月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

1910年生まれのヒルデおばあちゃんは、ドイツ激動の時代を生き抜いた人です。戦前から終戦直後までの、彼女の思い出話を綴っています。

シュルツ牧師は語る4.東部戦線にて

 「この戦争はクリスマスまでには終わるだろう。」

 独ソ戦が始まった1941年夏頃、私たちは何度この言葉を口にしたことでしょう。今回もポーランド侵攻やフランス侵攻の時と同様、あっという間の電撃戦(*敵戦線を迅速に突破すること)で、ドイツ軍は再び勝利の栄冠を獲得するに違いないと。

 なるほど、当初、ソ連軍は我々の最新鋭の兵器と鍛錬された兵士に怖気づいているように見えました。ドイツ軍は153師団、ドイツ兵300万人、その他枢軸国のイタリア、フィンランド、ルーマニア、ハンガリー、スロバキアからの兵士が60万人、そして3600輛の戦車、3000機の爆撃機、大砲・高射砲が7000台投入されていたのです。

 それに対してソ連軍は弱体化していました。と言うのも、1930年代後半のスターリンの粛清により、陸軍は四分の三の優秀な将校を失い、若い兵士たちを訓練し、指揮する軍人が圧倒的に不足していたからです。

 そしてもうひとつ、スターリンは大きな失敗をしています。

 当時、ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲが、日本で諜報活動を行っていました。ゾルゲはもともとドイツ人でしたので、ドイツ紙新聞記者という肩書で在日本ドイツ大使館に自由に出入りし、ドイツ大使や職員、ドイツ軍部関係者から重要な情報を入手していました。ヒトラーが独ソ不可侵条約を無視し、ソ連に奇襲攻撃の準備を始めていること、そしてその正確な開始日時までモスクワに報告していたのです。しかし、スターリンは独ソ不可侵条約を過信しており、このゾルゲ報告を「有り得ない」と無視、防衛戦準備が行われないままにドイツ軍に攻撃されてしまったのです。不可侵条約によってスターリンを油断させ、その隙をついてドイツ軍は快進撃を続ける。ヒトラーの作戦はまんまと成功したわけです。

 こうして予定より少々時間はかかったものの二ヶ月でスモレンスクが、引き続きウクライナの二大都市キエフとハリコフが陥落、我が軍は連戦連勝で向かう所敵なし、もしかしたら冬が来る前に帰還できるかもしれない、などと言って笑っていました。

 

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上:リヒャルト・ゾルゲ(1895年 - 1944年)。ドイツ人とロシア人を両親に持ち、ドイツで生まれ育ち、ハンブルグ大学で政治学の博士号を取得している。第一次世界大戦に従軍した際、多くの戦友を亡くし、自身も重傷を負ったのにもかかわらず、社会上層部の貴族たちは変わらず特権を持ち続けたことから社会主義に傾倒していったという。28歳でソ連共産党に入党し、1933年から1941年の間、日本でゾルゲ諜報団を組織し、スパイ活動を行った。ゾルゲはナチス党員となることでカムフラージュし、フランクフルト紙のドイツ人ジャーナリストという肩書で駐日ドイツ大使館に自由に出入りしていた。大使の絶大な信用を得て私的顧問となり、多くの情報を大使館から入手し、モスクワに送り続けた。1941年、ゾルゲは国防保安法、治安維持法違反の罪で逮捕され、1944年、巣鴨拘置所で処刑された。

 

 ウクライナ人は私たちドイツ軍を解放軍と呼んで歓迎し、どこへ行っても笑顔で手を振ってくれました。ウクライナ人のスターリンに対する憎しみたるや、相当な物でした。1930年代、スターリンの粛清はここでも行われ、多くの反体制派と知識人が処刑され、ホロドモール(*人工的大飢饉。収穫した小麦のほとんどが徴発された。)によって700万人が餓死していたからです。

「ドイツ軍はスターリン政権下の地獄の日々から私たちを救い出してくれた!」

女たちは毎日のようにバター、卵、パン、果物、牛乳、蜂蜜、そして黒海沿岸からの素晴らしい赤ワインを差し入れてくれました。ドイツ兵たちは草の上に寝転がって昼寝をし、美しいウクライナの娘たちと身振り手振りで意思疎通を図り、白いブラウスに細かい刺しゅうを施した民族衣装ソロチカを着て踊る女たちを眺めながら、ワインに舌鼓を打ちました。

 

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上・下:1941年、ドイツ軍を「解放軍」と呼んで歓迎するウクライナ市民。しかし、スラブ民族を劣等民族と考えているヒトラーに、ウクライナ独立は論外だった。

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 戦地では故郷からの手紙がどれほど兵士たちの心を和ませたことでしょう。

 大戦中の野戦郵便の総数は300億通から400億通、そのうちの75%が故郷から前線に向けたものでした。野戦郵便は兵士と家族は250gまでが無料、故郷から戦地への手紙には、5桁の数字と名前だけを記せば、戦地にいる息子や夫に届くようになっていました。その数字は野戦郵便番号といって、兵士の居所をカムフラージュするために作られた所属部隊の番号で、家族にはそれが書かれた葉書や封筒が前もって配られていました。野戦郵便局はすべての部隊の居場所を認識していましたから、手紙や小さな小包は、問題なく戦地に届いていたのです。300億通と言う手紙をすべて検閲するわけにはいきませんから、無作為に取り出した手紙は開封され、政府や戦争に対する「冒涜」、あるいは脱走計画が発覚した場合は銃殺刑です。

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上:戦地から故郷に送られた手紙。

下:故郷からの手紙を読む東部戦線のドイツ兵。

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 休憩地ではもちろん、進軍中であっても兵士たちは手紙を書き、故郷から来る手紙を心待ちにしていました。離れ離れになった夫婦や恋人たちにとっては、愛と憧憬が野戦郵便の主要なテーマであり、共有する思い出と将来設計を語る場所でもありました。

 子供がいる兵士は、家族から送られてきた我が子の写真に目を細めたり、成長ぶりに驚いたりしながら、嬉しそうに戦友に写真を見せて回るのです。野戦郵便は兵士たちに人間性を取り戻す時間を与え、生きる希望を紡いでくれました。

 エリカと両親からの手紙もまた、どれほど私を癒し、慰めてくれたことでしょう。手紙には、政府制作の映画ニュースがドイツ軍の快進撃を華々しく伝えていること、ウクライナで我が軍が一般市民に大歓迎されていること、スクリーンに映し出される軍隊の中に私の姿を探すこと、ソ連軍の守備力は弱小で、これは電撃戦になるであろうと報道されていることなどが綴られていました。それでもエリカは私を気遣ってなるべく戦争の話題を避け、他愛ない日常のことをユーモアを交えてしたためた後に、ゲーテ、ハイネ、ブレンターノ、リルケなどのロマンティックな詩を一篇添えてくれていました。

 

 歌の翼に愛するあなたを乗せて 

 飛んでいきましょう

 ガンジス川のかなたへ

 そこが美しい場所だと知っているから 

 

このハイネの『歌の翼に』で優しい気持ちに満たされて便箋を畳んでいると、横にいたフックス神父が微笑んで声をかけてきました。

「君が羨ましいよ。この時代に一番必要なものは、待つ人がいる、ということだからね。」

フックス神父は妻帯も恋愛も許されないカトリック神父です。もちろん固い決意のもと、信仰の道にすべてを捧げたのでしょうが、彼の人としての孤独を初めて垣間見たような気がしました。

  

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手紙を書く東部戦線の兵士。

 

 9月30日、突然ウクライナでの束の間の休暇が終わりを告げました。モスクワ攻略を目指した「タイフーン作戦」が発令されたのです。モスクワは交通の要所、政治・経済の中心地であるだけでなく、ソ連そのものの象徴であり、モスクワ攻略はソ連攻略を意味するのです。ウクライナでの静養のあとで、すっかり英気を養った兵士たちは、モスクワ攻略も「さっさと終わらせよう!」と意気込んでいました。

 しかし、私たちはロシアの自然の脅威について、あまりにも無知であったことを思い知らされることになります。ロシアに入った途端、私たちが予想していなかった10月の雨季が始まったのです。

 連日の雨がもたらすぬかるみに道を阻まれ、戦車もトラックもオートバイも馬も人間も立ち往生して、進軍計画は大幅に遅延しました。私たちは泥まみれになってトラックを後ろから押したりロープで牽引したりしながら、ノロノロとモスクワに向かって進むのですが、目標移動距離が一日30㎞のところを、たった5㎞から8㎞しか移動できない日が続きました。キャタピラに泥が入り込んで走行不能に陥った戦車は打ち捨てられ、私たちは疲労困憊していました。補給線も泥によって断たれて物資が不足し、食糧を求めて民家を探しても、ロシア政府の焦土作戦により敵軍に利用されないよう焼き払われた後でした。やっと温かく迎え入れてもらえた村はパルチザンだらけ、井戸や兵舎代わりの農家に手榴弾を投げ込まれた部隊もありました。

 この頃、ヒトラーは東部戦線の兵士たちに向けたラジオで叫んでいました。

「東部戦線の兵士よ!同志よ!勝利に向けた最後の戦いが今、始まろうとしている!」

そうだ、これが最後なのだ。雨季さえしのげばモスクワにすみやかに到達し、首都を電光石火の早業で征服できるに違いない。この渺茫たるロシアの大地獲得に祖国は沸き立ち、私たちは胸を張ってそこに帰って行くことだろう。やがて11月に入ると、ぬかるみは霜で固められ、再び順調に進撃が続きました。

 

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上:1941年10月、道は舗装されておらず、ドイツ軍はぬかるみの行軍に苦しんだ。

 

 しかし、ぬかるみより辛いロシアの冬が例年よりも早くやってきました。秋には終戦だと高を括っていたドイツ軍は、極寒に耐え得る防寒装備の準備を怠っていたため、氷点下40度の冬将軍は私たちを打ちのめしました。ドイツ本国では東部戦線の兵士のために、毛皮や厚手の服を集めて東部戦線に送っていたのですが、補給線が断たれていたため、私たちの手元に届くことはありませんでした。

 ほとんどの兵士が冷えからくる下痢に苦しんでいました。長時間裸の下半身を外気にさらすことは命取りになるため、ズボンの肛門部分だけ開閉が出来るように改良して氷の上で用を足すのでした。

「ああ、こんな惨めな姿を恋人が見たら百年の恋も冷めるだろうな。」

そう言って笑っていたのも最初のうちで、次第に様々な深刻な病気に苦しめられることになるのです。

 何ヶ月も体を洗うことはもちろん、着替えることも出来ないため、兵士たちはシラミに苦しみました。多くの兵士がシラミが媒介した発疹チフスに罹患し、高熱と精神錯乱の末に死んでいきました。

 凍傷に苦しむ兵士も大勢いました。特に足の凍傷が多かったのは、ドイツ軍のブーツが長距離の歩行用のみに考案されていたからです。靴底に打たれた金属製の鋲が地面の氷の冷たさを直に伝えたこと、そして足のサイズぴったりにあつらえてあったので、新聞紙や藁などを入れて防寒することができなかったことに起因します。足だけではなく、手袋さえ不足していましたから手の指も真っ黒に壊死し、野戦病院には患部を切断される兵士の悲鳴が一日中響き渡っていました。補給路線が断絶していたので麻薬が足りず、十分効いていなくても追加はできません。看護婦は四人がかりで泣き叫ぶ兵士の四肢を押さえつけ、軍医は容赦なく患部を切り落としていきました。

 マイナス40度の外気に一日中さらされるのですから、低体温症になる兵士が多いのも当然でした。思考力が低下すると、次第に朦朧として酔っ払いのようにフラフラと逆方向に歩き出し、わけのわからないことをブツブツと言い出します。そのままにしておくと、やがて倒れて失神し、不整脈を起こして呼吸が止まるのです。ロシアの雪中戦の過酷さは130年前のナポレオンのモスクワ遠征で私たちの知るところであったはずなのに、あの頃と全く変わらず、戦わずして三分の一以上の兵士が凍死したのです。遺体を埋葬しようようにも、土は固く凍り付いてスコップでは歯が立たないため、やむを得ず氷の上に遺体を置いて上から雪をかけ、私は祈りを捧げました。

  

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上:マイナス40度下ではすべてが凍り付いた。

 

 ドイツ軍が泥や氷と闘っている間に、スターリンは極東に配備されていた軍隊を西へ移動させ、対戦準備を着々と進めていました。

 ドイツ軍が独ソ不可侵条約を反故にして侵攻を開始してからというもの、スターリンは日本から送られてくるゾルゲ諜報団報告の信ぴょう性が高いことを認めざるを得ず、ゾルゲに新しい課題を与えたのです。それは日本軍が同盟国ドイツに協力して、ソ連に攻撃をしかけてくるかを調査させることでした。それと言うのも、満州・モンゴル国境では日本軍とソ連軍が対峙しており、そこで配備されている軍隊を西に移動させるべきか増強すべきかの判断を迫られていたからです。ゾルゲは諜報団の日本人メンバーを近衛内閣に送り込み、御前会議で対ソ戦は行わず、インドシナに艦隊を送って南方へ侵攻することが決定したとの情報を入手しました。こうしてスターリンは対独戦に集中する作戦に打って出たのです。

 スターリンは伝説の将軍、若干45歳のゲオルギー・ジューコフを首都防衛の司令官に任命し、早速、雪中戦の特訓を受けたシベリアの精鋭部隊をモスクワに呼び寄せました。ジューコフの作戦は、ドイツ軍を北と南から包囲し、モスクワへの道を閉ざすことでした。

 

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上:ゲオルギー・ジューコフ将軍(1896年 - 1974年)の傑出したリーダーシップ、明確な理論に基づいた大胆な攻撃、革新的な発想により、世紀の名将軍と謳われ、最高司令官にまで上り詰めた。しかしスターリンはジューコフの名声と人気を独裁政治の脅威と感じ、戦後は左遷された。

 

 疲弊しきったドイツ軍歩兵が、凍った土を焚き火で溶かし、塹壕を掘っていきます。塹壕は敵の攻撃から身を守っただけではなく、吹雪と寒さをここで何とか凌ぐことが出来たのです。歩兵たちが塹壕の中で震えている間、後方の司令部の将校たちは農家を占領し、追い出された住人たちは雪の中を右往左往しているのでした。

 モスクワまであと40㎞というところで、ソ連軍の猛反撃が始まり、ドイツ軍は足踏みをさせられることになります。ソ連軍は万全たる冬装備で意気軒高、次々と無辺際の国土から兵士が集められていったのです。全身完璧な防寒着に包まれ、ブーツは金属製の鋲のない大きめのサイズで、中には藁や綿がしっかりと詰めてありました。スキー部隊とソリ部隊がカムフラージュ用の白い防寒着を着て、雪と氷の中を銃を撃ちながらスイスイと自在に滑走していく姿は、まさしく「白い悪魔」そのものでした。 こうして弱体化していたはずのソ連軍は徐々に盛り返し、その不気味な強靭さ、しぶとさに私たちは震え上がりました。

 

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上:毛皮の帽子、綿入りの上着、厚底の雪靴、綿入りの手袋で完全防寒したソ連兵。

下:ソ連軍スキー部隊。

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 ある時、前方から攻めてくるソ連軍突撃隊が30mほど近くまで接近したのを見て仰天しました。軍服は来ていますが、それは紛れもなく女性部隊だったからです。モスクワ攻防戦に一般市民も駆り出され、女性からなる突撃隊が編成されていたのです。甲高い奇声を上げながら突進してくる女たちに、ドイツ軍は機関銃を容赦なく発射し、女たちはパタパタと雪上に倒れて行きました。

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上:ソ連軍では女性も重要な戦力だった。

 

 そして次にシベリアからの勇猛果敢な精鋭部隊がこちらに攻撃をしかけてきます。ドイツ軍は氷を掘って作った塹壕から機関銃を発射するのですが、倒れても倒れても次から次へと押し寄せてくる無尽蔵のソ連兵たちに舌を巻くばかりでした。モスクワ死守という使命を担っている彼らのモチベーションは相当なものだったのです。

 結局、ドイツ軍は兵力不足からモスクワ入城は果たせず、12月初旬、モスクワから200㎞西のヴャズマ方面への後退を余儀なくされたのです。今度はドイツ軍が占領した土地をソ連軍が奪還するという逆の立場となり、中央軍集団は防衛軍としてヴャズマに留まりました。この頃から、私たちは予感し始めたのです。この戦争は私たちが予測していたものとは全く違うものになりそうだ、と。 

 

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 上:モスクワ攻略を目指し、塹壕からソ連軍を見張るドイツ兵たち。

 

 前線から西に離れた正教会が野戦病院として利用され、私はそこで傷病兵の世話をしていました。次々と兵士たちが運ばれて来ては、この暖房の効かない冷え冷えとした身廊の簡易ベッドに寝かされるのですが、すべてが凍結する塹壕に比べればパラダイスでした。

 クリスマスの晩、何日か振りに温かいスープが振る舞われ、兵士たちは涙を流さんばかりに喜んでいました。食後、私は黄金の祭壇上に蝋燭を灯し、クリスマス礼拝を執り行いました。天使の描かれたイコンは、蝋燭の柔らかな光に包まれ、瞬く間にクリスマスの厳粛な雰囲気を醸し出しました。祭壇横には誰かが森から切り取って来たのでしょう、高さ3メートルほどのモミの木が立てられて、藁で作ったたくさんの星が飾られています。私は聖書を開くと、ヨハネの福音書を朗読しました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

看護婦も兵士も静かに「きよしこの夜」を歌っている時、ベッドに横になったまま参加していた傷病兵たちが、暗がりの中で泣いていることに気が付きました。死と隣り合わせの毎日の中で、こうしてクリスマスをささやかに祝うことが出来る奇跡。そしてこれが彼らにとって最後のクリスマスになるかもしれないのです。悲しく厳粛な聖夜は、深々と更けていきました。

  野戦郵便の配達も途絶え、兵士たちは古い手紙を何度も読み返したり、シラミを潰したりして退屈な時間を過ごしていました。何ヶ月も身体を洗っていませんし、着替えもありませんから、どの兵士もひどい体臭を放っています。中には暇つぶしに空き家を探し回って物資を調達するという危険極まりない仕事を買って出る剛の者もいました。ある兵士は、

「粗末な民家に入って行ったら、タオルがあって、ベッドがあって、皿があって、そこに人間の生活の形跡があったんだ。いったい我々はそこにいつ戻れるのかと考えたら、泣けてしょうがなかった。」

と言って、自嘲気味に笑っていました。何でもない普通の暮らしへの憧憬がどれほど大きいものだったのか、それは東部戦線を経験した者にしかわからないでしょう。

 スターリンは再びドイツ軍がモスクワ攻略を試みると牽制し、ソ連軍の反撃は続きました。ドイツ軍はこれ以上の戦線後退を何としてでも阻止しなくてはいけません。厳しい冬を生き長らえることが出来ても、私たちは防衛戦のために相変わらず陣地に留まり、春になってもソ連軍との睨み合いは続きました。生暖かい日差しがモミ、トウヒなど針葉樹の鬱蒼とした森に差し込むと、地面の雪が溶けて蒸発し、乳白色の霧がゆらゆらと立ち昇ります。それはまるで機関銃射撃で死んでいった白い防寒スーツの敵兵の幽霊たちが、こちらを伺っているかのようです。本来ならば春の初めの風物詩であるはずの美しい景観が、塹壕で見張っているドイツ兵たちにとっては何とも物恐ろしいのでした。

 雪が溶けて物資の輸送も再開し、5月には国民から寄付された毛皮や綿入れ上着などが届き、苦笑いするしかありませんでした。エリカや両親たちからの半年分の手紙が一度に届き、私から手紙が届かないことをひどく心配していました。戦地から返事が来ない不安は、察するに余りあるというものです。 

 1943年2月になると、スターリングラード攻防戦でドイツ軍が降伏したというニュースが私たちの士気を一気に下げ、向かうところ敵なしと自負していたドイツ軍と政府への不信感が募り始めていました。スターリングラードでのドイツ軍の死者が15万人、ソ連軍は50万人。どれだけ死んでも続々と船でやってくるロシア兵、アメリカから大西洋を渡ってロシア軍に送られる底なしの食糧と武器。それに引き換え、ドイツ兵は闘う以前にその寒さにパタパタと倒れ、死んでいくのです。いったいいつまで?誰のために? 

 ドイツ本国においてもドイツ軍の無敵伝説は揺らぎ始めていました。スターリングラード降伏に続き、北アフリカ戦線のロンメル将軍率いる装甲軍の攻勢も旗色が悪くなっていましたし、大都市では連合軍による空襲で大打撃を受け始めていました。空襲で眠れない夜が続き、配給される食糧も日用品も日に日に減少し、何より恐ろしいのは戦死通知を受け取る家族が増え続けていることでした。これは1916年を思い出させないか?第一次世界大戦に敗れる予兆があったあの年を?

 そこでヒトラーは全国民の士気を鼓舞すべく、ナチス宣伝大臣ゲッベルスに1時間50分にも及ぶ演説をさせました。これが有名なゲッベルスの「総力戦演説」です。ヒトラー自身が演説しなかったのは、戦況が改善されてから登場した方がよりカリスマ性が高く、効果的であるからとの判断でした。

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上:1943年2月18日、ベルリン・スポーツ宮殿でのゲッベルス演説会。横断幕には「国家総力戦 最短期戦」とある。聴衆は選抜され、プロパガンダ的効果のある人物は、カメラの前に座らせた。

 

 ニュース映像には、大臣たち、映画スター、ゲッベルスの妻や娘、アーリア人の見本となるような金髪碧眼の兵士、感動を隠さない若い女性、負傷した兵士も映されていました。「スターリングラードは荒野の野蛮人と勇敢な英雄が戦ったシンボル」であり、「ソ連軍の後ろにはユダヤ人部隊が後ろ盾となって」いる、連中は「ヨーロッパを飢餓と混沌に貶める恐怖政治を行う」のである、とゲッベルスはヒステリックにこぶしを振り上げて叫び続けました。ヨーロッパをボルシェビキから守るために、東部戦線で敗退するわけにはいかないこと、我々にはその力があること、そしてそれは迅速に行われなければならないことを繰り返しました。

「今日、東部戦線で腕や足を失った兵士、視力を失った兵士たちが赤十字の看護婦に付き添われてここに来てくれました。人生で最も輝かしい年齢で、松葉杖をついてしか歩くことが出来ないのです。そしてまた、頭脳労働者たちは軍需工場での勤労奉仕に汗を流しています。ここにもベルリンの戦車製造工場からかけつけてくれた人々がいます。彼らは一丸となって戦っているドイツ国民の、ほんの一部の人々ですね?」

3000人の聴衆が答えます。

「ヤー!」

ゲッベルスは頷き、甲高い声で扇動します。

「国家総力戦を支持しますか?全面的な、徹底的な戦争が必要であれば?ヤー?それともナイン?」

「ヤー!ヤー!ヤー!」

3000人の聴衆は興奮して立ち上がり、叫びます。ハイル!ハイル!ハイル!

 この演説はラジオで中継放送されました。熱狂的な聴衆を効果的に編集された映像は、全国の映画館で上映されたのです。

 こうして「国民の了承」を得て、18歳以下の若者たちは軍事訓練キャンプから東部戦線へと放り込まれたのです。東部戦線にまだ少年と言っていい若者たちが次々とやって来た時、私たちはつぶやいたものです。

「戦争が長引くほどに、兵士が若くなっていく。」

 

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上:国家総力戦のプロパガンダポスター。「さあ国民よ立ち上がれ!そして嵐よ起きよ!」

下:当時の有名な風刺画家ヘルベルト・マルクセン(1900~1954)が描いた「国家総力戦を支持するか?」。マルクセンは隠れて反ナチス政権の風刺画を描いていたが、親戚に通報され逮捕された。強制収容所移送は免れたが、ゲシュタポにすべての作品を破棄されたのち、創作活動を禁止された。

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 ゲッペルスの演説会の数週間後、私たち中央軍集団の陣地であったヴャズマ線で、ソ連軍は激しい逆襲を開始しました。野戦病院には新しく投入された若い兵士たちを含め、多くの負傷兵が運び込まれ、私は連日の手紙代筆、お悔み状の執筆、埋葬に明け暮れていました。これは国力を総動員して最後の最後まで戦い抜く「国家総力戦」の始まりに過ぎなかったのです。 

 激しい腹痛を訴えて野戦病院に運び込まれた、まだ18歳の兵士がいました。軍医が診察しても異常は認められず、

「ふん、仮病に違いない。戦闘が怖いんだろう、意気地なしめ。」

といきり立ち、明日は退院して前線に戻るよう申し渡していました。

 ちょうどその日の夕方、空襲があり、私たちは慌てて傷病兵たちを防空地下室に移動させました。病院が爆撃を受けずに敵機が去ったことを確認すると、再び傷病兵をベッドに移したのですが、看護婦たちが例の若い兵士が見当たらないと騒ぎだしたのです。混乱に紛れて脱走したのでしょうか?しばらくして、病院裏のリンゴの木の枝にベルトをかけて、首を吊って死んでいる兵士を衛生兵が発見しました。

「よほど前線に戻りたくなかったのね。かわいそうに。」

若い看護婦が目に涙を浮かべると、婦長シュヴェスター・エルゼ(*シュヴェスターはシスターの意。)が厳しい口調で看護婦を叱りつけました。

「かわいそうですって?全国民が残忍なボルシェビキと戦っているんですよ!戦闘を怖がって自殺するような情けない男に、同情は無用です!」

若い看護婦は唇を噛んでうなだれました。

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上:ドイツ赤十字看護学校の戴帽式では、ヒトラー総統への忠誠を誓うことが義務付けられた。

 

 不眠不休で働く看護婦たちの疲れも極限に達していました。毎日、輸送車で運ばれてくる負傷兵たちの看護に走り回り、27時間寝ていないと目の下に真っ黒なクマを作っている看護婦もいました。気の毒なのは手術室担当の看護婦です。腹部、肺、頭蓋骨を損傷した兵士たちが毎日何人も手術室に運び込まれ、看護婦たちの白いエプロンは血に染まり、床は血、膿、肉片、骨片にまみれてヌルヌルとすべり、やがて凄まじい悪臭を放ちます。感染症、特に発疹チフスに感染する看護婦も少なくありませんでした。

 彼女たちは故郷でドイツ赤十字看護学校に通い、厳しい勉強と実技の訓練を受け、試験に合格した誇り高い看護婦たちです。戴帽式では胸元に赤十字のバッジをつけ、ナースキャップを被り、ドイツ民族のために闘う前線の男たちを支える決意を、右手を挙げて宣誓したのです。まさかこれほど長く、まさかこれほど恐ろしい地獄絵図の中に放り込まれるとは想像もしていなかったのです。それでも彼女たちの甲斐甲斐しい仕事ぶりと毅然とした態度には驚嘆するばかりでした。

 しかし、誇り高い彼女たちも人の子です。尋常ではないストレスの中、若い兵士たちに華やぐ心を抑えきれないのも、ごく自然な成り行きでしょう。そしてまた、二年も女性を見ていない兵士たちにとっても、看護婦は憧れであり、心の癒しでもありました。寄る辺ない気の毒な傷病兵に母性愛を惜しまず注ぎ、優しく介護する看護婦。禁止されていたのにもかかわらず、恋愛関係になることも多々あり、ラブレターを書き合ったり、こっそりと病室の片隅でキスをしたり、時には夜中にこっそりベッドに忍び込む大胆不敵な看護婦までいました。

 私は衛生兵たち5人と同室で寝ており、たびたび看護婦のひとりが忍び込んでいることを知っていました。消灯時間を過ぎ、皆が寝静まった頃になると、建付けの悪いドアが音を立てて開き、黒い影が現れます。やがてその影は隣の衛生兵マーラーのベッドの中へと消え、その直後に妖しい囁き、吐息、ため息がいやでも耳に入って来るのです。やがて安物の簡易ベッドが音を立て始め、私の眠れぬ憂鬱な夜が始まります。それでも明日をも知れぬ身である若い兵士たちの恋に水を差す気には到底なれず、私はなんとも切ない気持ちで寝た振りをしていました。

 ある日、婦長のシュヴェスター・エルゼが目じりを吊り上げて憤然としているのに気付きました。私はこの叩きつけるような厳しい口調で話す中年の婦長が苦手でしたが、恐る恐る声をかけました。

「シュヴェスター・エルゼ、何かあったのですか?」

婦長は真っ赤になって怒りを噴出させました。

「シュヴェスター・ラウラに裏切られたのです!」

シュヴェスター・ラウラはいつも愛想のいい、かわいらしい若い看護婦です。

「彼女がどうしたのですか?」

「妊娠したのです。」

唖然として婦長をまじまじと見つめました。

「私ではありません。シュヴェスター・ラウラです。」

挑みかかるような口調に、私は縮み上がりました。

「わかっています。彼女はどこですか?」

婦長はヒステリックに上ずった声でまくしたてました。

「もちろん国に帰しましたよ!重傷者と一緒に今朝の軍用トラックに乗せました。ドイツ赤十字のバッジとナースキャップも没収です。ええ、当然ですとも!今頃は病院列車でベルリンに向かっているはずです。この忙しい時に!なんというはしたない女でしょう。兵隊が命がけで前線で闘っていると言うのに、夜中に衛生兵のマーラーのベッドに忍び込んでいたんです。ああ、いやらしい!」

ああ、あの黒い影はシュヴェスター・ラウラだったのか!似合いのふたりだ!納得して微笑んでいる私を婦長は睨みつけると、

「シュルツ牧師!何がおかしいんですか?たしかあなたは衛生兵と同じ部屋で寝ていますよね?」

と厳しく詰問するのです。いろいろな「音」が私の脳裏をかすめました。ドアのきしむ音、妖しいため息、激しい息遣い、簡易ベッドのリズミカルな音、求めあう音、生きる歓びの音、音、音・・・。

「シュルツ牧師!気が付かなかったんですか?」

この婦長に密告するような度胸のある男が存在するしょうか?私は白々しく首をかしげて、用事を思い出したと言って、そそくさとその場を逃げ去りました。

「シュルツ牧師!逃げるんですか?シュルツ牧師!」

婦長の激昂する甲高い声が、ホールに響き渡っていました。

 その日の晩、マーラーは、シュヴェスター・ラウラ(もうシュヴェスターではありませんが)との今後について、照れくさそうに、しかし嬉しそうに私に話してくれました。

「彼女が里に帰されて、私もかえって安心しています。次の休暇に彼女と結婚式を挙げる約束をしたんです。子供が生まれる頃には戦争も終わっているでしょう。」

その予想は外れて、兵士たちは休暇をもらうことも儘ならず、戦争はそのあと2年続きました。果たしてマーラーは生還し、結婚できたでしょうか?ジュネーヴ条約では衛生兵は捕虜とならないはずですから、生きてさえいてくれれば、今頃はシュヴェスター・ラウラと子供のもとで暮らしているはずです。三人に幸多かれと祈るのみです。

 

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上:ドイツ赤十字DRKの看護婦たちは、兵士にとって母であり、守護神であり、恋人でも会った。

 

 野戦病院は人手不足でしたので、看護婦助手、介護、清掃、料理などの労働のうち、半分以上はロシア人やウクライナ人など地元の女性を雇っていました。ドイツ人看護婦たちは、赤十字看護学校でナチスのイデオロギーである優性思想について徹底して教え込まれていましたので、スラブ人に対する差別意識は根強いものがありました。外国人と接触するのを嫌がり、必要最小限な事務的な会話だけに徹し、時には犬に対するように「シッ!」と追い払ったり、「不衛生なあの連中」、「文化のない劣等民族」と言って蔑む場面に遭遇することがしばしばありました。

 ひとりの若いロシア人女性が、5歳くらいの息子を伴って、この野戦病院に住み込みで働いていました。その女性は簡単なドイツ語を理解し、冬の寒い日でも額に汗をにじませて黙々と掃除や介護に奮闘していました。男の子は幼いながらに周りに気を遣っていたのでしょう、おとなしく部屋の片隅に座って絵を描いたりしているのがなんとも気の毒でした。

「いい子だね。紙と鉛筆が欲しかったらいつでも言いなさい。」

私が下手なロシア語で声をかけると、男の子は大きな黒い目を見開いて、恥ずかしそうにモジモジしています。子供好きな傷病兵たちは男の子の気を引こうとベッドから手招きするのですが、母親に禁じられているのか、決して近付こうとはしません。しかし、気のいい兵士の一人が子猫を拾ってくると、男の子はたちまち喜びを可愛らしい顔にみなぎらせ、小さな遊び友達に夢中になりました。

「ミーシャ!ミーシャ!」

男の子の猫を呼ぶ声に、傷病兵たちは微笑みを浮かべました。

 その母親と息子が、ある日、忽然と姿を消したのです。不思議に思い、看護婦の一人に消息を尋ねました。

「ああ、あの親子ですか。あの女、実はユダヤ人だったんですよ!昨日、アインザッツグルッペンに連行されましたよ。新しく雇われたロシア女が偶然同じ村の出身で、彼女と顔見知りだったらしいんです。すぐにアインザッツグルッペンに密告したみたいですよ。密告はお金になりますからね。あのユダヤ女、よく働くロシア女のふりをして私たちを油断させて、兵隊たちに毒でも盛るつもりだったんじゃないですか?ああ恐ろしい!」 

 アインザッツグルッペンは、独ソ戦においてユダヤ人、ロマ、共産主義者など「敵性分子」を銃殺するために組織されたナチス特別行動部隊です。彼らがその母親と息子を連れ去ったということは、何を意味するかは誰もが知っていました。看護婦は抑揚のない声でサラリとこう言ったのです。

「ここらへん一帯はユーデンフライ(*ユダヤ人が一人も住まない土地)なはずだったんですけどね。まだ20人くらい隠れていたそうです。全員集めて、今朝早く村の広場で処刑したそうですよ。」

 看護婦はいそいそと薬品倉庫に向かい、私はその後ろ姿を呆然と見つめていました。清廉と献身。慈愛と奉仕。看護婦の基本理念よりも民族浄化に価値を置く医療従事者。追い出されないように、身を潜めて懸命に働いていたユダヤ人女性と、母親の言いつけを守って一人で静かに遊んでいた幼い男の子。深くて暗い穴に落ちて行くような感覚に襲われ、ふと足元を見ると、主人を失くした子猫のミーシャが喉を鳴らしながら、私にじゃれついています。子猫の名前は知っているのに、男の子の名前も知らないことに、この時初めて気が付きました。

 

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上:アインザッツグルッペンの一部隊。総員は3000名ほどで、各部隊はドイツ軍前線の後方につき、ユダヤ人絶滅政策を推し進めるために残虐な殺戮を繰り返し行った。虐殺数はロマ、共産主義者、パルチザンを含めて80万から130万人と言われており、その多くがユダヤ人であった。

 

  衛生兵の一人に、カウニッツというマールブルク大学神学部の学生がいました。伝統的に神学生が衛生兵になることが多かったのは、武器を持つことを拒否できたからです。(*大戦末期では衛生兵も戦闘に参加させられた。)カウニッツは容姿端麗、温厚篤実な若者で、若い看護婦たちに大変人気がありましたが、そういった色気のある話には一切頓着していない様子でした。

「大学に入って一年もしないうちに軍事訓練に召集されたんです。今年の冬期は無理でも、来年の夏期には大学に戻って、ぜひともブルトマン教授の新約聖書学の講義を聴講したいんです。彼の新約聖書の実存論的解釈に、とても興味があるんです。」

カウニッツは、毎晩のように目を輝かせて勉学への渇望を語るのでした。

 赤十字の腕章を付けた衛生兵は護身用ピストル以外の武器は持ちませんが、前線の兵士たちと一日中行動を共にする大変な任務でした。銃撃戦の後部で身をかがめ、撃たれた兵士がいると駆け寄って応急処置を施します。救急カバンを開けて、まず患部を消毒、包帯を巻いて血止めをし、ひどく痛がる場合はモルヒネを注射します。負傷兵を担架に乗せて赤十字トラックまで運び、野戦病院に移送すると、どの部屋に行くべきか軍医の診断を待ちます。軽傷室?重傷室?手術室?それとも死体安置所?その後は救急カバンの薬品の補充を行います。ヨードチンキ、亜鉛軟膏、ホルムアルデヒド軟膏、モルヒネ、注射器、軽い阿片錠剤、包帯など、すべてを確認すると、救急カバンを肩から斜めにかけ、再び前線に担架を持って走るのです。危険であることは他の兵士と変わらない上に、何度も何度も重い負傷兵を担いで前線と病院を往復するのは大変な重労働でした。 

 ある日、憔悴しきって頭を抱え込んでいるカウニッツを見かけ、

「大丈夫かい?少し休んだら?」

と声をかけると同時に、前線から来た兵士が叫びました。

「サニー!(Sanitäter衛生兵の略語)すぐに来てくれ!二人撃たれた!」

カウニッツは慌てて立ち上がると、救急カバンを肩にかけ、再び前線へと一目散に走っていきました。しばらくすると、別の衛生兵が泣きながら病院に入って来て、胸ポケットから二つに割れた銀色の認識票を私に渡すのです。

「カウニッツのものです。首を撃たれました。即死です。」

驚きで言葉が出ませんでした。撃たれた兵士に応急手当をしようと駆け寄ったところを、機関銃掃射に会ったと言うのです。つい二時間ほど前、カウニッツは疲労困憊してそこで頭を抱えて座っていたのです。私は黙って認識票を受け取ると、カールスルーエに住む彼の両親にお悔みを書くため机に向かいましたが、ペンを取ることができないのでした。

 

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上:軽傷者の手当てをする衛生兵。

 

 ソ連軍の攻撃は日を追って激しくなり、私の仕事も不眠不休の状況でした。野戦病院の300台のベッドはやがていっぱいになり、重傷室の看護婦たちは衛生兵に叫んでいます。

「モルヒネ!モルヒネ!」

軍医に見限られた兵士たちには、即刻モルヒネが注射されました。楽に逝かせてあげようという、最後の温情です。

「牧師様、感謝しかありません。」

「愛情に包まれた幸せな人生でした。」

「なんと美しい人生だったことでしょう。天の父なる神に感謝します。」

感謝の言葉を口にし、穏やかな微笑みを浮かべて息を引きる兵士たちがいました。モルヒネがそうさせるのだと人は言うでしょう。しかし、彼らは朦朧とした状態でなく、目を輝かせ、静かな声色で落ち着いて語る、実に立派な臨終の姿を私に見せたのです。神の御手に魂を委ねるとき、やっと地獄の苦しみから解き放たれ、ハイネの『歌の翼に』にあるように、愛と安らぎに満ち溢れた「最も美しい場所」へと飛んで行ったのだと私は確信しているのです。 

 

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上:東部戦線のドイツ兵戦死者墓地。こうして埋葬される兵士はごく一部だった。

 

 1943年3月、結局ヴャズマは多くの戦死者を出して再びソ連に奪還され、私たちは撤退しました。休む間もなくツィタデレ作戦が始動、今度はクルスクに向けて南下するのです。二年間の戦闘で損傷の激しかった戦車は修理・改良され、新型戦車も多数投入し、装甲部隊はなんとかして戦闘意欲を盛り立てようとしていました。兵士63万人、戦車2000輌、航空機1800機、凄まじい戦闘になることは間違いありません。

 野戦病院で入院中の兵士たちも、作戦が変わるたびに運命が分かれます。行軍不能だが重傷ではない傷病兵は、私たちと一緒にトラックに乗って移動し、傷が癒えたら再び前線で闘います。戦闘不能である重傷者は迎えに来た別のトラックに乗って、療養のため、病院列車で故国へと帰還します。死なずにすんだうえに前線で闘う必要もなく、故郷に戻れるわけですが、腕や足や視力を失った重傷兵を羨ましく思う者は誰もいませんでした。

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上:1943年、クルスクに進軍するドイツ装甲軍。

 

 私はフックス神父、看護婦、傷病兵たちと赤十字の旗を付けたトラックに乗り、部隊から離れて移動していました。大変暑い日で、私は傷病兵に水筒から水を飲ませるのですが、舗装されていないひどい道なので、トラックが揺れるたびに服がすっかり水浸しになってしまうのでした。

「ああ、シュルツ牧師、ありがとうございます。身体を洗ってもらうなんて何ヶ月振りでしょう。」

傷病兵の嬉しそうな言葉に皆でどっと笑ったその時です。遠くから攻撃機のいやな飛来音が聞こえてきたと思うと、ドイツ兵が黒死病と呼んで恐れていたソ連の攻撃機、シュトゥルモヴィークがこちらに向かって低空飛行を始めるのが見えました。

 

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上:ソ連軍攻撃機シュトゥルモヴィーク。

 

「逃げろ!」

私たちがトラックから飛び降りて四方八方に逃げまどうと、攻撃機はさらに機体を下げ、私たちに向かって機銃掃射を始めました。激しい連射音と共に、攻撃機は瞬きする間もないほどの速さで通り過ぎていきました。私は足を撃たれ、転んで地面に倒れました。不思議なことに痛みは感じないのですが、足に全く力が入らず、起き上がることが出来ないのです。見上げると攻撃機はすでに遠くに飛び去り、九死に一生を得たのだと事態を把握しました。上半身を起こして辺りを見回すと、10メートルほど離れたところでフックス神父が倒れており、頭を撃たれたのでしょう、乾いた土の上にみるみる血が広がっていくのが見えます。一人の看護婦は背中を撃たれたのか、地面に倒れたまま微動だにせず、もうひとりの看護婦は無傷ですがショックのあまりヒステリックに泣き喚ています。

「落ち着いて、シュヴェスター・イルムガルド!落ち着いて!」

トラックにいる傷病兵たちが心配です。看護婦イルムガルドに見に行かせたいのですが、フラフラと歩きながら泣き叫ぶばかりで、全く私の言うことに耳を貸そうとしません。

「シュヴェスター・イルムガルド!トラックに行って!」

私は力尽き、赤茶けた土の上にパタリと倒れたまま身動きできず、道端の草むらの中でじっとこちらを伺っている小さなバッタを見つめていました。真上からまっすぐ降り注ぐ夏の光の束が次第に白くかすみ始め、意識が遠のいて行くのを感じながら、うわ言のようにつぶやいていました。エリカ、エリカ・・・。それが私の東部戦線での最後の記憶です。その時はまだ背中に何かの大きな破片が刺さっていたことを知らず、しかも全く痛みを感じることもなく、眠るように失神したのです。もしこのまま死んでいたならば、死とは何と安らぎに満ちた心地よい神の御国への通過点なのでしょう。

 しかし、私はその通過点を越えることも、クルスクのバッタに看取られることも、歌の翼に乗って「最も美しい場所」に飛んでいくこともなく、再び意識を取り戻したのです。