月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

1910年生まれのヒルデおばあちゃんは、ドイツ激動の時代を生き抜いた人です。戦前から終戦直後までの、彼女の思い出話を綴っています。

シュルツ牧師は語る1.夢の都ベルリン

 1914年、私、マックス・シュルツは、東プロイセンと隣接する港町ダンツィヒで生まれました。ギムナジウムでアビトゥア(大学入学資格試験)に合格すると、神学と哲学を学ぶため、1932年にベルリン大学に入学しました。

 ベルリン大学(当時のフリードリヒ・ヴィルヘルム大学。現在のフンボルト大学。)には、当時ドイツ最高峰の叡智と謳われた教授陣が揃っており、私はその格調高い講義に襟を正して出席したものです。

 近寄りがたい教授たちの中で、思想史のウルマン教授の講義は風刺の効いたユーモアに溢れ、学生たちに人気がありました。難解な哲学もウルマン教授にかかれば、とっつきやすい生き生きとしたものに変わるのです。哲学科ではない学生も多く聴講したため、200人収容可能な講義室は常に満席、教授がブラックジョークを飛ばすたびにドッと笑いが起こるのでした。

 私は学校の裏手にある学生寮に入り、他の学部の学生達とも仲良くなりました。中でも同室になった法学部のヨハネスとは妙に気が合い、大学の外では彼とよく行動を共にしました。ヨハネスはナチスのプロパガンダ映画に出てきそうな金髪碧眼の美青年で、町を一緒に歩いているとよく若い女性たちが騒いでいました。明朗闊達、頭の切れる皮肉屋で、なかなか一筋縄ではいかない男なのですが、仲間から全幅の信頼を寄せられていたのは、実は正義漢で優しい心根の持ち主だと皆知っていたからでしょう。

 暇さえあれば、私はベルリンの町を隈なく散歩したものです。勝利の女神と四頭立ての馬車をいただくブランデンブルグ門、ルネッサンス様式とロココ様式が美しく一体化した豪奢なホーエンツォレルン家の王宮、優雅なジャンダルメン広場、巨大なオルガンと豪華な内装を持つ大聖堂、おしゃれな買い物客で賑わう中心街フリードリヒ通り、贅を尽くした高級デパートのカーデーヴェー、驚天動地とも言うべきスケールのペルガモン博物館、300万冊の蔵書を誇るプロイセン国立図書館、黄金の丸屋根が美しいノイエ・シナゴグ(新ユダヤ教会)等々、どの通りを歩いても、華やかで洒落た建築物が並んでいます。町そのものが美術館のようなベルリンで学業に勤しむことが許されたことを、私は心から幸せに思い、感謝しました。

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上:ユダヤ人街のノイエ・シナゴグ(新ユダヤ教会)。3000人収容可能で、シナゴグとしてはヨーロッパ最大の規模だった。ドイツのユダヤ人の人口はドイツ全体の1%に過ぎなかったが、その三分の一にあたる17万3000人がベルリンに居住していた。

 

 当時のベルリンの人口は430万人、なんと363軒の映画館と49軒の劇場があり、ヨーロッパ中からの観光客で溢れていました。学生用立見席という格安のチケットがあって、私は毎週のように友人たちとコンサート、オペラ、演劇などを楽しんだものです。

 あのフルトヴェングラーが指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会も、格安のチケットで聴くことができたのです。ベートーヴェンの交響曲第九番を聴いた時の感動は、一生忘れることができないでしょう。詩人シラー、楽聖ベートーヴェン、巨匠フルトヴェングラー。三人の天才が一体となった崇高な芸術が生まれる瞬間に、私は立ち会うことが許されたのです。幸運な聴衆は、演奏後、感涙にむせびながらブラボーを叫び、割れんばかりの拍手を送り続けていました。

   人類よ、抱き合おう!

   全世界に口づけを!

   兄弟よ、この星の輝く天幕の彼方に

   愛する父がおられるに違いない

 その夜は、このシラーの「歓喜に寄す」が頭の中にこだまして、朝方まで興奮して眠ることが出来ませんでした。

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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー( 1886~1954) 。20世紀を代表する指揮者、作曲家。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務めた。世界に誇るこの名オーケストラも経済危機の煽りを食らい、20年代から30年代にかけて有限会社ベルリンフィルは倒産の危機に直面していた。ベルリン市からの援助金では到底足りず、フルトヴェングラーが1933年にナチス政府と交渉し、国からの補助金を得ることとなったが、その代償として、ナチスの様々なイベントに駆り出された。

 

 映画もよく観ました。この頃は銀幕の女王、マレーネ・ディートリヒが大人気で、女性たちもこぞって彼女の波打つ髪に細い眉を真似していました。でも、あの退廃的で妖艶な眼差し、官能的な低い声、気品ある挙措、美しい脚はマレーネだけのもので、誰にも真似できるものではありません。

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ベルリン生まれのマレーネ・ディートリヒは、1930年の映画「嘆きの天使」で一世を風靡した後、ハリウッド映画にも進出して大成功を収めた。ヒトラーはマレーネの大ファンでドイツに戻って来るよう嘆願したが、マレーネはナチスを嫌い、アメリカの市民権を得てそのままアメリカに留まった。ヒトラーは激怒し、マレーネの映画を上演禁止にした。

 

 他にも「三文オペラ」、「制服の処女」など、この時代は映画史に残る傑作が次々と上映されていました。特に「制服の処女」で女教師に恋心を抱く女生徒を演じたヘルタ・ティーレの清楚な美しさ!潤んだ悲しい瞳に、私を含めた多くの学生が「守ってあげたい。」と恋をしました。

 

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ヘルタ・ティーレは「制服の処女」で国民的人気女優になったが、ナチスのプロパガンダ映画への出演を拒否したため活動禁止となり、スイスに亡命した。スイスでは女優としては恵まれず、劇場プロンプターなどをして生活費を稼いでいた。戦後は東ドイツに戻ったが、資本主義国からの入国者を劇場は受け入れず、その後は精神科の病院で看護師助手などをしていた。

 

 ベルリンが華やかな文化の中心地である一方で、市役所入り口からは無料配給のスープを待つ人々の長蛇の列が続いていました。アルミやホウロウの小鍋を手に持つ人々は、日常の憤懣と空腹を抱えて仏頂面をしていたのをよく覚えています。

 労働局前でも同じ光景がありました。暗い顔をした男たちの長い列は、労働局の入り口から何十メートルにも及びました。

「日雇いでも良いから、何とかして食い扶持が欲しい。」

華やかなベルリン文化の陰で、こういった庶民の現実を目の当たりにし、私はやるせない気持ちになったものです。

 

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1932年ハノーヴァーの労働局前で、仕事を求めて長蛇の列に並ぶ失業者たち。 

 

 第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、戦勝国(フランス、イギリス、ロシアを中心とする連合国)が取り決めたヴェルサイユ条約により、領土の13%と人口の700万人を失うと同時に、1,320億金ライヒスマルクという天文学的数字の賠償金の返済に苦しんでいました。その額は当時のドイツのGNP20年分にあたります。この額は到底返済不可能であろうと戦勝国側は予測していたのですが、ドイツが再び経済的に優位に立ち、侵略戦争を始めることを恐れていたため、このような無謀な額を設定したのです。その上1929年の世界恐慌、その2年後の金融恐慌によって失業率は40%に達し、ドイツ経済は破綻していました。

 多くの市民が「この危機的状況を抜け出すには、職場の確保と社会保障と平和を確約する共産主義に頼るしかあるまい。」と考え始め、ドイツ共産党や社会民主党に投票するようになりました。しかし、1930年代になると共産主義の手本であるソ連の大粛清のニュースに、人々は震え上がりました。

「どうやら共産主義というのは抑圧と排除(死刑)を意味するらしい。それならば同じように職場の確保と社会保障と平和の公約を掲げているナチス党に投票した方が安全だ!」

こうして共産党、社会民主党支持者の票が、ナチス党へと流れていったのです。

 11月に行われる選挙のポスターがあちこちに貼られるようになりました。仰々しい真っ赤な文字や労働者たちが描かれたものが並ぶ中で、スタイリッシュで小粋なヒトラーのポスターはひときわ目を引きました。

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上:国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の選挙用ポスター。ヒトラーは常に一流のデザイナー、一流のカメラマンを雇い、斬新なポスターで人々を驚かせた。

 

 第一次世界大戦後に制定されたワイマール憲法により、選挙権は20歳以上の男女すべての国民が有するというヨーロッパで最も民主的な選挙が行われていました。私は当時、まだ18歳で投票権を持ちませんでしたが、他の大学生たち同様、政治に無関心ではいられませんでした。街頭演説があれば必ず立ち止まって聞き入ったものです。共産党、社会民主党、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の候補者たちは、そこらじゅうの演壇の上でこぶしを振り上げて叫んでいました。特にナチス党の前は大変な人だかりでした。

「恥辱のヴェルサイユ条約に苦しめられるのは、もうたくさんだ!変革が必要だ!国家社会主義ドイツ労働者党だけが、この状況を変えるのだ!」

ナチス党の威勢の良さとみなぎる自信に、私も密かに期待を寄せ始めていました。もしかしたらナチス党が、あの無料配給スープを待つ群れや職業斡旋所に並ぶ男たちの行列を消してくれるのではないだろうか?

 夜になると、学生たちはカフェ・ウーランドエックや居酒屋リンデンバウムで口角泡を飛ばして政治や文学論に花を咲かせたものです。特に政治は学生たちの最大の関心ごとで、ナチス党に期待を寄せる学生も少なくありませんでした。

「君たちは本気で言ってるのか?」

ヒトラーを支持する学生たちに対して、ヨハネスはあきれたように首を振ります。

「彼の書いた『我が闘争』を読んでないのか?無教養丸出しのあの駄本だよ。彼の目標は、東欧領土の拡大とユダヤ人の追放、つまり戦争と差別だ。こんなことを堂々と書ける精神異常者を、君たちは支持するって言うのかい?君たちの脳味噌は腐りきってるな。」

ヨハネスは酔うとますます口が悪くなるのが厄介でした。ナチス党を支持するカールは、ヨハネスの解釈は短絡的で偏っていると批判しました。

「ヒトラーは公約でも掲げてるじゃないか。ワイマール憲法(人権保障を規定した民主的な憲法)を遵守し、平和なドイツを約束すると。」

「そりゃ選挙に勝つためなら何でも言うさ。ワイマール憲法なんて彼の政治理念とは真逆じゃないか。」

「そんなことはない。民族の平和的共存を謳う憲法を順守すると言っているんだ。危害を与えるはずがない。しかし確かにユダヤ人に対する彼の見解は全く間違っているとは言いきれないんじゃないか?」

「ほう。」

ヨハネスは手にしていたビールジョッキを古い傷だらけの木机に置くと、挑発的な薄笑いを浮かべました。

「では、カール。ユダヤ人差別を正当化する理由を説明してもらおうか?」

「いや、差別をよしとするわけではない。しかし、ドイツ全国の8割の百貨店がユダヤ系という現状は異常だ。カーデーヴェーもティーツもヴェルトハイムもライザーも、全部ユダヤ系なんだよ。これだけの利益をユダヤ人が独占しているのはまともな状況ではない。」

「自由競争とはこういうものだ。彼らは公明正大に商売している。」

「これ以上ユダヤ人に市場を独占させずに、富を拡散させるべきだ。このままでは、ますます社会の格差は広がるばかりだ。」

「見てみろよ、カーデーヴェーやティーツの微に入り細を穿ったサービスを。君はあれを見て感心しないのか?素晴らしいショーウィンドーや粋なポスターを見れば、購買欲が湧くのは当然じゃないか?豪華な建築、斬新な内装、時間を短縮できる中央清算方式、上流階級だけではない万人をターゲットにした品揃え。アドルフ・ヤンドルフ(ユダヤ人実業家でカーデーヴェーなどベルリンだけで7軒の百貨店を所有していた。)は、アメリカやイギリスのデパートで学んできたことを自己流にアレンジして取り入れたんだ。ユダヤ人には先入観に捕らわれない豊かな発想力と実践力と強大なネットワークがある。それを評価せずに独占するなとは、理不尽にもほどがある。ただのやっかみじゃないか。」

ヨハネスはビールジョッキのビールを飲み干すと、吐き捨てるように続けました。

「それでも君のような善人たちがナチス党に騙されて投票するんだろうな。ナチス党が第一党になってヒトラーが首相になれば、さぞや素晴らしい民主国家が生まれるだろうよ。」

このヨハネスの自信に満ちた嫌味な言い方は何とかならないものだろうか?と、私はいつもハラハラしたものです。

 その直後の選挙でヨハネスの予想通りナチス党は第一党となり、1933年1月30日、ヒトラーは首相に任命されました。この時、ヒトラーはワイマール憲法を遵守し、共産党を弾圧せず、国際平和を目指すという政策を表明しています。

 しかし、首相になってもヒトラーは満足していませんでした。ナチス党の議席が過半数に達していなったからです。これではヒトラーの夢である政権掌握はかないません。そこでまず彼は議会を解散し、国会議員選挙を3月5日に行うと発表しました。それまでにナチス党を盛り上げて、国民に良い印象を与え、得票数を伸ばそうとしたのです。

 再び選挙運動が始まりました。驚いたことに、ヒトラーのあの激しい演説は突然鳴りをひそめ、口調は穏やかになり、ユダヤ人批判など一切しない紳士的な印象を与えました。人々はヒトラーは穏健派に路線変更したのだろうと噂し始めました。信じられないかもしれませんが、この時はまだ、ナチス党を支持するユダヤ人たちもいたのです。

 さて、選挙戦を勝ち抜くためには、ナチス党に批判的な報道を取り締まる必要があります。早速、ヒトラーは首相就任5日後の2月4日、新しい法律「国民保護法」を制定しました。これは、すべての新聞、ラジオなどの報道の取り締まり、街頭演説、集会の禁止、手紙や電報の検閲、電話の盗聴、家宅捜索などを合法に行うものです。つまりワイマール憲法に保障された基本的人権の停止です。警察は町の見回りにSA(ナチス突撃隊。準軍事組織で政敵の弾圧を行った。)を同行させ、「違反者」を逮捕していきました。

「ついに始まったな。」

ヨハネスは茶色い制服を着た目つきの悪いSAたちが町を闊歩するのを、いまいましく見つめていました。 

 

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右はSA(ナチス突撃隊)、左は警察官。SAは警察補助という名目で、ナチス党の政敵を逮捕していった。

 

 2月27日の夜中のことでした。ベッドに入ってうとうとし始めた時、すぐ近くを通る何台もの消防車のけたたましい鐘の音で起こされました。

「近いな、これは。」

隣のベッドで本を読んでいたヨハネスは、窓を開けて外を眺めています。刺すような冷たい空気が部屋の中に入って来て、私は布団を首元まで引っ張り上げました。ベルリン中の消防車が集まっているのでは?と思うほどの数の消防車がひっきりなし西の方向に走って行きます。やがて、寮の学生たちがガヤガヤと騒ぎだしました。

「大変だ!国会議事堂が燃えてる!」

寮から議事堂までは1,5㎞もありません。私たちは慌ててコートを羽織ると、二月の寒空の中に飛び出していきました。ドロテア通りに出ると、西の空が真っ赤に染まっているのが見えます。私たちは議事堂までひた走りました。すでに議事堂前には何千人もの野次馬が集まり、バリバリと音をたてて窓や屋根から飛び踊る炎を呆然と見つめています。何か恐ろしいことが起こる予兆ではないか、私はそう感じて身震いしました。

 

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燃え盛る国会議事堂。

 

 翌日、大学に行くと、同じ神学部の友人ハンスを学生たちが取り囲み、興奮気味のハンスの話を聞いています。なんとハンスが議事堂の火災の第一通報者だったのです。彼はその時の状況を詳細に説明しました。

 その日の夜、ハンスは市立劇場で観劇の後、下宿に帰る途中に議事堂の横を通りました。ふと窓の外から館内に火を持つ不審者がいるのが目に入り、立ち止まりました。偶然通りかかった男性とふたりで中の様子をうかがうと、どうやら不審者は二人、それぞれ手に火種のようなものを手にしているようです。これは放火目的であろうと推測し、急いで近くのホテルに飛び込んで警察に連絡したのですが、20分ほどして消防車が到着した時には、館内はすでに火の海となっていたそうです。

「号外新聞によると、放火犯は捕まったそうだね。鎮火後の議事堂の焼け跡に隠れてたんだって?」

学生のひとりが尋ねると、ハンスは首をかしげました。

「館内は真っ暗だったし、摺りガラスを通しては顔までは見えなかったんだ。でも単独犯ではないよ、絶対に。それにしても、放火犯が逃げずに現場でフラフラしてるなんて、どう考えてもおかしいよ。僕は信じられないな。」 

 

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放火犯として逮捕された直後のオランダ共産党員、マリヌス・ファン・デア・ルッペ、24歳。「ドイツ労働者がナチス政府に抵抗するよう呼びかけるため、単独で行った。」と自白したが、精神を病んでいたとも言われている。ほとんど盲目であったのにもかかわらず、ひとりで広い館内に燃料を撒いて点火できたとは考えにくく、ナチスの政治的陰謀であった可能性が高い。このあとヒトラーは刑法の放火の条項を死刑と変更し、ルッペはギロチンで処刑された。

 

 この議事堂放火事件以降、ドイツの政治的状況は急激に変わっていきました。その日のうちに新しい法律「反逆防止令」が公布されたのです。これは共産主義者、無政府主義者、社会主義者などの「社会の秩序を乱す者」を裁判なしに投獄、または強制収容所で労働させる、というとんでもないものでした。その数週間前に制定した「国民保護法」と合わせれば、もうナチスのやりたい放題で、ワイマール憲法の基本的人権は実質破棄されたことになります。

 翌日のラジオ放送で、ゲーリング大臣(当時)は「我々は、共産主義を抹殺するという責任を負っている。」と堂々と述べ、それからは共産主義者への徹底的な弾圧が始まったのです。

 

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SA(ナチス突撃隊)によって逮捕された共産党員は、裁判なしで強制収容所に送られた。

 

 その二日後のことです。フリードリヒ通りの大きな書店に入ろうとしたとき、すぐ近くに警察の護送車が停車し、中から警察とSAが数人パラパラと降りて来るのを見ました。道行く人々は何ごとかと立ち止まって成り行きを見守っていると、SAたちはすぐ前の建物の地下になだれ込み、数人の男たちの首根っこを掴んで護送車に乱暴に押し込んだのです。赤狩り、つまり共産主義者たちの逮捕です。護送車は猛スピードで走り去り、私は身のすくむ思いでそれを見つめていました。 このように逮捕された共産主義者の数は2万5千人にのぼり、直ちに刑務所か強制収容所にぶちこまれました。

 こうした中で、3月5日に選挙が行われました。投票率は89%、当然ナチス党が第一党となったのですが、驚いたことにいまだ単独過半数には達しなかったのです。激怒したヒトラーは議院運営規則を変えると、共産党を非合法と認定し、その議席を剥奪することでナチス党は強引に単独過半数獲得と勝利宣言をしたのです。とうとう政権掌握というヒトラーの夢が叶いました。邪魔者は誰もいません。  

「今頃、茶色い犬どもが尻尾を振って喜んでるぞ。」

ヨハネスの言う「茶色い犬」とは、ナチス学生連盟のことです。これはナチスに心酔する学生たちの組織で、任務は大学でナチスイデオロギーの浸透を図ることでした。ナチス党のイメージカラーである茶色のシャツに鍵十字の腕章を付けて学内を闊歩する彼らを、多くの学生は馬鹿にしていました。彼らが声高に叫ぶスローガンも、独自で発行する学生新聞も、狂信的な国粋主義、反ユダヤ主義、反共産主義といった軽佻浮薄な内容で、学問と真剣に向き合う学生たちにとっては愚にもつかない戯言だったのです。ギムナジウムでカントの「永久平和のために」を熟読し、シラーの自由と博愛の精神を謳った詩を暗唱してきた私たちにとって、ナチスのイデオロギーは滑稽でしかありませんでした。

 学生寮仲間に、ハインツという物静かで真面目な数学科の学生がいました。気の毒なことに、先月、父親が心臓発作で急逝し、経済的に学業の継続は無理とのことで、退学することになったのです。勉強家だっただけに、何もできない自分を不甲斐なく思い、ハインツの丸眼鏡の奥の小さな優しい眼を懐かしんでいました。

 ある日、ヨハネスがニヤニヤ笑いながら私に耳打ちしてきました。

「ハインツに会ったよ。」

「どこで?」

「学生食堂で。」

「えっ!大学にいるの?退学したんじゃなかったの?」

「いや、いられることになったそうだ。」

「そりゃよかった!でもどうやって?」

「ナチス学生連盟に入ったんだ。」

ヨハネスは呆然とする私を見て、ニヤニヤ笑っています。

「嘘だろう?」

「本当さ。」

ヨハネスは、やれやれと首を振りました。

「ふん。魂を悪魔に売り渡しやがって、情けない男だ。俺はあいつとは金輪際つきあわない。」 

 ナチス学生連盟に入党すれば、多くの特典にあずかれることは、学生ならば誰もが知っていました。そのひとつが学費の免除です。その他にも、メンバー専用の住居の提供、格安の食事代、卒業後の就職の斡旋等々。ハインツのように経済的な理由から入党する学生が多かったのは、失業率40%という状況下で親の仕送りをあてにできない学生たちの鼻先に、ナチスは人参をぶら下げたからです。ナチス学生連盟に入れば、貧しい学生が抱えている問題は、一気に解決されるのです。こうして連盟はメンバーを着実に増やしていきました。ハインツは政治には無関心の、いわゆる数学馬鹿で、ナチスに傾倒していたとは到底思えません。同盟の連中は地獄耳で、ハインツの父親が死んだと聞いて彼のところにすっ飛んで行き、入会を勧めたのです。ハインツが学問を続けたいがために、やむを得ず茶色いシャツを着ているのだとしたら、それを私は責めることはできませんでした。私は実家からの仕送りがあり、そのおかげで心置きなく学業に専念できたのです。ハインツはきっと同盟に入会したことを責められることを恐れて、私たちに会いに来ないのでしょう。一度だけ、私はハインツと通りすがりに目を合わせたことがありました。私は「やあ、元気かい?」と声をかけようとすると、ハインツは慌てて目をそらし、小走りにその場を去りました。

 

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ナチス学生同盟入会を勧誘するポスター。「総統と国のために闘え!」

 

 大学には多くはありませんが、女子学生もいました。私が神学と並行して専攻していた哲学科にも、エディットという美しい女子学生がいました。小柄で屈託なく笑う明るい女の子で、笑うと目じりが垂れて両頬に浮かぶエクボが何とも可愛らしいのです。しかし大変な秀才で試験では常にトップ、それを鼻にかけるでもなく、それどころかフッサールの超越論的方法論やハイデッガーの存在論を楽し気にわかりやすく解説してくれたおかげで、私たちは全員単位を落とさずにすんだのです。いつも冗談を言ってはケラケラ笑うエディットでしたが、教授との丁々発止のやり取りは爽快でした。彼女の明るさと美しさと聡明さに憧れている学生は大勢いて、正直、私も甘酸っぱい思いを持っていたことは否定しません。しかし、エディットは高根の花でしたから、憧れは胸の奥にそっとしまっていました。それに彼女の言う冗談はなかなか明け透けで辛辣で、笑うべきか困っている私のことを、エディットはよくからかうのでした。きっと「頭の固いおもしろみのない男」と思っていたことでしょう。

 エディットの家に、他の学生たちと共に何度か赴いたことがあります。それはベルリンの高級住宅地ヴァンゼーの中でもひときわ瀟洒な邸宅で、湖が一望できる素晴らしい環境にありました。アールヌーヴォー調の柔らかい曲線の描かれた調度品や、様々な時代の絵画や彫刻の蒐集はさながら美術館のようで、何時間でも鑑賞できそうでした。そして私たち貧乏学生は普段ありつけないような分厚いビーフステーキや、見たこともない南国の果物を、たらふく御馳走になりました。まだ失業者が町に溢れている時代に、こんな裕福な暮らしをしている友人がいるとは。聞けばエディットの両親はユダヤ人で、父親は政治家や有名企業の顧問弁護士をしているとのことでした。

「両親はリベラルな人達だから、キリスト教徒の友達も多いし、豚肉だって食べまくってるわ。私自身、カトリックの学校に通ったのよ。それに私、カトリックに改宗してるの。」

「ご両親は反対しなかったの?」

エディットはエクボを浮かべて言いました。

「このジョーク知ってる?あるユダヤ人が神に祈って泣いていた。神よ、私の息子がカトリックに改宗したのです。なんと悲しいことでしょう。すると神は言った。気持ちはわかる。わしも同じだ。」

つまりキリストもユダヤ人だったからです。皆ドッと笑いました。

 エディットの兄弟も親類も優秀で、ほとんどが法律家か大学教授でした。

「すごいな。やはりユダヤ人は選ばれし民なのかな?」

エディットはケタケタと屈託なく笑いました。

「そりゃあ優秀よ。あなたたちがまだサルだった頃に、私たちユダヤ人は偽造小切手を作ってたのよ。」

ユダヤ人は金に汚い詐欺師だという偏見を笑い飛ばす、エディット独特の自虐的なユーモアなのです。私はこういった冗談に戸惑いましたが、そのたびにエディットはカラカラと笑い、

「笑っていいのよ、マックス。」

と言って、私の肩をポンポンと叩くのでした。

 しかし、4月1日はエディットたちユダヤ人にとって辛い時代の幕開けとなります。ユダヤ人排斥運動、ナチス党員によるユダヤ人の店のボイコットが始まったのです。これによって、ユダヤ人を経済的に追い詰めようと言うのです。

 商店のショーウィンドーには大きなユダヤの星がペンキで描かれ、「ユダヤ人の店で買うべからず」と書かれた看板を持つSAが入り口に立っています。商店だけではありません。ユダヤ人が経営するものすべて、カーデーヴェー、ティーツなどの有名百貨店、銀行、弁護士事務所、歯医者、診療所など、そこら中のショーウィンドーやドアがダビデの星や看板だらけになりました。

 私たち学生がよく利用する、大学近くの文房具店の扉にも大きなユダヤの星が描かれ、学生たちは初めて店主がユダヤ人だと知りました。この店で買えなくなるのは困ります。インクもノートも格安だし、なんと言っても品揃えが豊富なのです。店主の男も親切で、在庫にない商品は直ちに取り寄せてくれるのです。店の前で5,6人の他の学生たちと途方に暮れていると、SAがニヤニヤと近付いて来ました。

「ミッテ地区には他にも文房具店があるよ。」

「わかってます。でもここが一番安くて品揃えがいいんです。」

「ここではもう買えないよ。」

「どうして?禁止の法律が出来たわけじゃないでしょ?」

私たちは勇を鼓して扉を開けて店内に入っていくと、いつもの人の好さそうな年配の店主が嬉しそうに店の奥から出てきて、私たちを歓迎してくれました。

 他の店でも似たような場面が多く、ナチス党員の制止を振り切って贔屓の店に堂々と入っていく者もいれば、百貨店の前で党員との押し問答をする者もいました。自由に好きなものを買えない不満に市民は苛立ちを隠しません。

「ユダヤ人たちが富を独占することは面白くはないが、だからと言ってなぜ我々が不便を強いられなければならないのだ?」

結局、このボイコット運動は4日間しか続きませんでした。かなり現実的なベルリーナーたちは、引き続き贔屓の店で好きな物を買うようになりました。しかし、それ以来、ユダヤ人たちは楽観的ではいられなくなったことを思い知らされたのです。

 

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「ユダヤ人の店で買うべからず」の貼り紙をショーウィンドーに貼るSA(ナチス突撃隊)メンバー。この時のボイコット運動は4日しか続かなかったが、1935年9月のニュルンベルグ法によってユダヤ人の公民権は剥奪され、すべてのユダヤ商店は営業禁止となった。

 

 そもそも、なぜユダヤ人は迫害されなければならなかったのでしょう?

 人々は経済的閉塞感の中で、何とかしてドイツ民族としての誇りを取り戻そうとあがいていました。

「我々は他の諸民族よりもずっと優れているはずなのに、あのヴェルサイユ条約によってこのような屈辱的な暮らしを強いられているのだ!」

「我々は血族的共同体としてのドイツを再構築するべきだ!」

実は、ナチスが政権を掌握する以前から、民族的ナショナリズム運動は少しずつ始まっていたのです。

 ドイツのユダヤ人は東欧のような閉鎖されたユダヤ社会を作ることなく、社会に溶け込んで生活していました。特に大学教授、医師、弁護士、芸術家などが多いのは、幼い頃からの徹底した英才教育によるものであると言われています。借金をしてでも一流の教育を受けさせたい、ユダヤ人の親たちは子供たちに最高の教育的環境を与えようとしました。それは、「知識さえあれば新天地でも生きていける。」という、何千年にもわたる迫害と追放の歴史から得た人生哲学だったのです。

 19世紀終わり頃からユダヤ人実業家たちが次から次へと百貨店などを展開して市場を席巻するようになりました。特に金融面では長年に渡って培われた技術と、世界中に広がる独自のネットワークがありましたし、時代が求める物品やサービスを提供していく鋭い感性と商才を持っていました。

 それ故に、第一次大戦以降、「我々ドイツ国民が飢えているのに、上流階級で豊かな暮らしを続けている異端のユダヤ人たち」といったイメージが民族的ナショナリズムと共に広がって行ったのです。妬み、羨望、憎悪。その国民感情を、ヒトラーは上手に利用していったのです。

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「ユダヤ人の店で買うべからず」のポスターを貼るドイツ女子連盟(ヒトラーユーゲントの少女版)の少女たち。10歳から18歳までのすべての女子はこの連盟に所属する義務があり、「良妻賢母教育」を受け、ナチス政策に協力しなくてはならなかった。この同盟の目的は、「真のドイツの女子として民族の純血を守り、息子たちを立派な兵士に育て上げなくてはならない。」ことであった。

 

 この年に医学博士オイゲン・フィッシャーが、ベルリン大学総長に就任しました。フィッシャーは優生学者で、ヒトラーを崇拝するナチス党員でした。やがて医学的見地からの人種政策でヒトラーに重宝され、「劣等人種ユダヤ人」の迫害に協力するようになります。この男が学者としての最高の名誉であるベルリン大学総長になったのです。

 

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オイゲン・フィッシャー(中央)医学博士、優生学者。ナチス優生学の先駆者であり、「人種混血の有害性」を説いた。 

 

 このフィッシャー総長就任により、それまでのんびりと平和だった学内の雰囲気が、突然ピリピリと張りつめたものに変わってしまいました。

 4月6日、ユダヤ人を公職から追放するアーリア条項が盛り込まれた「職業官吏再建法」が制定され、フィッシャー総長は積極的にユダヤ人教授の追放に協力していったのです。

 あの人気の高いウルマン教授の思想史の講義に出席していた時のことです。突然講義室のドアがけたたましく開き、茶色いシャツの学生連盟のメンバー5名が雪崩れ込んで来ました。

「ユダヤ人に教わることは何もない!」

「ドイツ民族の知性を汚すな!休講だ!全員外に出ろ!」

メンバーは狂ったように叫び、学生たちを外に引き摺り出そうとすると、女子学生たちは悲鳴をあげて逃げて行きました。年配のウルマン教授は威厳のある声で落ち着き払って言いました。

「待ちなさい。学生たちには講義を受ける権利がある。」

メンバーの一人が勝ち誇った顔で言いました。

「その通りだ。しかしユダヤ人には講義をする権利がない。アーリア条項を知らないのか?ユダヤ人は公職追放だぞ!」

条項が出来たことは知っていましたが、まさか大学教授まで追放されるとは思っていませんでした。学生たちの尊敬を集めているウルマン教授の講義を妨害するとは、無礼にもほどがあります。同盟のメンバーは教授のノートを破り、窓から投げ捨て、「休講だ!休講だ!」と叫んでいます。私たちは呆気に取られていましたが、正気に戻るとメンバーを取り押さえようとしました。男子学生は激高して顔を真っ赤にし、同盟メンバーたちの襟首をつかんで殴り合いが始まろうという時、教授が叫びました。

「君たち、やめなさい。暴力はいけない。外に出よう。解決法を探そう。」

解決法などあるはずがないことは、教授自身が一番よく知っていたはずです。学生たちは皆、顔面蒼白になっていました。ウルマン教授は外に出ると、構内にあるマロニエの大木の下に50人ほどの学生たちを集め、落ち着き払った声で話し始めました。

「近いうちに大学を去ることになるとは思っていましたが、それが今日になろうとは。残念ですが、個人の力では抗えないところまで来てしまいました。」

胸に熱いものがこみ上げました。泣いている女子学生もいました。エディットは青い顔をしてうつむいています。ウルマン教授と同じユダヤ人として、どれほど不安なことでしょう。ひとりの男子学生が口を開きました。

「でも先生、これは一時的なことです。こんな法律がいつまでも許されるわけがありません。」

「そう思っている同僚がほとんどですし、私も最初はそう願っていたのです。でもどうやら私たちは楽観的すぎたようです。今後は私たちユダヤ人にとって、ますます危険な状況になっていくでしょう。」

「なぜそう思われるのですか?」

「ユダヤ人でない優秀な同僚たちも、次々とナチス党員登録を始めているからです。彼らは決してユダヤ人追放を目的としているわけではなく、職場を確保したいからなのです。つまり社会主義者ではないと証明したいのです。」

学生たちが尊敬する教授たちがナチスに入党し始めているとは、信じ難いことでした。

「先生はこれからどうなさるんですか?」

「国外に行かれるんですか?」

「パレスチナですか?」

教授は首を横に振りました。

「いいえ、パレスチナ移住はイギリス政府が許可しないのです。もう今年も来年も制限人数分いっぱいなのです。」

「アメリカはどうですか?」

「アメリカ大使館からのビザがまだ下りないのです。ウェイティングリストには申し込みましたが。」

「何番ですか?」

ウルマン教授は丸眼鏡の奥の潤んだ眼をしばたたかせながら答えました。

「5万8,525番です。多分、3年以上先になるでしょう。とりあえず家族と共にパリに移る予定です。」

「先生、なぜナチスはここまでユダヤ人に対してひどいことをするのでしょう?」

ひとりの学生の問いにウルマン教授は答えました。

「経済的な閉塞感の中にいると、人間は大きな不安を感じます。そうした人々が集まって、何とかして民族としての誇りを取り戻そうとするとき、民族的国粋主義が生まれやすいのです。我々は比類なき民族のはずだ、と。ナチス党が『血族共同体』を主張したとき、国民は諸手を挙げて賛同したでしょう?ナチスが『他民族に我々と同じ権利を与えてはならない。』と言えば、ドイツ国民として同調するのです。」

女子学生も眼に涙をいっぱい溜めながら尋ねました。

「でもなぜここまでみんなナチスの言いなりになっているのですか?」

教授は数秒考えて、静かに言いました。

「すべての人と共に同じ方向を見る大衆の連帯感は、孤独を消してくれるのです。それほど経済的困窮は孤独で不安で、耐え難いものなのです。そして皆で非難できる対象がわかりやすければわかりやすほど、大衆は安心できるのです。」

「みんな同じ方向を見るなんて、恐ろしいわ。自由ではないわ。」

エディットが低い声でつぶやきました。

「そう、自由ではありません。しかし、それを自由であると大衆は思い込んでいるのです。本来、自由とは孤独なものなのですが。孤独を恐れるからこそ、人は束縛されたがり、そしてそれを自由だと思い込むのです。」

なぜ人は孤独を恐れるのでしょう?孤独の中でこそ、私たちは祈り、神の声に耳を澄ますことができるはずです。そうして初めてキリスト者たちは人の心に寄り添い、正しい道を共に目指すことができるのではないのでしょうか?私は神学者として何をするべきなのか?どう生きるべきなのか?この問いは、この先ずっと私の中で繰り返され、そして私を苦しめ続けることになるのです。

 教授は私たち一人一人に握手をして言いました。

「この時代に自ら孤独の中に身を置くことは命がけになるでしょう。しかしどうか孤独を恐れない人であり続けてください。そしてこれからも学び続けてください。私も勉強は続けますよ。どこにいてもね。大丈夫、私はしぶといですよ。生きていればどこかで必ず会えます。さようなら。」

 私はマロニエの木を見るたびに、ウルマン教授との最後の会話を思い出すのです。マロニエはたくさんの小さな白い花が集まって、蝋燭がクリスマスツリーに灯されているかのように美しく、悲しいのでした。 

 こうしてベルリン大学の教授陣(助教授、講師、助手を含む)のうち三分の一にあたる280名が解雇され、学位も剥奪されました。このうち9割はユダヤ人、残りは大学に嫌気が差して自主的に辞めていったユダヤ人ではない教授たちでした。

 ユダヤ人の人口はドイツ全体の1パーセントにも満たなかったのにも拘らず、それほどの多くの教授陣がユダヤ人だったのです。このことからも、いかに知識人が多かったかが伺われると思います。

 

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上:当時のベルリン大学前。

 

 そして同年5月、ドイツの大学にとって歴史上、最も恥ずべき事件が勃発しました。

 ナチス学生連盟はラジオとポスターを使い、全国の大学に「非ドイツ的精神を浄化する儀式に参加せよ。」と呼びかけました。非ドイツ的、つまりナチスのイデオロギーに反する「ドイツ人の高邁な精神を汚す」書物を集めて燃やせ、というのです。これが1933年の焚書です。これによって学問の世界においても言論統制が徹底されることになりました。

 ブラックリストに並ぶ作家は、学生連盟のドイツ文学専攻の学生とナチス党員である教師によって選抜されました。ハイネ、カフカ、フロイト、ツヴァイグなどユダヤ人作家たちはもちろん、ドイツ人であってもマルクスなど社会主義者、トマス・マン、ケストナーなどナチス政府に批判的な作家やジャーナリスト、ハインリッヒ・マンなどリベラルなワイマール政府支持者、シラーなど人道的平和主義者、「西部戦線異状なし」で一次大戦の凄惨な現実を描いたレマルクをはじめとする反戦作家、他にも性的描写を書く作家、同性愛者あるいはその擁護者など総勢149名、作品数は1万2400タイトルにも及びます。当時の作家にとっては、これは死活問題でした。執筆活動を禁止され、それまでの作品も発刊禁止となったからです。

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エーリヒ・マリア・レマルク。第一次大戦で多くの戦友を亡くし、自身も重傷を負った。その悲惨な体験を綴った「西部戦線異状なし」は世界的大ベストセラーとなった。レマルクの平和主義、反戦主義はナチスに敵対視され、焚書の対象となった。

 

 5月10日夜、ドイツ全国21カ所の大学で焚書は行われました。ベルリンのオペラ座広場には4万人もの市民が集まり、そこにゲッベルス宣伝相が現れたのです。初めて見るゲッベルスは痩せこけた頬、ギョロリとした奥目がなんとも不気味で、足を少し引き摺って歩いていました。新聞の写真ではよく見る顔ですが、足が悪いことは初めて知りました。ゲッベルスは壇上に上がると、マイクに向かって「これはドイツの魂を取り戻す革命だ!」と金属的な声を張り上げています。

 

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焚書の儀式の前に、演説するゲッベルス宣伝相。ベルリンのオペラ座広場にて。

 

 やがて松明を持ったナチス学生連盟の学生たちが、党歌『旗を高く掲げよ』を歌いながら意気揚々と広場に入場してきました。

   旗を高く掲げよ!

   隊列は固く結ばれた!

   突撃隊は確固とした歩調で行進する

   前線で撃たれた戦友たちの魂も

   我々の隊列と共にある

   褐色の軍勢に道を空けよ

   突撃隊員に道を空けよ

   期待に満ちて皆が鉤十字の旗を見上げる

   間もなくヒトラーの旗が全ての道の上にはためく 

「何度聞いても低俗極まりない歌だが、韻だけは踏んでるな。」

隣でヨハネスがリンゴをかじりながら馬鹿にして笑っています。歌詞を書いたのは、ヴェッセルというSAの男で、3年前に22歳の若さで共産党員に射殺され、それからナチス党の英雄となっていました。ヴェッセルが生前書いた詩に曲をつけ、これがナチス党歌となっていました。

「ベルリン大学の法科を中退して娼婦のヒモになった我らが法科伝説の阿呆さ。殺されたのだって家賃滞納で恨まれたんだ。英雄が聞いてあきれる。」

ヨハネスは「旗」や「道」を性的な隠語に変え、卑猥な替え歌にしてひとりで笑っています。周りに聞こえないかと私はヒヤヒヤしました。

 行進をする学生連盟とSAの中にハインツの姿を見つけると、ヨハネスは笑うのをやめて肘で私をつつきました。茶色いシャツ、茶色いズボン、茶色い帽子、腕には鉤十字の腕章。とぼけた顔の眼鏡の奥の小さな眼が素朴でかわいいハインツではありませんでした。彼もまた、他のメンバーと競うように、積み上げられた2万冊の本を炎の中に投げ入れていきます。彼はどの本を焼くのでしょう?私の愛読書、トマス・マンの『魔の山』でしょうか?それとも人道主義者、シラーの本でしょうか?つい数ヶ月前、私はベルリン・フィルの演奏会で彼の詩を歌った第九交響曲を聴いたばかりです。

   人類よ、抱き合おう!

   全世界に口づけを!

人類の平等と博愛を歌うシラーは売国奴と侮蔑され、本は炎の中に投げ込まれました。また、少年時代から擦り切れるまで読んだハイネの美しい『歌の本』も同様です。くしくもその100年ほど前、ハイネは戯曲中に「これは序章にすぎない。本を焼く者は最後には人間を焼くのだ。」と書いていたのです。彼の予言は見事に的中したことになります。 

「哀れな作家たちにとって、この焚書が最高の勲章となる日が来ることを祈ろう。」

ヨハネスがそう言った時、私は胸が詰まって言葉が出てきませんでした。

 

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上:ブラックリストに載った本を集めるナチス学生連盟のメンバーたち。

下:焚書は全国の大学21カ所で行われ、ベルリン大学の儀式はラジオで全国に実況中継された。

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 ヨハネスと炎を悄然と眺めていると、寮仲間の連中が人混みをかき分けてこちらにやって来て、私たちに囁きました。

「おい!大変だ!こっちへ来いよ!ケストナーがいるんだ!」

ケストナーが自分の本を焼かれるのを、このオペラ座広場で見ていると言うのです。私たちは急いで彼らの後について行きました。

 ケストナーは「エミールと探偵たち」、「点子ちゃんとアントン」などの作品で児童文学作家としてすでに世界的に成功していましたが、本来は反体制的な詩人、小説家、ジャーナリストであり、何度もゲシュタポ(秘密国家警察)に連行され、尋問を受けていました。執筆活動は禁止されましたが、逮捕されることがなかったのは、児童文学作家として大変人気があったので、逮捕することでナチスの評判を落とすことを当局は回避したかったのです。 

 聴衆に混じって、エーリヒ・ケストナーは佇んでいました。特徴的な太い眉、鋭い眼光、紛れもなくケストナーです。ベルリン在住とは聞いていましたから、ここにいるのは不思議ではないのですが、それでも「モラルのない作家」の烙印を押され、大衆の前でゲッペルス宣伝相が放つ自分への罵詈雑言を聞いているのです。ふてぶてしいまでに泰然自若と煙草をくゆらせながら、自分の書いた本が焼かれている光景を見つめている彼の眼に、焚書の炎が映っています。しかしそれは炎を映しているのではなく、彼の内面から燃えたぎるものであるような気がして、私は彼の放つ迫力と凄味に震え上がりました。ケストナーを敬愛するヨハネスは、感動を隠しませんでした。

「これがどんなに危険なことか、彼はわかっててやってるんだ。この悪魔の祝祭を脳裏に焼き付けて、あとで書くつもりに違いない。きっとケストナーは偽名でスイスかどこか外国の雑誌に寄稿するだろう。ああ読めないのが残念だ。」

やがて周囲の群衆も、彼の存在に気付き始めました。 

 「ケストナーだ!ケストナーだ!」

ケストナーは煙草を足でもみ消すと、静かにその場を去って行きました。

 

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 上:エーリヒ・ケストナー (1899年 - 1974年)。ジャーナリスト、詩人、小説家、児童文学作家。「ふたりのロッテ」、「飛ぶ教室」、「ファービアン」も彼の作品である。第一次世界大戦に召集された体験から反戦主義者となり、反ファシズムを貫いた。多くの作家がスイスやアメリカに亡命する中、ケストナーはベルリン留まり、ジャーナリストとしてナチスの横暴と扇動される国民を見つめ続けた。 

 

 それから少しあとに、大きなニュースが学生たちの耳に飛び込んできました。なんとハイデッガーがベルリン大学教授に招聘されたと言うではありませんか。

 ハイデッガーは実存哲学の父と呼ばれる哲学者で、当時はフライブルク大学の総長をしていました。私たち学生のほとんどが彼の名著『存在と時間』を読んでいましたから、このニュースに大学は湧きました。私の友人たちはナチスに心酔するフィッシャー学長を嫌っていましたが、「ハイデッガー招聘とはやるじゃないか。」と見直す声も聞かれ始めていました。

 もともとハイデッカーは私と同じキリスト教神学者だったわけですが、どのように実存主義の影響を受け、どのように独自の存在論哲学を生み出していったのか、大変興味を持っていました。20世紀を代表する大哲学者の講義に出席できるのです。何という幸運でしょう!

 それから数週間経った頃、ヨハネスが私に学生向けの雑誌を持ってきました。

「読んでみろよ。おもしろいから。」

その中に、ハイデッガーの寄稿文がありました。

「ドイツ精神にのっとった大学を作り上げるため、諸君は共に行動しなければならない。つまり民族のために身を挺して闘うことである。ナチス党こそがそれを可能にするだろう。この崇高な意志を持つ総統に臣従し、ドイツ民族としての品位と誇りを勝ち取ろうではないか!ハイル・ヒトラー!」

私は唖然とし、言葉が見つかりません。あの大哲学者、ハイデッガーが本当に書いたのでしょうか?

「ハイデッガーもナチ党員になったそうだ。実存哲学の父が聞いてあきれるよ。ただの強欲な薄っぺらい男さ。フィッシャーが招聘した理由がこれでわかったよ。この大学を真っ茶色のクソ色に染めたいんだ。俺は『存在と時間』を燃やそうかと思ったが、それでは焚書の栄誉を与えることになるからな。ゴミ箱に捨てたよ。」

 結局、ハイデッガーはフライブルグ大学総長に留まり、ベルリンに来ることはありませんでした。純粋な学究心から喜んでいた私は、傷つき、落胆したのでした。 

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マルティン・ハイデッガー(1889年~ 1976年)。

 

 次から次へと新しい法律が作られました。今度は「学校と大学の過密化防止法」という、ユダヤ人の学生を弾圧する法律が出来たのです。そこにはアーリア人以外の学生はどんなに成績優秀であっても奨学金を受給する資格がない、学生食堂を利用してはならない、講義は着席を禁じる、といった条項がありました。 

 私は哲学の授業に出席するため、講義室に入ろうとすると、エディットが入り口でうつむいて立ち尽くしています。

「どうしたの?」

声をかけた瞬間、私はハッと思い出しました。ユダヤ人学生は、今日から講義室には一番最後に入室し、立っていなくてはならない、と掲示板に貼り紙があったのを思い出したのです。「そんなばかな。」と友人たちと一笑に付していたのですが、これが本当に実施されているのです。

「一緒に座ろう。」

私の言葉に、エディットは力なく微笑んでエクボ浮かべ、首を振ってこちらに来ようとはしません。

「エディット。隣においで。」

エディットは再び首を振ります。

「いいからおいで。」

「無理よ。座ったら退学処分になるの。知ってるでしょ?」

「じゃあ僕も立つよ。」

エディットは眉間にしわを寄せ、声を荒らげて怒って見せました。

「マックス、余計なことしないで。そんなことしたら、あなたも私も退学になるのよ。お願いだからそっとしておいて。」

エディットの視線の先には、学生名簿をチェックする学生同盟メンバーたちがいます。彼らは講義中、ずっとエディットたちユダヤ人学生を監視しているのです。それに抗議すれば、ユダヤ人でない学生も退学処分となることを、エディットは知っていたのです。

 90分もの長い講義の間、エディットを始めとする十数名のユダヤ人学生たちが後ろで立ったままノートをとっているのかと思うと、全く講義に集中できません。驚いたことに、教授は立っている学生を無視して、淡々と講義を進めているのです。学問云々の前に、果たして私たちは講義を受ける資格があるのでしょうか?何もできない自分自身が情けなく、悔しく、惨めでした。

 講義が終わり、私はエディットのところに行って謝罪しました。

「あなたが謝ることはないのよ、マックス。」

「何もできなくて申し訳なく思っているんだ。こんなことが許されていいはずがない。これでは幼稚なイジメじゃないか。」

怒りと悲しみで、私は今にも泣きだしそうでした。

「おお、マックス!私は大丈夫よ。そんな悲しい顔しないで。さっきはきつく言ってごめんなさいね。本当は怒ってなかったのよ。あれくらい言わないと、あなた、一緒に立ってたでしょ?」

エディットはエクボを浮かべ、

「授業料の減額を要求してもいいわよね?劇場だって立見席は格安よ。ユダヤ人はお金には細かいんだから。」

とおどけてみせるのです。私を気遣っているのでしょうが、私は笑うことができません。

「笑っていいのよ、マックス。」

エディットはいつものようにそう言って、私の肩をポンポンと叩くのでした。かわいそうに、18歳の若い女性がこのような屈辱的な扱いを受けて、どれほど傷ついていたことでしょう。

 それから数週間後、また新しい法律が制定され、エディットたちユダヤ人学生1900人(当時のベルリン大学の学生数は1万3000人)と、400人の共産党員の学生が除籍となりました。除籍処分は、通常、在学中に犯罪を犯した学生に与えられる懲罰で、生涯大学で学ぶ権利を剥奪されることなのです。他の大学に移籍できないよう、ご丁寧にもユダヤ人リストはドイツ全国の大学に配布されました。

 私が熱烈に愛好していたべルリン・フィルハーモニー管弦楽団からも、4人のユダヤ人の楽団員が解雇されました。そのうちの一人は、若干二十歳で第一コンサートマスターに就任したヴァイオリニスト、シモン・ゴールドベルグです。残りの団員たちは虐げられる仲間に同情するどころか、20名もナチス党に入党し、その中の数名はSAとなって茶色い制服で練習場に現れるようになりました。

 

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シモン・ゴールドベルグ(1909 - 1993)はユダヤ系ポーランド人であったが、ベルリンフィル退団後にアメリカに帰化。1990年からは新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者に就任し、毎年訪れていた立山山麓で死去した。

 

 陽気なエディットのいない大学の風景は、もの寂しいものに変わりました。私は大学に失望し、ハイデッガーに失望し、ベルリンフィルに失望していました。大学も哲学も芸術も、根源的、普遍的なものを追求し、行動に移していくことが目的であると信じていたからです。しかし私が一番失望していたのは、それを阻むものに対して何も出来ない自分自身に対してでした。

 しかし、1934年2月のベルリンフィル演奏会プログラムが発表されたとき、私は目を疑いました。演奏禁止となっているユダヤ人作曲家、メンデルスゾーンの生誕125周年を大々的に祝う演奏会を開催するというのです。演目は、私も大好きなメンデルスゾーンの代表作『真夏の夜の夢』です。

 常任指揮者フルトヴェングラーは、迫害されるユダヤ人音楽家たちを擁護するため、宣伝相のゲッベルスに抗議文を送り付け、ユダヤ人作曲家の作品をあえて演目に選んでいたのです。ユダヤ人の作品だけでなく、ナチス的ではないと廃頽音楽の烙印を押されて上演禁止となっていたヒンデミットやアルバン・ベルクの作品もプログラムに組まれているのです。音楽家として音楽で抗議する。たとえ世界的スター指揮者と言えども、これは大変危険な賭けでした。彼の勇気ある行動に大変驚き、これは何が何でもチケットを入手せねば、といきり立ちました。私は開演5時間前からホールの受付に並び、格安立見席の切符を獲得し、この歴史的演奏会に立ち会うことが許されたのです。

 会場は満席でした。フルトヴェングラーが指揮棒を操ると、陽気な獣人や妖精たちが眼前に現れ、夜露に湿った草とバラの香りが漂ってくるのです。ロマンティックで官能的な夏の夢の世界に、私はしばし酔いしれました。これはまさしく現実から遠く離れた愛の世界です。

 演奏後、聴衆の鳴りやまぬ拍手に、ヒョロリとした長身のマエストロは、何度も何度も颯爽と舞台に現れてはお辞儀をしています。その姿を私は感慨深く見つめ、手が痛くなるまで拍手を送り続けました。