月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

「本当に知らなかったのか?」

 1947年、復活祭の頃になると、ようやく厳しかった寒さも緩み始め、春の陽光は再び人々に平穏な生活をもたらした。先月までは大量の雪解け水がアイダー川を氾濫させていたが、今ではすっかり穏やかさを取り戻し、輸送船がくねくねと200㎞の蛇行を続けて北海へと進んでいく。川べりでは新芽をつけた柳の枝が揺れ、その木漏れ日が川面に映ってきらめいている。

 この頃は食糧不足もやや改善され、新聞は「8年目の戦争終結」と見出しをつけた。それでも子供たちは相変わらず空腹だ。小学校で配給される給食のスープを心待ちにし、いかに二杯目にあずかれるか、子供たちは学校の勉強よりも知恵を絞った。

 ある日、フランツは裸になると思い切りお腹をへこませて、あばら骨が何本数えられるかを私に尋ねる。

「なんでそんなことを?」

フランツは大真面目に説明する。

「一番あばら骨がよく見える子から、スープのおかわりが許されるんだよ。僕は5番目だからいつももらえるんだ。女の子たちは恥ずかしがってやらないから、おかわりがもらえないんだ。」

この馬鹿げた選考法はこの村だけではなく、ドイツ全国いたる所でやっていたというから呆れるばかりだ。いったい誰が考え出したのだろう?

 この村にやってきて二年が経過した。義母は教会の婦人会で忙しく、そこに定期的に集まる年配の難民たちとの交流を楽しんでいる。おっとりと優しい性格の義母だがプライドは高く、村の女たちとはほとんど付き合おうとしない。

「あんな田舎者たち、文化はないし、訛りは強いし、会話が続かないわ。」

この二年で難民の数は激増し、村の人口は倍に膨れ上がった。ほとんどが農家の屋根裏部屋やイギリス軍が慌てて建設した木造長屋に住んでいる。難民の多くは私たちのような中産階級出身者であったが、中には苗字の前にvonやGrafなどの貴族のタイトルが付く者もいれば、大学教授や弁護士などDr.のタイトルが付く教養人たちもいた。戦前は多くの使用人にかしずかれて豊かな暮らしを送っていたであろうフォン・XXX伯爵家も、今では邸宅も財産もすべて没収され、残っているのは貴族の称号だけだ。この片田舎の汚い長屋に住んで、私たちと同じように給食で残ったスープを子供に持ち帰らせている。それでも義母のような古いタイプの人間にとっては貴族は貴族であり、尊敬の対象であることには変わりない。

「ヒルデ、聞いた?伯爵夫人の館には寝室が12室もあったそうよ。使用人は20人ですって。」

「ヒルデ、伯爵夫人の館での舞踏会には、ビスマルク宰相も来たことがあったんですって。」

「ヒルデ、伯爵夫人の館で総統の歓迎会が行われたそうよ。」

義母はヒトラーのことを、いまだにder Führer (総統)と呼んでいる。畑仕事の疲れに加えてder Führerである。その伯爵夫人とやらの自慢話は私には悪趣味なデカダンスでしかない。

「なぜその時、乾杯のシャンパンに毒を盛ってくれなかったのかしら?」

イライラしながら私が憎まれ口をたたくと、義母は両手を開いて天を仰ぐ。おお、神様!なんて嫁だろう!

「その伯爵夫人、おいくつくらいなんですか?」

「1870年生まれとおっしゃってたわ。」

ということは、77歳になるのか!コルセットで締め上げた細い腰、シルク地に手刺しゅうを施した床まで届く白いドレス、豪奢な館の中でたたずむ若い頃の伯爵夫人を想像した。玄関先に家族たちと並んで、でっぷりと太ったビスマルク宰相の到着を今か今かと待ったのだろうか。シャンデリア輝く大広間、オーケストラが奏でるウィーナーワルツ、くるくると回り続ける美しい人々。あの隙間風のひどい小さな長屋の中にいても、老いた伯爵夫人は昔日の思い出の中に生きているのかもしれない。悪趣味などと蔑んだ私の無神経さを恥じた。

 一方、村の子供たちの世界には難民の子も土地の子も貴族の子も農家の子もなく、すべてが平等な理想世界が広がっている。差があるとすれば、あばら骨が出るか出ないかくらいだ。フランツは土地の言葉でしか話せなくなり、学校から戻るとリュックサックをポーンと居間に放り投げ、さっさと近所の子供たちと遊びにでかける。サッカー、泥棒と警察(いわゆる鬼ごっこ)、騎馬戦など、この頃の子供たちは擦り傷や打撲など日常茶飯事で、血まみれになりながら歯の抜けた顔で阿呆のように笑っていた。草原や森の中で日が暮れるまで走り回り、泥と鼻水に汚れた顔で家に戻れば、今度は嬉々としてお腹をへこませ、私にあばら骨を数えさせる。

 4歳のアニタもまた、近所の女の子たちと一日中、外で元気に遊んでいた。大きな縄の両端を二人が持ってグルグル回して順番に跳んでいく縄跳び遊び、地面にマスと数字を書いてそこに石を投げ込み、ピョンピョン片足で跳んでいく遊び、蛇のように長い列になって前の子の肩を持ち、頭になった先頭の子は尻尾の子を捕まえる蛇の尻尾遊びなど。天気が悪ければ、静かに座って手作りの人形でままごと遊びをする。それでも友達同士の諍いが絶えず、よく泣きながら帰ってきては4歳の人間関係の軋轢について聞かされたものだ。

 一番下のギザは2歳、アニタのあとをチョコチョコと追いかけて一緒に遊びたがるのだが、アニタはそれが邪魔でしかたがない。当時の母親は皆忙しかったので、上の子が小さな弟や妹の面倒を見るのは当たり前だった。こうして幼い子供たちは兄や姉の使い走りをさせられ、必然的に理不尽な縦の関係を学んでいった。

 夫のフーゴからは、相変わらずまめに手紙が届いていた。内容は欝々と自分の運命を嘆くものか、無味乾燥な事務的なものばかりだ。不思議なことに、子供のことをフーゴの方から尋ねて来ることはなかった。興味がないのか、敢えて避けているのか。子供たちの微笑ましい日常を共有出来ない寂しさは、便箋のどこにも見当たらない。かつての子煩悩でユーモア溢れる陽気なフーゴは、どこに行ってしまったのだろう。果たしてどちらが真実の姿なのかも、わからなくなっていた。いたずらっぽい目で冗談を言っては私を笑わせるひょうきんな人。調子はずれな歌。優しいキス。あれは夢だったのかしら?風化しつつあるフーゴとの日々を思い出すことさえ辛かった。明るい文調で激励しようとか、心和ませようとかいった心遣いを、私はとうにやめてしまっていた。無駄なことを続ければ、自分がみじめになるだけだ。最近のフーゴからの手紙には、

「今年の春には社宅が完成の予定であったのが、厳冬でそれどころではなくなり、建材不足も手伝って、完成は伸びに伸びている。」

とある。私は、

「それは残念ですが、ここでの暮らしに不足はありませんのでご心配なく。」

と、そっけなく返した。

 

 連合軍の非ナチ化政策は執拗に続いていた。私たちに今一番必要なもの、それは「民主主義」であり、それを教えてやろうと言うわけだ。当時のアメリカのプロパガンダニュースは、悪を退治するアメリカンヒーローたちの様子を伝えている。軍用トラックに乗せられたアグレッシブな元党員たち(俳優)を取り押さえる勇敢なMPたち。公明正大な米軍による裁判で、ヒステリックに抗議するナチは次々と裁かれていく。

「我々は民主主義のABCから彼らに教える義務を担っているのだ。」

 しかし、後に元米軍兵が語っている。教練であれほど「ドイツ人はすべてナチスで、傲慢な人種差別主義者だ。残忍な人殺し集団を決して信用してはならない。」と教わって来たのに、目の前にいるドイツ人たちは、ボロボロの服をまとい、瓦礫の中を空腹に苦しみながら徘徊する、貧しい哀れな人々だ。兵士は一様に愕然としていた。

 それでも連合軍はそれぞれの占領地区で、元ナチス党員を見つけ出さなければならなかった。路上で、店先で、銀行で、仕事先で。

「終戦前は何をしていた?」

「ナチスのどの組織に所属していた?」

「ナチスのために戦ったのか?」

人々は身分証明書を提示し、一様に首を振る。

「私はナチス党員ではありませんでしたし、信じたこともありませんでした。」

「私たちもヒトラーにだまされていたんです。」

「責任はナチス上層部にあります。私たちはしかたなく命令に従っただけなのです。拒否すればゲシュタポに捕まりますからね。」

連合軍の兵士たちは戸惑っていた。ヒトラーはすべてのドイツ国民を「同じ意志を持つ民族共同体」と呼び、国民も彼に忠誠を誓っていたはずだ。それなのに、すべてのドイツ人が潔白を主張し続ける。ナチス信奉者たちは、いったいどこへ行ってしまったのだろう?

 しかし、これもやむを得まい。ニュルンベルグ裁判ではナチスの大物たちが裁かれたが、一般市民はそちらにはほとんど興味を示さず、それよりも地方裁判所での裁判を恐れていた。ソ連占領地区以外の西側での裁判だけで5025人が有罪となり、そのうち806人に死刑判決が下り、486人に絞首刑が執行されていたのだ(残りはドイツ政府に執行権が譲渡された後、恩赦となった)。

 ソ連占領地区(後の東ドイツ)の市民は、終戦前後のソ連兵の暴挙がまだ記憶に新しく、元ナチス党員と判明した時の報復を恐れていた。10万人の元党員は密かに西側に逃亡し、留まった者は特別収容所に送り込まれ、そこで多くが死んでいった。中には元党員ではなく、元ヒトラーユーゲントの青少年たちも混じっていた。

 ニュルンベルグ裁判は世界初の戦勝国による軍事裁判として世界中から注目を集めたが、この「ナチスの小物たち」に対する処罰は、世界ではあまり知られていない。

 義母と私も他の18歳以上の村人たちと同様、イギリス軍に非ナチ証明書を発行してもらわなくてはならなかった。役場の長机に座ると、数ページにわたる紙が渡され、名前、住所、戦時中の仕事、家族の職業などの欄に、皆が一斉にペンを走らせる。さて、次は義母がインタビューされる番だ。

「お義母さん、大丈夫ですか?」

心配する私に、

「大丈夫よ、ヒルデ。どう答えればいいか、婦人会のお友達に教わってきたの。」

と義母はコソコソと囁き、若いイギリス兵たちににっこりと微笑みかけた。もったいぶってゆっくりとイギリス人将校の前に進み、大きなお尻を椅子の上にのせた。嫌な予感がする。ドイツ語が堪能なイギリス兵が通訳となり(ドイツから亡命したユダヤ人が多かった。)、将校の質問を義母に伝える。

「あなたはナチスのイデオロギーを信じていましたか?」

義母は臆面もなくスラスラと答えていく。

「もちろん信じたことなどございません。ナチスなんて最初から胡散臭い政党だと思っておりましたよ。ええ、そうですとも。うちは代々社会主義者でしてね。私の父もその父もそうでしたの。ナチス党員どころか、ゲシュタポに睨まれていたんですよ。」

次から次へと作り話をよどみなく話す義母の後姿を見つめながら、私は呆気に取られていた。あれほど侯爵夫人をちやほやしていたのに、今日はいきなり社会主義者になっている。

お義母さん、お願い、だまって。

私は真っ赤になって心の中で叫び続けた。社会主義は義母が言うほど昔からあるわけではなく、マルクスが「資本論」を書きあげる前に、義母の父親もその父親も、すでに亡くなっていたのだ。将校はドイツ人通訳から義母の話を耳打ちされ、鼻を膨らませて笑いをこらえているのが見えた。これがイギリス占領地区でなく、ソ連占領地区だったらどうなっていたかと、今でも身がすくむ。将校はやれやれといった感じで非ナチ証明書を義母に渡した。

次に私の名が呼ばれ、私は幼いギザの手を引いて将校の前に進んで腰を掛けた。

「あなたはナチスのイデオロギーを信じていましたか?」

これは宣誓式だろうか?私はすっかり鼻白みつつ、「いいえ。」と答えようと口を開けたが、言葉が出てこない。将校が手もとの紙から視線を私に移し、私の眼を凝視する。

「はい。」

と私は言った。

「信じていました。」

将校は目を丸くすると、英語で「初めてだな、正直に認めた者は。」と言って笑い、私に非ナチ証明書を渡した。

 なぜ私は嘘を言わなかったのだろう?あれは私なりのささやかな抵抗だったのかもしれない。軍服を着ている人間に民主主義を押し付けられるとは笑止千万、軍隊は命令と服従の世界であり、民主主義とは正反対のところに存在するではないか。弟は軍隊に殺され、フーゴは軍隊に従って重傷を負い、精神を病んだ。

 18歳になっていた家政婦のヴァリーも調査の対象となった。

「両親は?」

「ケーニヒスベルクの空襲で死にました。」

「兄弟は?」

「同じ空襲で皆死にました。」

イギリス人将校の顔が同情に歪んだ。ケーニヒスベルクの空襲が英国空軍によるものだったことは、当然知っているはずだ。

「親戚は?」

「祖父がエルビングにいましたが、ソ連軍の侵攻で私は逃げなくてはいけなくて、病気で寝たきりの祖父は神父様が引き取ってくださいました。赤十字を通じて今も探してもらっていますが・・・。」

部屋に沈黙が流れた。

「ひとりぼっちなの?」

私は後ろから反射的に英語で叫んでいた。

「No, she is not alone! She has us! (いいえ、ひとりではありません!私たちがいます!)」

ヴァリーは弾けるような笑顔で私の方を振り向いた。ソバカスだらけの顔のかわいいヴァリー。将校はナチスに関する質問はしないまま、非ナチ証明書をヴァリーに手渡し、「Good luck !」と微笑んだ。こうして私たちは無事にピカピカの民主主義者になると、そろって家路に着いた。

 

f:id:ritsukoguenther:20171123085805j:plain上:イギリス占領地区で調査票に書き込む市民。

 

 この頃になると再教育の一環として、ナチスの絶滅収容所の残虐な写真の載ったチラシが各家庭に配られるようになった。

 戦後すぐに始まったニュルンベルグ裁判で、ホロコーストの実態がつまびらかにされ、私たちの知るところとなった。しかし、ほとんどのドイツ人がそれを俄かに信じることができなかった。本当にこんな恐ろしいことが行われていたのだろうか?枯れ木のようにやせ細った遺体の山や、人体実験を生き延びたうつろな目をした子供たちの写真の上に、「恥辱の蛮行!」とか「おまえたちの責任だ!」とか書かれてある。私は生理的な嫌悪感を覚え、子供たちの目につかないうちに急いで破り捨てるのだった。

 

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上:連合国によって配布されたチラシ。これもドイツ人再教育政策の一環であった 

 

 ある日の午後、18歳以上の村人200人ほどが狭い公民館ホールに集められ、イギリス軍監視の中、再教育映画を観ることになった。「過去の過ちを学習し、ナチスの蛮行の記録を観て反省せよ」と言う。またか。誰もがうんざりしていた。皆、過去の反省よりも、明日のパンのほうが深刻な問題だったのだ。

 しかし、この連合軍が作成した「死の生産工場」というタイトルのドキュメンタリー映画はショッキングだった。これは連合軍がアウシュヴィッツなどの絶滅収容所を解放した際に撮影した記録映画である。死体の山、人体実験で動けない幼児たち、骨と皮だけになって地面に這いつくばっている汚物にまみれた囚人たち、ガス室、焼却炉、拷問部屋などが、約20分間にわたってスクリーンいっぱいに映し出される。残酷極まりない場面で女たちは正視できず、私も目をつぶったり手で顔を覆ったりしながら、早く映画が終わってくれることだけを祈った。ダッハウ強制収容所の道のわきに累々と横たわる死体の横を、一般市民に強制的に歩かせるシーンがある。顔をそむける者、泣きじゃくる者、脱力して誰かの腕にもたれて歩いている者。ナレーションは語る。

「この犠牲者たちは、他の信仰を持ったがゆえに、あるいはナチスに抗ったがゆえに、あるいは他の国籍であったがゆえに、殺されたのだ。そして私たちドイツ人は、この罪なき人々を殺した悪魔を称え、信じ、従ったのだ。」

大歓声の中、パレードの中心にいるのは、あのヒトラーだ。右手を高く上げて敬礼する何千人もの人々は、狂喜し、叫んでいる。ハイル!ハイル!あの人波の中に私がいた。家族がいた。友人たちもいた。

 静寂の広がるホールに電灯がともされると、会場いっぱいの村人たちの青白い顔が浮かび上がった。

「なんて恐ろしい。」

「かわいそうに。あんなことがよく出来たものだ。」

「ユダヤ人が殺されていたなんて、知らなかったんだ!」

村人たちの反応に、イギリス兵たちは戸惑っていた。この素朴な村人たちが演技をしているとは思えない。本当に知らなかったのか?

 村人のひとりが兵士に向かって叫んだ。

「戦時中はナチスのプロパガンダニュースしか見られなかったんだ!どうやって絶滅収容所の存在がわかるんだ!」

 ナチス政府が制作した映画、ラジオ、新聞による報道は、政府の都合の良いように改竄されていた。私たちは、「町から消えていったユダヤ人たちは、総統の温情から作られたゲットー(ユダヤ人居住区)で幸せに暮らしている。」と聞かされていたのだ。そこは美しい田園で、乳牛たちがのどかに草を食む草原が広がっている。立派な運動場でサッカーに興じる男たちとそれを見て歓声を上げる幸せそうな観客たち。屋内では女たちがテーブルを囲み、編み物をしながらお茶を飲んで談笑している。子供たちは菓子を食べながら、定期的に開催される子供演劇を見てお腹を抱えて笑っている。1942年にヴァンゼー会議で決定したユダヤ人絶滅政策は国家機密であったため、私たちはこの捏造ニュースを信じ込み、政府の思い通りに洗脳されていたというわけだ。

「本当に知らなかったのか?」

そう聞かれれば、

「本当に知らなかったのだ。」

と答えるしかないだろう。それが真実なのだから。

 それでは私たちは無実なのだろうか?そう聞かれれば、私はこうべを垂れて、返す言葉が見つからない。そのナチス党に心酔していたのは、他でもない私たち自身だったからだ。それもまた、真実なのだ。

 

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上:ナチス政府のプロパガンダニュースより。「ゲットー(ユダヤ人居住区)で幸福に暮らすユダヤ人の子供」

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上:「ゲットーで定期的に開催される子ども劇場」の撮影では、肉付きの良い子供たちを選抜し、撮影用に清潔な衣類を与えた。よく見ると、子供たちの表情は暗い。写真のほとんどの子供たちが、その後、ガス室に送られている。


下:ゲットーの現実。路上の遺体には誰も関心を示さない。

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 その時、聴衆の中にシュルツ牧師がいることに気が付いた。牧師は真っ赤に泣き腫らした目をして悄然とうなだれている。いつもの颯爽と自信に満ちた姿とは対照的で、その打ちひしがれた姿に私は言葉を失った。

 

 夏になるとユダヤ人難民船エクソダス号の連日のニュースでヨーロッパ中が興奮していた。このエクソダス号の話の前に、終戦後のユダヤ人たちの状況ついて説明しておきたい。

 終戦直前、ナチスの強制収容所は連合軍によって解放されたが、生き延びたユダヤ人たちのその後についてはあまり知られていない。彼らは解放後すぐにイスラエルに移住できたわけではなく、そもそもイスラエルという国はまだ存在しなかった。

 イギリスの第一次世界大戦における「三枚舌外交」によってパレスチナ問題が発生したわけだが、当時のパレスチナはイギリス統治下にあったため、ユダヤ人難民受け入れ制限はすべてイギリス政府に決定権があった。

 第二次世界大戦中、ナチスのホロコーストを伝え聞いたイシューブ(パレスチナのユダヤ人コミュニティ)は、ヨーロッパのユダヤ人を至急パレスチナに移住させるようイギリス政府に働きかけたが、イギリス側は断固として難民受け入れの上限を上げようとしなかった。これ以上のユダヤ人とアラブ人の紛争を避けたかったのだ。これは終戦直後も変わらなかったため、生き延びたユダヤ人たちには過酷な運命が待っていた。

 ひとつの例として、ポーランドのキェルツェという町の話をしよう。収容所から解放された150人のユダヤ人たちが、その故郷の町に戻って来ると、見知らぬポーランド人の家族が移り住んでいた。財産も家も土地も没収され、ユダヤ人コミュニティは消滅していたのだ。ポーランド人は住居や財産を取り返されることを恐れて暴徒と化し、ユダヤ人は虐殺された。このニュースにポーランド系ユダヤ人は抗議したが、ポーランド政府はユダヤ人を守るどころか、ポーランドから追放したのである。

 住処を失ったユダヤ人たちは、連合国軍が管理するユダヤ人専用の難民収容所で暮らすことになった。そこはかつてのナチス政府の作った強制収容所であり、管理者が異なるだけだ。戦時中は拷問や殺戮が日常だった場所で再び暮らすことを余儀なくされたユダヤ人たちの苦しみはいかばかりか。彼らはそこで、アメリカ、南アフリカ、パレスチナ(イスラエル建国前)に受け入れられる日を待ち続けた。

 パレスチナ、つまりイスラエルはユダヤ人にとっては魂の故郷であり、神の約束の地だ。終戦後、多くの難民船がパレスチナを目指して上陸を試みたが、イギリス軍はパレスチナ海域を封鎖し、突破しようとする難民船を拘束し、キプロス島の難民収容所に移送した。こうして収容されたユダヤ人難民は5万6300人にのぼる。それでも次から次へと難民が大挙したのは、非合法移民機関モサド・レアリヤ・ベート(ユダヤ人難民をパレスチナに秘密裏に移送した秘密組織)がそれを援助したためだ。上陸を目前にイギリス軍に拘束され、収容所に入れられるユダヤ人難民の現状を世界中に知らしめることが目的であった。

 中でも最も有名な難民船が、このエクソダス号である。1947年7月、ユダヤ人難民輸送船エクソダス号はユダヤ人難民4515人(内1000人は子供)を乗せて、マルセイユ港からパレスチナに向けて出港した。私はその船上での人々の幸せそうな安堵しきった表情の写真を見たことがある。もうあの忌まわしい収容所は過去のもの。輝く未来に夢をはせ、デッキで歌い、踊る人々は喜びにあふれていた。

 しかし、その一週間後、エクソダス号は英軍に拿捕されると、強制的にマルセイユ港に送還された。フランス政府が難民の受け入れを拒否したため、難民たちは一カ月の間、船上に残され、その間、毎日ラジオ放送でエクソダス号の様子が世界中に実況された。私はラジオを持っていなかったので、毎晩、ニュースの時間になると大家のエッゲ夫妻のもとに降りていき、船上の哀れなユダヤ人たちに心を痛めた。最終的には難民たちはフランスには上陸できず、再びドイツ・ハンブルグ近郊の難民収容所に戻された。「約束の地」での希望に満ちた未来を思い描いていた難民たちの落胆と失望は計り知れない。

 

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上:イスラエルのハイファ港に停泊するエクソダス号。難民たちはデッキで泣きながらヘブライ語の歌「ハティクヴァ(希望の意。後にイスラエル国家となった。)」を歌い、港のユダヤ人たちも合唱し、激励した。

 

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上:ハンブルグ近郊の難民収容所に強制送還されたユダヤ人難民。まなざしが悲しい。

 

 このスキャンダルでイギリス政府は世界中から非難を浴び、ユダヤ人の自由な移住を許可するようイギリス国内からも圧力が強まっていった。

 時を同じくして出版された「アンネの日記」がベストセラーとなり、これが1948年のイスラエル建国の後押しをしたと言っても過言ではないだろう。

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上:初版の「アンネの日記」は1947年に刊行された

 

 ある日曜礼拝の後、「牧師館の壊れたアップライトピアノが修理されて演奏可能になったから、いつでも弾きにいらっしゃい。」と牧師夫人に声をかけられ、私は天にも昇る気持ちで牧師館を訪ねて行った。

 シュルツ牧師はいつもの明るく溌剌とした調子で私を歓迎し、バッハのゴルトベルク変奏曲の楽譜を私に見せてくれた。ピアノを弾くのは、あの意地悪なシュレスヴィヒの下宿先で啖呵を切って以来だ。

 19世紀末製造のベヒシュタインを前に私は大きく深呼吸すると、古い象牙の鍵盤に指を置いた。ゆっくりとしたテンポで懐かしいアリアを弾き始めると、牧師館に清澄で崇高な風が流れた。これは祈りの音楽だ。そこからひとすじの光が見えて、神との対話が生まれる。

 アリアを弾き終えたとき、シュルツ牧師が静かに言った。

「なんという世界でしょう。無上の美ですね。ここからは感謝しか生まれません、」

しばらく思いつめたような顔をしていた牧師は、短い沈黙の後でこう続けた。

「シュライバーさん、私は知っていたのです。」

「何をですか?」

「ユダヤ人絶滅政策です。」

そしてシュルツ牧師は静かに語り始めた。