月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

渡り鳥の歌

 最愛の母とかわいい甥や姪たちの死。ロッテの衝撃的な体験談に、私は顔を覆って泣き続けた。しかし私がそうやって悲嘆に暮れている間も、ロッテは一度も涙することなく、ただ淡々と静かに話し続けるのだった。

 母が孫たちを道連れに冬のレガ河にジャブジャブと歩いていく光景を想像し、私の胸は張り裂けた。母は自分のことは二の次で家族にすべてを捧げ、信仰深く、貧しい人、困っている人には躊躇なく手を差し伸べる愛の人だった。善人を絵に描いたような人物が、なぜこのような非業な死を遂げなければならなかったのだろう?

 翌日も鉛のように心は重かったが、外から聞こえてくるマリーと私の子供たちの歓声に癒された。命を救われたマリーが、いとこたちと楽しそうに走り回ってはしゃいでいる。なんという不思議だろう。

 私は兄と姉に、ありとあらゆることを話した。私の引き揚げ時の話、シュレスヴィヒでの難民生活、この村での生活、フーゴのこと。故郷を追われた1945年1月からほんの1年3ヶ月の間に、私たちの人生は激変し、今生きていることが奇跡のようだ。泣いたり、抱き締めたり、背中をさすったり、時には笑ったり、微笑んだりして互いを慰労しあった。

 午後、ワルターが帰り際に私とロッテに話があるからと座らせ、持っていた黒い革鞄をテーブルの上に開いた。そこには現金が束になって収まっており、ロッテも私も息をのんだ。父が戦前、ワルター名義に書き換えていた有価証券を、現金に替えてあったのだと言う。

「エルビングのいくつもの不動産と工場は、いずれ僕たち三人で分けるはずだったけど、残念ながらポーランド政府に没収されてしまった。だから、これが唯一の父の遺産だ。僕が独り占めするわけにはいかない。三人で分けよう。現金に変えて16万ライヒスマルク、それを三等分して5万3000ライヒスマルクずつになる。大した額じゃないけど、当面の役には立つだろう。ここに書類があるから確認してほしい。」
5万3000ライヒスマルクと言えば、今の貨幣価値で約1万7000ユーロ(約220万円)、難民の私たちにとっては大金だ。

「さあ、書類に目を通して。」
「兄さん、私は兄さんを信じるわ。書類なんて見ない。本当にありがとう。」
ロッテと私は涙を流し、兄の手を取って感謝した。兄もシュトゥットガルトの空襲で焼け出され、貧しいのは同じはずだ。私たちに言わなければそのまま自分の財産となったであろう父の遺産を、こうしてワルターは妹たちに渡しにはるばるやってきたのだ。遺産を独り占めするなど、この律儀で正直者の善人には到底できない所業だ。札束を感慨深く眺めている妹たちを見て、兄は大いに満足した。
 責務を果たし、妹たちの無事を確認できた兄は、ほっとした様子で家族の待つシュトゥットガルトに帰って行った。
 嬉しいことにロッテは数日間の休暇を取っていたので、子供たちは日がな一日デイジーの咲き乱れる野原を駆け回り、ロッテと私はしみじみと楽しかった頃の思い出を語り合いながら、お互いを慰めあった。
 ロッテは相変わらず穏やかで優しい女性であったが、しかし凛とした底力のようなものを感じる時があった。それは以前の私の知る姉ではなく、悲惨な運命を潔く受け止め、力強く生きている新しい姉であった。なんと強い人だろう。いや、なんと強くなったのか。しかし、そうなるまでに、いったいどれほどの慟哭の日々を経て来たのだろうと切なくもあった。
 ロッテたちの滞在中、マリーと私の子供たちの絆はより緊密になり、それは生涯続くこととなった。特に弟と妹たちを亡くしたマリーにとっては、いとこたちとの強い連帯感は人生をより彩り豊かにしたのではないだろうか。休暇の最終日、「帰りたくない!」とむずかるマリーと、「帰らないで!」と泣いてすがるアニタとギザ。フランツは照れくさそうに、ちょっと離れてそれを見ている。ほのぼのとした光景に、私たちは救われる思いだった。駅のプラットホームで、汽車の窓からいつまでも手を振るロッテとマリーに、私たちも千切れるほどに手を振り続けた。
 戦争は私たちの心に大きな傷痕を残したが、私たち兄弟姉妹間の信頼は断ち切ることはできなかった。土地も財産も簡単に消失してしまったが、両親が私たちに残してくれた愛情と薫陶の賜物は、私たちの中に生き続け、やがては子供たちへと引き継がれていくだろう。 

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上・下:終戦直後の子供たちは、どんな廃墟も最高の遊び場にしてしまうのだった。しかし崩れてきた瓦礫の下敷きになるなど、怪我や死亡事故は少なくなかった。

 

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 ドイツの終戦直後は、一言で言えば混沌の時代だ。それでも占領統治国の援助を得て、何とかして生活を立て直そうとしていた。

 食糧配給券によって食料を得る生活は、当時も続いていた。配給券の有無は死活問題であり、実際に盗難に遭って餓死する者もいた。この配給券は5段階に分かれており、①→⑤へとその配給量が少なくなっていった。①建設現場など最もきつい仕事に就く肉体労働者と政治家(政治家も当時は肉体労働者だったのだろうか?)、②①ほどきつくない肉体労働者と学者などの頭脳労働者、③会社員、仕事を持つ女性、作家、芸術家など、④15歳までの子供、⑤元ナチス党員、老人、主婦、となっていた。⑤は「ドイツ再建には大して役に立たない」連中を一括りにしたらしい。そしてこれらの5色に色分けされた配給券は「死へのチケット」とも呼ばれた。それは到底これだけでは生き延びることが出来ない、という意味が込められている。このチケットで得られたものは、パン、肉、ジャガイモ、砂糖、塩、油、コーヒー、紅茶、それ以外は取れ高によって毎週異なった。大人の一日の摂取カロリーは1500㎉であるべきだが、1946年から1947年にかけての冬は記録的な寒さだったため、その半分のカロリーしか摂取できなかったのだ。

 

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上:当時の食糧配給券。

 

 パンは重要な主食であったが、大量生産していた工場は空襲で被害を受け、終戦直後は小さなパン工房のみが稼働していた。しかし原料の良質な小麦粉が十分に入手できず、からす麦やジャガイモの粉を代用して焼いていた。

 私たちの住んでいた村は、野菜はなんとか自家栽培できたけれど、都会の人々は土地の確保が困難だった。庭付きの家ならまだしも、アパート住まいの人々は、公園や空き地を探しては野菜類を育てていた。当時、ベルリンのブランデンブルグ門の周りの空き地に野菜畑が広がっていたなどと、一体誰が信じるだろう?ベルリン大学の校庭は牛が草を食む牧草地となり、シャルロッテンブルグ城の美しい庭園にもヤギや羊が放牧されていたのだ。

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上:ブランデンブルグ門前の野菜畑。

 

 しかしそこは素人の都会人である。どれほど農作物に手をかけても、土が肥沃でなければ収穫は見込めない。出来上がった人参はネズミの尻尾のようにやせ細っており、ジャガイモはコロコロと一口サイズばかりだ。それでも人々は土地を探しては野菜の種を撒き続け、水をあげ、実りを心待ちにした。

 栽培がだめなら食べられる物を探せばよい。タンポポの葉、イラクサはサラダに持って来いだし、スイバはスープに最高だ。オオバコだって食べられないことはないし、栗など見つけたものには大騒ぎで取り合いだ。シナノキやカモミールはお茶になるし、ブナの実は炒って挽いたらコーヒーに似た味がする、ような気がする。人々は自然の中で草や実を摘んだり味見したりしながら徘徊し、その必要は多くの発見を生み出していった。

 配給切符では空腹は収まらず、自家菜園も食用植物探しも限界があるであれば、最後の手段は「ハムスター列車」に乗ることだ。これは当時、都会から村へと物々交換のために乗り込んだ満員電車だ。まるでハムスターが餌をほっぺたの中いっぱい詰めて巣に帰って行くように、人々も田舎の農家からもらった農作物を袋いっぱい詰めて家に戻る列車に乗り込むのだ。

 

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上:ハムスター列車。この旅は命がけで、途中で落ちたり、対抗列車にぶつかって命を落とす者、足を切断する者もあった。

 

 ハムスター列車がなかったら、餓死者は何倍になっていただろう?人々は駅のプラットホームで何時間も汽車を待ち続け、到着した汽車のどこかにつかまるスペースを見つけると、その鉄棒につかまり、吹きさらしの寒さに泣きながら到着まで耐えたのだ。やっと汽車が駅に到着すると、そこから何時間も歩き続けて農家の戸を叩き回り、真珠のネックレスや金の懐中時計をジャガイモや卵に交換してもらえないか交渉するのだ。やがて麻袋にたっぷりのジャガイモ、カブ、ニンジン、ベーコン、卵などを詰め込んで、意気揚々と再びハムスター列車に乗り込み、農民たちは高価な宝石や骨董品の獲得に満足した。

 農家で得られない物があれば、闇市へ!違法であっても闇市は必要悪だ。大都市に限らず、どんなに小さな町であっても闇市は存在した。ここでも、もちろん物々交換だ。買い手側が持って行く物の多くは、パン、タバコ、コーヒー豆、蒸留酒、肉、時計、配給切符、ガソリン等々。売り手側が路上に広げているのは、例えばハム、下着、クリーム、タバコ、配給切符等々。ほとんどの商品価格は割高で、中には定価の100倍もする物もあった。しかし背に腹は代えられない。ここで最も重宝された通貨はタバコ、それもアメリカ製のラッキーストライクがあれば、売り手側は大喜びで交換した。アメリカ兵と仲良くなれればしめたもの、ラッキーストライクをせしめて闇市に行けば何でも手に入る。しかし、一般市民がアメリカ兵と懇意になることなどめったになく、ラッキーストライク通貨を得るのは夢のまた夢であった。

 

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上:闇市の様子。

 

 それにしても、これらの商品はいったいどこから来るのだろう?ほとんどの物は占領統治国であるアメリカ、イギリスなどの兵士たちが母国から送らせたもので、倉庫に行くまでにどういうわけかドイツ人の手に渡ったのだ。貨物列車や倉庫から盗まれた物もあれば、農家でアメリカ兵たちが野菜や肉と交換する場合もあった。特に農家はアメリカ製品の宝庫となり、女所帯にアメリカ製髭剃りやラッキーストライクが山のようにあるのも珍しいことではなかった。それを持って闇市に行けば、帰りは王侯貴族だ。他にもかつてのナチス党員たち専用の隠し倉庫があり、戦時中から保管してあったタバコや高級酒を持ち出して売りさばく元党員たちも多かった。

 やがて闇市は子供や若者たちの溜まり場となり、学校に行かない未成年者たちがタバコを吸い、盗み、元締めの使い走りをするようになった。闇市は違法であるから、逮捕されれば刑務所行きだ。警察がどれほど取り締まりを強化しようと、闇市が無くなることがなかったのは、警察官は「乱れた風紀を正すため」に没収した物品を、再びどこかで売りさばいていたからだ。倫理、正義、公明正大などいう言葉は、平時の戯言なのだろうか?

 

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上:闇市での子供たち。

 

 全国で占領統治国による4D政策が行われた。これはDezentralisierung(地方分権化)、 Demilitarisierung(非武装化)、 Demokratisierung(民主化)、Denazifizierung(非ナチ化)を指す。つまりナチスの根絶を図ったのだ。

 早速、18歳以上のすべてのドイツ国民に対して調査が行われ、五つのカテゴリーに分けられた。1.主犯格(戦争犯罪人)、2.積極的加担者(ナチス活動家、受益者)、3.協力者、4.追従者、5.無関係。占領国はこの調査結果によって、特に役所の公務員の非ナチ化を徹底したかったのだ。なぜならば役所で働く公務員の95%以上が、かつてはナチス党員だったからだ。しかし、この調査はあまり効果がなかったようだ。元ナチス党員のほとんどが「便宜上、党員となっただけであり、決して信奉していたわけではない。」、「あれはナチス上層部の仕業で、我々は協力せざるを得なかったのだ。」と主張したためだ。そもそも認めれば解雇されることがわかっていて、「私はナチス政府を信奉していました。」となどと言うバカな人間がいるものだろうか?

 ナチス時代に発行された身分証明書や登録証のうち、ナチス党員のものには鉤十字のスタンプが押されていたので、これが大きな目安となった。しかし、多くの書類が空襲で焼失したため、あるいは焼失したと偽って破棄されたため、真の熱狂的な元ナチス党員たちは職を追われることなく、役所の椅子に居座り続けた。他にも戦後になっていきなり名前も出身地も異なる人物があちこちで生まれる、という不思議な現象も多く見られた。おまけに専門知識を持つ人材はことごとく戦死したか捕虜収容所に収容中で、役所で働く公務員たちは役立たずで能無しの元ナチス党員ばかりとなった。

 生き延びて捕虜収容所から家族のもとに戻ることが許された男たちにも、 多くの不幸が待っていた。私の夫、フーゴのように戦地のトラウマから逃れることが出来ず、何らかの神経症を患う男がほとんどだった。やっと愛する家族のもとに戻ってはみたものの、子供たちは父親を覚えておらず、どこかよそよそしい。妻は経済的にも精神的にも自立し、仕事に行けない夫に苛立ち、子供がもうひとり増えたような煩わしさにうんざりしている。子供たちを食べさせることさえできない厄介者。男たちは自暴自棄になり、アルコール依存症になり、あるいは暴力的になる者もいた。こうして夫婦仲は冷えきってしまい、男たちは家庭内でも孤立し、より苦しむのだった。当時の離婚率は著しく高く、父親が去った家庭では往々にしてその家の長男が父親の役割と責任を引き受けることになった。

 混沌はまだまだ続く。終戦直後の人口のうち、3千700万人の女に対して、男は2千900万人、つまり女125:男100の比率であった。特に深刻だったのは戦死者と捕虜の多い若い世代だ。女160:男100という比率で、400万人の女たちは独身または未亡人だったのだ。

 それを象徴する、ひとつのエピソードがある。この村には私以外にも、難民の家族が何組も住んでいた。近くに住むオイレン夫人は、ポンメルン地方から逃げて来た若い未亡人で、おとなしい地味な雰囲気の女性だ。4年ほど前、ソ連の前線で夫は戦死し、子供はいないので一人で暮らしていた。特に仲が良いというわけではなかったが、それでも雑誌や新聞が手に入ると、お互いに貸し借りをする仲だった。この時も私はオイレン夫人のもとに、借りていた裁縫の手引書を返しに行ったのだ。玄関の戸を叩いても返事がない。この村では施錠をする習慣がなかったので、私はいつものように戸を開いて家の中に入って行くと、台所のテーブルの上に本を置いた。家を出ようとしたその瞬間、寝室から女のうめき声が聞こえた。私はオイレン夫人が心臓発作か何かで苦しんでいるのではと思い、慌てて寝室のドアを開けると、ベッドの上で裸の男女が抱き合っている。真っ白な痩せたオイレン夫人の身体が今でも脳裏に浮かぶ。二人はピタリと動きを止めて私を凝視し、私は硬直したまま、なぜか発作的に「ごきげんよう。」と言った。そして破裂しそうな心臓を抱えてオイレン夫人の家を飛び出し、オリンピックの短距離走選手かと見まごうほどの速度で家まで全力疾走した。相手は近所に住む、役場のあの男に間違いない。五十代半ばの妻も子供もいる一家の主だ。その夜はあまりの衝撃に、なかなか寝付くことができなかった。まさかあの、おとなしいオイレン夫人が!これから一体、どんな顔をして夫人に会えばいいのだろう?役場にも行けないではないか!まるで自分が罪を犯したような、この後ろめたさ!

 翌日、ジャガイモ畑を掘っていると、

「シュライバーさん。」

誰かが背後から声をかける。振り向くとそこには、ほっそりとしたオイレン夫人が立っており、私はギョッとして、立ち上がることが出来なかった。

「昨日のことですけど・・・。」

「私は何も見ていません!何も見ていません!」

慌てふためく私にオイレン夫人はにっこり笑い、腰を下ろして私の顔をまっすぐに見つめた。

「驚かせてしまって、ごめんなさいね。私はあなたが誰にもおっしゃらないと信じています。言い訳もいたしません。あちらのご家族にも迷惑はおかけしません。」

ああ、早く目の前から消えてほしい。いやな汗をかきながら、私はそれだけを願っていた。

「時々、ああして抱いてもらっているんです。寂しくて寂しくて、人肌が恋しくなる時があるのです。このまま誰にも抱かれずに老いていくのは辛すぎます。でも独身の男性はいませんし、私のような未亡人はどうしたら良いのでしょうか。」

どうしたら良いでしょうと言われても、いったい何を答えればいいのだろう?私はただひたすらジャガイモの穴をほじっていた。

「抱かれたい、愛されたいと思ってしまうのです。抱かれている間だけは、生きている実感があるんです。私は地獄に落ちるでしょうね。」

ドキドキしながら夫人の顔を見ると、眼にいっぱい涙を浮かべ、寂しそうに微笑んでいる。やがて、ゆっくり立ちあがると、私から離れて行った。なんと寂しげな後ろ姿だろう。寄せては返す波のように、悲しみは夫人の足もとを寄せたり返したりするのだろうか。白い磁器のように滑らかな冷たい肌をさらしながら、一糸まとわぬ夫人がひとり、夕暮れ時の濡れた砂浜に立ち尽くしている、そんな寥寥たる風景が心に浮かんだ。オイレン夫人もまた、伴侶を持たない400万人のうちの一人だった。

 畑から帰宅すると、テーブルの上にあるフーゴからの手紙が目に入った。きっとまた愚痴だらけの内容に違いない。いやいや封を開けて几帳面な小さな字に目を走らせると、驚いたことにそこには愚痴は全く見当たらず、それどころか嬉しいニュースが綴られていた。マグデブルグのフーゴが働く事務所が、空襲で半壊した社宅を改築することにした、来年春には完成予定であるから、そこに家族で住めそうだ、とあるではないか。広くはないが贅沢は言えない、電気も水洗トイレもあり、今よりは格段に良い生活が出来るだろう、とある。おまけに家賃は事務所が半分払ってくれるのだ!さあ、新しい一歩だ!しかし、本当にフーゴと生活できるのだろうか?本当に?

 複雑な気分で家を出ると、義母、ヴァリー、子供たちが水浴びをしている湖に向かって歩いて行った。通り過ぎる家々の煙突の巣の上で、コウノトリたちが悠々と片足を上げ、ふてぶてしく私を見下ろしている。秋になれば再び南へと飛んでいく流浪の身は私と同じだ。妙な共感を覚え、まじまじと見上げてみる。この渡り鳥たちも、新しい土地での不安と希望の入り混じる複雑な気持ちを抱くことはあるだろうか?メンデルスゾーンの「渡り鳥の別れの歌」がふと口をついて出た。戦時中はユダヤ人の作品は演奏禁止だったけれど、ロッテと私はこのメランコリックな曲が大好きで、よく小さな声で歌ったものだった。

 

  森も草原もなんと美しかったことだろう!

  それなのに今はなんと悲しげなのか!

  あの美しかった夏の日々

  喜びの後にやってきた苦しみ

  私たちは悩みなど知らなかった

  ただ屋根の下に座り

  陽の光を楽しみながら

  世界に向かって歌っていたのに

  私たちは悲しい渡り鳥

  故郷を持たず

  いま、ここを去らなければならない

  遠い見知らぬ地へと