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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

春の到来

 村に春がやって来た。地中海沿岸からの長い旅を終えた渡り鳥、ムクドリ、セキレイ、クロジョウビタキたちが、恋人を探し、嬉しそうにさえずっている。そろそろコウノトリたちもやって来て、家々の煙突の上に巣作りを始めるだろう。草原で飛び跳ねる子馬を、母馬がやさしく見つめている。白い木蓮が一斉に花開き、そこかしこからライラックの香りが漂ってくる。村人の顔も、心なしか嬉しそうだ。

 それなのに、フーゴがマグデブルグから送ってくる手紙は相変わらず鬱々たる内容で、読まされる私は、やるせない気持ちになっていた。いまだ町じゅうに瓦礫の山があり、工事現場だらけで埃っぽいこと、住居が著しく不足し、家族用アパートが全く見つからないこと、配給される食料だけでは足りないので闇市に行くのだが、高くてそうそう買えないこと云々。とにかく空腹だ、とにかく金がない、金がない、金がない・・・。挙句の果てに、私がエルビングに置いてきた高価な切手コレクションの価値を延々と書き連ねる。

「あれさえあれば、郊外に新しい家を建てて、ゆうに3年は十分に食べていくことが出来たはずだ。全く惜しいことをした。」

「あれさえあれば」とどんなに切歯扼腕したところで、無いものは無いのである。

 私も最初のうちは、フーゴがベルリン市街戦や捕虜生活でどんなにか辛い思いをしたことかと同情し、律儀に返事を書いていた。シュルツ牧師に言われた通り、他愛ない日常生活を綴り、子供の成長ぶりを明るく伝えるように心を砕いていたのだが、どうもあまり効果がないようだ。しかも残念なことに、フーゴは極端な筆まめで、毎日のように不平不満、恨みつらみをご丁寧に報告してくる。いい加減にこちらも辟易し、そのうちに手紙の封を見るだけで、私の胃はチクチクと痛み始めるようになった。沈鬱な顔をした私を見て、ヴァリーはいたずらっぽく微笑みながら言った。

「奥様、それじゃ私が読んでおきますよ。私にはしょせん他人事ですもの、愚痴なんて読み流せます。大切なことが書いてあったら、お知らせしますから。」

それは名案だ!もはや家庭の内情も知り尽くしている、機転の利く家政婦ヴァリーに任せておけば間違いない。次の手紙からはヴァリーが私の代わりに読むようになり、私のキリキリと痛む胃も、やっと平穏な日々を取り戻した。ひとつだけ難点があるとすれば、フーゴとの往復書簡の内容が、かなり辻褄が合わなくなってしまったことだろう。

「苦しい。死んでしまいたい。生きていてなんの価値があるのか。」

「春って素敵ね!先週末はリンゴのケーキを焼いて、家族でピクニックに行きました。白樺の木の下で食べるケーキの美味しいこと!アニタはデイジーでかわいい花冠を作っていましたよ。」

「職場には戻れたが、同僚たちのほとんどが戦死した。それだけでも辛いのに、上司はアルコール依存症になってしまい、廃人のようだ。職場がどんなに憂鬱な場所になっているか、君は想像できるだろうか?」

「昨日は映画館で話題の映画『殺人犯はここにいる』を観ました。主人公演じるヒルデガルド・クネフの美しいこと!あら、私と同じ名前なのに、随分差が出ちゃったわね。」

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上:一世を風靡したドイツ映画『殺人犯はここにいる』は、強制収容所から生還した女と、戦地でのトラウマに苦しむ男の物語である。男はポーランドでの民間人殺戮の命令を下した軍曹を殺そうと計画する。1945年、実際にベルリンの瓦礫の中で撮影されたので、映像は迫力があり、リアルだ。

 

 ある日、私が買い物から戻ると、ヴァリーがフーゴからの手紙をテーブルの上に広げたまま、大粒の涙をこぼしてしゃくりあげている。

「ヴァリー!いったいどうしたの?フーゴに何があったの?」

私が青くなって尋ねると、ヴァリーは、

「フーゴさんたら、ひどいんです。『のうのうと幸せに暮らしている君には、僕の苦悩はわかるまい。いい気なものだ。』なんて書いてくるんです。奥様がどれほど苦労されてきたのか知らずに愚痴ばかりのフーゴさんの方が、よっぽど『いい気なもの』じゃありませんか!」

といきり立っていた。やれやれ、「しょせん他人事だから読み流せる」などと豪語しても、結局、感情移入をしてしまう、心優しいヴァリーであった。

 そうして陰気臭いフーゴからの手紙は誰にも読まれなくなり、つまんで棚の隅に積み上げられていくのだった。 

 それぞれが、それぞれの悲しみを抱えて生きていた。フーゴの悲しみを「わかるわ。」と書くのは簡単だが、本当にわかるのは本人だけだ。私には私の悲しみがあるけれど、それを子供たちに見せるわけにはいかない。心の片隅においやって、デイジーを摘み、リンゴのケーキを焼き、歌いながら子供たちと手をつないで散歩をし、春の到来を喜ぶのだ。

 村に一年もいれば、村人とも随分と仲が良くなり、井戸端会議にも花が咲く。多くの女たちは、戦地から戻って来た夫にいらだっている様子だった。

「まったくうちの夫ときたら、抜け殻のようになって、何もしないんだよ。戦地で大変だったことはわかるけど、こっちだって生きて行かなきゃならないんだ。いい加減にしてもらわなくちゃね。」

「まったくだよ。せめて夜くらいは頑張ってほしいもんだけど、そっちもすっかりご無沙汰よ。うちの子だって兄弟が欲しいだろうに、もうあきらめたよ。」

猥談にどっと笑い、憂鬱を吹き飛ばす。村に来たばかりのころは、こうしたあけすけな会話に呆れかえっていたものだが、いつのまにか私も一緒に笑うようになっていた。

 女たちの毎日は忙しい。畑を耕し、少ない食材でいかに子供たちの空腹を和らげるかを工夫し、町に出て掘り出し物を探し、子供たちに洋服を縫い、夫をどなりつけ、井戸端会議に参加しては鬱憤を晴らす。

「昨日は夫の首根っこつかんで畑に連れて行ったよ。いつまでも戦友の喪に服しているんじゃないよってね。」

でもシュルツ牧師は、そっとしておくのが良いと言っていた、と私が言うと、女はフンと鼻を鳴らし、

「冗談じゃないよ。いつまでも甘やかしておくわけにはいかないよ。友を悼むのは結構だが、畑を耕す腕は休めないでほしいね。」

と容赦ない。いったいどちらが正しいのだろう?私はすっかり村の女たちに感心していた。

 ニュルンベルグでは、去年から国際軍事裁判が続いていた。戦争犯罪に対する裁判は史上初であり、原告は連合軍の他15ヵ国に及んだ。ヒトラーとヒトラーに最も近い高官たちはすでに自殺しており、国外に逃亡した高官も多かったので、最終的には24人が裁かれ、12人のナチス高官に死刑判決が下された。

 しかし、ホロコーストで人体実験を依頼した大学医学部教授たちは裁かれることもなく、また、罪なき人々をギロチンに送ったナチス法曹界の重鎮たちも無罪放免、彼らは何食わぬ顔で戦後もその世界の第一線で活躍し続けた。

 あのスターリングラードでヒトラーに気に入られようと降伏を拒み続け、私の弟ハンスを含む200万人以上の若者たちを死に追いやったフリードリヒ・パウルス参謀本部部長もまた、お咎めなしどころか、ソ連で共産主義者に見事に生まれ変わり、贅沢三昧な余生を送った。

 逃亡、自殺、言い逃れ、責任転嫁、虚偽。ニュルンベルグ裁判は混沌を極めたが、正義を振りかざす連合軍を前に、ドイツ側には反論する余地などあるはずもなく、ただ黙って裁きを受けいれるしかなかったのだ。始めたのはドイツ、残虐行為を働いたのもドイツだ。たとえ何隻ものドイツ難民船がソ連の潜水艦に撃沈されたとしても、たとえソ連管理下の捕虜収容所でドイツ人捕虜たちが大勢死んでいるとしても、たとえ何百万人というドイツ女たちがソ連兵に強姦されたとしても、「正義」を前にすれば、「その程度のこと」でソ連に対して声を上げることは、許されるはずがない。

 世界がニュルンベルグ裁判に注目し、都会では女たちが瓦礫を片付けている間、私は新緑の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、トウモロコシ畑を耕していた。トウモロコシの根は深く、まっすぐに伸びていく。土を深めに耕し、そこに肥料を施し、種を撒く。春の土は生命力がいっぱいだ。触れているだけで、私も元気になっていく。

「ヒルデ!」

遠くから聞き覚えのある女の声がする。振り向くと、初老の女がこちらに向かって手を振っている。近眼の私は必死に目を凝らすのだが、誰なのか全く識別できない。そのすぐ後ろから来る男は・・・紛れもない、兄のワルターではないか!痩せてはいるが、間違いない。

「おお!神様!」

私は鍬を放り出すと、そちらに向かって走り出した。近付くにつれて、その初老の女と思っていたのが姉のロッテだとわかった。すっかり痩せて、髪は真っ白、顔は赤茶けて皺だらけになっていた。まだ37歳なのに!私たち三人は抱き合い、激しく泣いた。無事だったのだ!生きていたのだ!これ以上の喜びがあるだろうか?

「なんてこと!来ると知っていれば、駅まで迎えに行ったのに!」

「手紙に書いたわよ。読んでないの?」

棚に積み上げられた手紙を思い出した。どうやら「陰気臭い手紙」の中に、ロッテからの手紙も紛れ込んでしまったようだ。

 私たち三人が会うのは、弟ハンスの葬式以来だ。ワルターは義眼のため兵役免除になっていたが、シュトゥットガルトの軍需工場にいた。空襲で焼け出され、家族と共に郊外の村に住んでいたという。やはりライプチヒに住むフーゴの姉に問い合わせて、私の居所がわかったのだった。

「母さんは?子供たちは?どこにいるの?」

涙を拭きながら、ロッテに尋ねた。

 そうして私は、ロッテの長い話を聞くことになる。