驚いたことに、医師の中にはヘルタ・オーバーホイザーという女医もいた。オーバーホイザーはラーヴェンスブリュック強制収容所の医官で、極端な状況下における兵士の凍傷や怪我の治療法を研究していた。そのためには同じ状況下で人体実験を行う必要があったのだと言う。まず、被験者(収容者)に爆弾による怪我に似せた創傷を与えるため、足の脛などの肉を削り、腐敗菌を含む様々な細菌、木片、ガラス片などを埋め込む。その後、患部にサルファ薬などの薬品を塗布、注射、服用させて経過を観察するのだ。この実験で少なくとも60人の被験者が実験中に、あるいは数年後の後遺症で命を落とした。これらの実験の責任者はカール・ゲプハルト医師(絞首刑)で、その助手の三人のうちの一人がこのオーバーホイザーだった。実験のあまりの残酷さに次々と助手は辞めていったが、オーバーホイザーは最後までこの「医療研究者としての任務」を遂行した。その任務とは、女性被験者の選抜(ほとんどがポーランド女性の政治犯だった)、手術の助手、実験開始までに怪我を最もひどい状態までに悪化させること、妊娠8ヶ月から9ヶ月の妊婦の掻爬手術、新生児の殺害、実験後の被験者の多くをガソリン注射によって殺害すること等々。裁判でオーバーホイザーは消え入りそうな震える声でこう釈明した。

「すべての実験は、10万人の負傷兵を救うためだったのです」

「収容所で行われていた殺害を知りませんでした。今初めて知りました」

「苦しんでいる収容者を、注射によって安楽死させたのです。私は女性です。残酷なことが出来るはずがありません」

 

f:id:ritsukoguenther:20180716194048j:plain

上:医師裁判で判決を聞くヘルタ・オーバーホイザー。懲役刑20年は10年に減刑され、1952年には模範囚として釈放された。結果的には懲役期間は5年間のみだった。オーバーホイザーは医師免許を剥奪されることなく総合診療医として復職していたが、1956年、偶然ラーヴェンスブリュッケ収容所の生還者がオーバーホイザーが診療しているのを目撃し告発、オーバーホイザーは診療所を解雇され、医師免許は剥奪された。オーバーホイザーはこれが不当であると訴訟を起こしたが敗訴し、医師としての復職は叶えられなかった。この訴訟はラーヴェンスブリュッケ元収容者たちの抗議運動によって、国際メディアも大きく取り上げた。

 

 女だから残酷なことなど出来るはずがない。その弁明が矛盾撞着はなはだしいことを、私たちはすでに知っていた。と言うのも、継続裁判より前のベルゼン裁判で、収容所の元女看守たちの残虐行為が次々と暴かれていたからだ。中でも元看守イルマ・グレーゼの悪行の数々を聞いた時には吐き気がしたが、新聞の写真でその華やかな美しさを見た時には俄かに信じることができなかった。本当にこの可愛らしい女性が?連合国の捏造ではないのか?
 

 f:id:ritsukoguenther:20180718073426j:plain

上: イルマ・グレーゼ(1923年 - 1945年)は、アウシュヴィッツとベルゲン・ベルゼン強制収容所の最も残忍な看守として悪名高い。囚人に鞭を振るい、犬を噛みつかせて大怪我をさせることで快感を得ていたという。ナチス裁判では最も若い22歳で絞首刑となった。 

 

 この医師裁判で、医師たちによる安楽死政策「T4作戦」が白日の下にさらされた時、私の背筋が凍り付いた。エルビングで小児麻痺のマルティン少年が連れ去られ、死んだわけがやっとわかったのだ。ナチスの優生学を信奉する医師たちは、障害者を「生きる価値がない」と判断し、注射や毒ガスで抹殺していた。生かすことでも治すことでもなく、殺すことを任務としていた医師たちが、こうしてアメリカ軍事裁判で断罪されていった。「上からの命令に服従せざるを得なかった医師たち」の弁護人が主張するには、被告人の行為は「当時の法に則っており、不治の病に苦しむ患者の救済であると信じて行った」ものだそうだ。マルティンの両親はどんな気持ちでこれを聞いたのだろう?一人息子の死からすっかり塞ぎ込み、生きる気力を失っていた彼らは?そもそも過酷な引き揚げを生き延びることができたのだろうか?マルティンの母親が息子の突然の訃報に慟哭し、犬の遠吠えのように「ウォーン、ウォーン・・・」と泣き叫んでいたことを、昨日のことのように思い出す。 

 1943年から始まったブラント作戦も、T4作戦に続くナチス優生学に基づく殺戮計画として国民の知るところとなった。当時、ナチス政府の予想を裏切って戦争は長引き、傷病兵と激化する空襲による怪我人は増加の一途をたどったため、病院、野戦病院、代替施設、介護施設ではベッドも薬品も不足していた。傷病兵たちの入院を優先するために、治る見込みのない一般患者を別の施設に移して放置、または殺害し、これをブラント作戦と呼んでいたのである。ブラントとはカール・ブラントというヒトラーの主治医の名で、当時ヒトラーから全幅の信頼を得ており、このT4作戦とブラント作戦の最高責任者となっていた。

 

f:id:ritsukoguenther:20180731184624j:plain

上:ニュルンベルグ医師裁判で死刑判決を聞くカール・ブラント(写真中央。1904年~ 1948年)。ブラントは外科医、ヒトラーの主治医、SS陸軍将校だった。35歳で心身障害者と重病者安楽死計画「T4作戦」の最高責任者に、38歳で保健衛生省の最高責任者となり、一般市民と兵士の医療制度を決定する権利を獲得した。強制収容所での人体実験には直接参加していなかったが、マラリア、A型肝炎などに関する人体実験の実施を要請していた。39歳で医学界の最高責任者に任命された。

 

 ニュース映画で見る裁判所でのブラント医師は眼光鋭い美男子で、高身長の彼が背筋を伸ばして淡々と最終意見陳述をする様子は高貴な教養人の風情だ。死刑判決を言い渡されている間も全く顔色を変えず、同時通訳のヘッドフォンを頭から外して隣の米兵に渡すと咄嗟に両手で髪の乱れを直し、颯爽と法廷を後にした。誇り高い軍人の家に生まれ、ドイツ最高の教育と最先端の医学を学び、とんとん拍子に出世して三十代でドイツ医学界のトップに君臨したナチエリートは、首に縄をかけられる直前、こんなシニカルな捨て台詞を残している。

「この軍事裁判はアメリカの政治的復讐だと私は確信している。アメリカが広島と長崎で犯した人類史上最も凶悪な犯罪など、彼らの最上級のモラルの陰に隠蔽できるほどちっぽけなことなのだ」

 ブラントの死後、13歳の息子カール=アドルフに宛てた処刑直前の手紙が公開された。私を含めた多くの者がそれを読んで混乱したのは、それが父親としての愛情に溢れた温かい手紙だったからだ。本当にT4作戦の最高責任者がこれをしたためたのだろうか?以下がその手紙である。

 「愛するカール=アドルフ!おまえの誕生日に、誰よりもたくさんの愛を込めて、心からのおめでとうを言うよ。神の愛が限りなくおまえの人生に降り注ぎますように。

 愛するママがおまえを産んだその瞬間、私はおまえのために存在するのだと確信したんだ。ああ、なんて小さな赤ちゃんだったんだろう!ママと私は変わりばんこにおまえを抱っこして、喜びに浸ったものだ。だんだん大きくなって、歩き始め、怖がったり笑ったりして感情を見せるようになった。病気になった時にはママも私もとても心配し、やがておまえが再び笑顔を見せるとほっと安心したものだ。喜びと愛に溢れた子供時代を送れるように、健康で丈夫でいてくれるように、それだけを願っていたよ。でも心配は無用だった。なぜなら私たちがおまえに願ったものを、おまえは自ら探し求めていったから。これからも元気いっぱいに遊び、独特の感性で自分の道をまっすぐに歩んでいってほしいんだ。そのために私は協力を惜しまなかったし、これからも協力したいんだ。

 戦争になり、苦境と抑圧の時代が始まってからも、私たちも他の親と同様、おまえの子供時代が出来る限り満ち足りたものとなるように祈っていた。優しいママがどれほどおまえのために心を配り、自分を犠牲にしていたことか。ああ、愛するカール=アドルフ、おまえが大人になったら、それが理解できるだろう。

 今でもベリッツ(※ドイツの地名)での日々を懐かしく思い出すんだ。辛い仕事の記憶はすっかり色褪せてしまったけれど、私たち三人と忠実な黒いアッソ(※犬の名前)との素晴らしい日々は鮮明に覚えているよ。今でも目を閉じれば、おまえが細長い小さな部屋で遊んでいるのが見える。それから森の見える大きな窓の前で跳ね回っている様子もね。一緒に学校まで歩いたね。この時代より幸せな時があっただろうか?カール=アドルフ、この美しい思い出を記憶にとどめ、時々ママと語り合って欲しいんだ。このベリッツでの日々から一転し、私は苦しい決断を下さなくてはならなかった。仕事のことだよ。でもこの平安から引き離された苦しみの中にいても、ベリッツの私たち三人の美しい思い出が目の前に現れて、私を救ってくれたんだ。

 深刻な話はやめよう。おまえも十分に苦しんできただろうから。それを思うと辛いんだ。ああ、愛するカール=アドルフ、おまえを守ることができたなら。しかし他に方法がなかったのだよ。逃げればよかったのかもしれない。もちろん褒められたことではないけれど。しかし、それは出来なかったんだ。わかるかい?カール=アドルフ、私には責任があったんだ。部下たちを見捨てるわけにはいかなかったんだ。私なしで、彼らはどうしたら良いのだろう?誰かが責任を取らなくてはいけないんだ。 だから私がそれをするのだよ。わかるよね?おまえに正しいと言ってほしいんだ。

 わかってもらえるかな、カール=アドルフ、人生にはどうしても抗えないものがあるんだ。人知を超えた神の御言葉があって、すべての人間はそれに従わなければならないんだ。誠実さ、勇敢さ、善良さ、愛を忘れないでほしい。私もそうであったように。

 いつの日か私がしたことが間違っていなかったと、それどころか立派なことであったと評価する者が出てくるかもしれない。心配しなくていいんだ、カール=アドルフ、私は誇りをもって死んでいくから。世界は何も変わらないんだ。おまえがまだ小さい頃、私に言ったことがあったね。「人はみんな死ぬんだから、死ってそんなに悪いことじゃないよね。」と。

 目に見えないものは存在しない、そう決めつけることは良くないことだ。ああ、息子よ、それは違うんだよ。私は善き霊となっておまえのそばにいるし、おまえが心を開けば、私がそこにいることを感じることだって出来るんだ。でもおまえの心を辛くするようなことはしないよ。私は優しい存在でありたいんだ。おまえとママを愛しているんだよ。ママと一緒に幸せでいてほしい。共にひとつの心、ひとつの魂を持つように。そしてやがておまえたちの人生に伴い、援助してくれる人々や友だちと共に。

 未来は茫洋として捉えどころがないだろう。この時代は厳しく、人々は自分の狂った価値観や偏見を押し付けてくるかもしれないし、そこには闘争と復讐心が渦巻いているかもしれない。カール=アドルフ、そういった人々とは関わってはいけないよ。彼らは人を下へ下へと引きずりおろそうとし、勝手な先入観で判断するからね。おまえの心には神がいなくてはいけない。

 私はおまえのいる世界から遠く離れた世界に行こうとしている。でも、わかってほしいんだ。私はおまえたちの中に存在できるんだよ。それを確信しているんだ。私は影となって、おまえの近くにいるからね。まるで生きているみたいに。

 私のかわいいカール=アドルフ、おまえの名前についても謝らなくてはいけないね(※アドルフ・ヒトラーと同じ名前を付けたことについてと思われる)。負担を与えてしまったね。しかし、おまえは私の息子だ。おまえはおまえでしかないんだよ。

 私の願いをもう一度繰り返すよ。優しいママのそばに、ずっといてあげてほしいんだ。そして、いつかおまえが素敵な女性と一緒になる日がきたら、その女性に優しくしてあげなさい。子供ができたら、おまえと私がとても仲良しだったことを伝えてほしい。私はいつもおまえたちのそばにいるよ。自信をもって、自分に正直で誠実であり続けなさい。おまえが世界を理解しようとすれば、世界はきっとおまえを受け入れることだろう。」 

 

f:id:ritsukoguenther:20180730205114j:plain

 上:カール・ブラントとひとり息子のカール=アドルフ。カール=アドルフは後にデュイスブルク労災救急病院の医長となった。