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月は昇りぬ  Der Mond ist aufgegangen

ドイツのヒルデおばあちゃんの思い出話を綴っています。

村での日々 2

 シュレスヴィヒにいた頃は食糧不足も深刻で、多くの餓死者を出した。男たちは戦地と軍需産業に駆り出され、農家は圧倒的に人手が足りず、農地は荒れ放題、収穫は当然例年より少なかったのにも関わらず、流入する難民で人口は増え続ける。私たちが強制的に村に移住させられたとき、こんな田舎に放り込まれた屈辱に愍然たる思いであったが、いざ暮らしてみると、飢餓がないことに安堵した。衣類や住処など、そう大した問題ではない。飢えないということがどれほど幸せなことか、それは体験した者にしかわかるまい。

 ヴァリーと私は毎日畑に出て人手の足りない農家での農作業を手伝い、野菜を無料で分けてもらっていた。配給切符だけではビタミンを十分に摂取できないため、喜んで毎日農作業に勤しんだ。私はたちまち真っ黒に日焼けし、指は節くれだち、ヴァリーはますますソバカスだらけになった。野菜たちは手間をかければかけるほど、すくすくと伸び、膨らみ、色付いていく。ネギ、カブ、ラディッシュ、ほうれん草、トマト、インゲン豆、人参、ルバーブ、サラダ菜。新鮮な野菜はどれもほのかな甘味があり、素晴らしい芳香を放つ。重労働ではあったが、土をいじりは心癒される時間でもあった。

    村には大きな森があり、焚き木を取りにいくのはもちろん、春は西洋ニラ、ハーブ、夏はブルーベリー、ブラックベリー、ラズベリー、スグリ、秋にはキノコや木の実が収穫できた。特に素晴らしいラズベリーの茂みがあり、初夏にはカゴを持った人々が森に群がった。

    村で生まれ育った「ベリー婆さん」と呼ばれる、80歳を超えた不思議な老女がいた。朝暗いうちから森にやってきて、籠いっぱいにラズベリーを摘むと、足早に帰宅し、再びカラの籠を持ってやって来て、籠をラズベリーでいっぱいにする。それを一日に何度も繰り返すのだ。ベリー婆さんは、籠を持って森に向かう「よそ者」を遠くからでも目ざとく見つけ、仇討ちにでも行くのかと見まごう恐ろしい形相で、一目散に走ってくる。足音もなく背後から走り抜けていくベリー婆さんを、子供たちは「ヘクセ(魔女)」と呼んで恐れた。ラズベリーを独り占めしようと全力疾走する執念と気概は鬼気迫るものがあり、確かに80代の老人とは思えない、人間を超越したあった。

 隣町に一軒の小さなパン屋があり、そこの女店主はいつも陽気で優しかった。フランツと一緒にパン屋に向かう途中、パンジーの咲き乱れる野原があり、フランツは小さな手でパンジーの花束を作ると、女店主にプレゼントした。店主はいたく感激して、菓子パンをひとつフランツに手渡した。それからと言うもの、私がパン屋に行くときはどんなに遊び仲間と忙しくても、フランツは中断して私についてきて、パンジーをせっせと摘み、店主は律儀に菓子パンを与えた。私もいい加減、恥ずかしくなりかけた頃、パンジーの季節はやっと終わりを告げた。

 難民には不要な物など何一つなかった。一般人にはゴミであっても、少し手を加えれば何かに使えた。配給切符にはタバコ一箱分があったが、タバコを吸わない私にも貴重だった。と言うのも、1キロの小麦粉と交換できたからだ。店にはほとんど商品もなく、当時は物々交換は日常的だった。 

 徒歩で一時間ほど行ったところに捕虜収容所があったが、終戦直前に捕虜たちは解放され、空家になっていた。村役場から、収容所に残っている家具や日用品を難民が引き取ってもよいとの通達あり、私は開館時間より30分早く到着できるよう、張り切って出かけて行った。しかし、多くの失望した難民たちが、収容所から逆方向に歩いてくる。そのうちのひとりに尋ねてみると、なんと収容所の中は空っぽで、家具も日用品も全く残っていないと言う。

「村の連中が、前の晩に馬車でやって来て、全部持ち去ったんだとさ。難民になんか渡すまいってとこだろう。」

何ということだろう。着の身着のままで故郷から逃げてきた難民に、同情の余地はないということだろうか。私はそれでも諦めきれず、収容所の中に入っていった。

 見事に何も残っていなかった。椅子一脚さえも。捕虜たちが履いていた木靴の底の山だけが残り、何かに再利用するのだろう、皮部分だけが切り取られていた。しつこく探していると、部屋の片隅に転がっているブリキのバケツを見つけた。大きな収穫ではないか!井戸から水を運ぶのに重宝するだろう。諦めなかった自分を心の中で褒めたたえ、バケツを持って家路に着いた。

 村長は村人たちに怒り心頭、新しい通達を出した。

「盗んだ物は、一週間以内に返還のこと。さもなくば刑罰を科する。」

隣人たちの密告を恐れた村人たちは、慌てて物品を収容所に返却した。

 一週間後、再び難民たちは収容所を訪れた。私はチェック柄のシーツを何枚ももらい、それでアニタのワンピースを縫い、作ったカーテンは農家でナイフとフォークに交換してもらった。 

 村にはいまだに電気も通っておらず、ラジオも新聞も電話もなかった。手紙が唯一の情報源であったが、郵便は戦後の混乱で機能しておらず、ほとんどが噂話や人伝ての情報ばかりであった。戦地に行った男たちは、他の町に住む親戚、友人たちは、果たして生きているのだろうか?ダンツィヒの映画館のように、ここにも霊媒師たちがやって来た。さぞや夢のような繁忙期だったことだろう、死霊たちもあっちに呼ばれこっちに呼ばれ、魂の安まる時があったのだろうか?

 他に娯楽がないせいか、村の女たちは噂話が大好きで、すべての村人の家族構成から趣味から経歴からゴシップから、何もかもを熟知していた。難民たちは格好の餌食になり、私も道端でよく話しかけられた。天気の話から始まって、農作物の出来具合、子供たちの健康、そして目をキラキラさせながら、本題に入る。

「ところで、エッゲ家での住み心地はいかが?」

何十回尋ねられたことだろう。無愛想で癇癪持ちなエッゲ氏は、村では嫌われ者だった。エッゲ家の畑のカブを抜き取った子供は拳骨で殴られたし、群れから離れようとした子羊はその場で首を捻って殺された。女たちは私がエッゲ家での残酷な体験を話してくれるのではないかと心躍らせていたのだろうが、そうは問屋が卸さない。

「親切にしていただいて、とても居心地がいいですよ。」

にっこりする私に、女たちは拍子抜けする。エッゲ夫人の耳に私の発言は必ず届いていたようで、ますます親切にしてくれたのだった。

 エッゲ氏とは対照的に、村の「トニおじさん」は誰からも愛された。元々は家具職人なのだが、手先が器用なのか何でもできた。年は50歳くらいだろうか、いつも機嫌が良く、私たち難民にもなにか手伝えることはないかと心を配ってくれた。例えば、村には美容院がなかったので、私の髪は長く伸び放題、まとめて結いたいのだがヘアピンがない。トニおじさんは「まかせとき!」と言って、次の日にはヘアピンを10本も作って持ってきてくれたのだ。「針金をペンチで曲げただけさ。」と言って、代金を受け取ってくれないのだが、頭皮を傷つけないよう、針金の切り口がヤスリで丸く研いであるのに気が付いたとき、その手間と思いやりに感激したものだ。また、あるときは難民たちが洗濯バサミが無いことを嘆いていた。「まかせとき!」三日後には木を削って作った何十個もの洗濯バサミを、私たちに難民に届けてくれるのだった。私はいまだにそれを記念に持っている。

 そしてトニおじさんは、子供にも愛されていた。アニタの下痢が止まらなかったときも、トイレからアニタが叫んだ。「トニおじさんを呼んできて!」さすがにその時ばかりは呼ぶことはなかったが、後日、笑いながらその話をトニおじさんに話すと、「呼んでくれれば良かったのに。オレなら治せるよ。」と真顔で言うのだった。案外、冗談ではなかったのかもしれない。

 トニおじさんは、人間だけではなく、なんと動物からも愛されていた。ある日、興奮した牡牛が厩舎から逃げ出した。誰の手にも負えない攻撃的な牡牛で、持ち主の主人は叫んだ。「トニを呼んで来い!」やって来たトニおじさんは縄を持つと、ヨダレを垂らして威嚇する牡牛にジリジリと近付いて、低い声で囁く。「いい子だ、いい子だ。さあ、おいで。」牡牛は歯向かうことなく、目をそらし、うなだれてトニおじさんに身を任せた。鼻の輪っかに縄を通されて、もう身動きできない。牡牛は静かにトニおじさんに引かれて、厩舎に帰っていった。

 難民たちが故郷から持ってきた衣類はすべて冬物だったので、気温の上昇と共に、夏服の入手が深刻な問題となっていた。シュレスヴィヒにいた頃は古着の寄付があったけれど、ここでは村人たちも喉から手が出るほど衣類が欲しかったのだ、難民に寄付などするわけがない。さて、どうしたものか。

 お嬢様育ちでのんびりとした性格の義母は、時々腰を抜かしそうになることをやってのけることがある。なんと、農家を回って要らなくなったナチスの鉤十字の大旗をかき集めてきて、これで夏物の服を作ろうと言うのだ。連合軍にナチ党員と疑われることを恐れ、都会では終戦直前からナチス関連のものは焼却処分されていたが、田舎はのんびりしたもので、まだ平気で壁に飾ったままにしていたのだ。義母は、連合軍が来た時の危険性を忠告して歩き、まとめて処分する「面倒な作業」をかって出たのだ。そうして大量のナチスの旗を入手すると、生地の赤い部分だけ切り取って、ギザとアニタのワンピース、フランツのシャツ、私たち女三人分のブラウスを縫い上げた。その赤は鮮やかで美しく、村中が私たちの服を羨んだが、不思議とナチスの旗から作り上げた物とは誰も気が付かなかった。私たちは真っ赤な衣服で夏を過ごし、鉤十字部分の黒い生地で作ったリボンでアニタの髪を飾った。

 夏になると、コウノトリたちがすべての農家の煙突に巣を作った。幸運のシンボルは追い立てられることもなく、片足立ちで巣の上から私たちを悠々と見おろしている。その姿はなんともふてぶてしく、壮観だった。私たちは冷たい湖水のしぶきをかけながら遊んでいる子供たちを眺めながら、短い夏のひとときを楽しむのだった。

「ハウエハ!」はこの地方の方言で、「なんてことだ!」とか「すごいぞ!」といった感嘆の意味で、もっとすごければ「ハウエ・ハウエハ!」、最上級は「ハウエ・ハウエ・ハウエハ!」となる。

ハウエ・ハウエ・ハウエハ! なんてこった、あの家の息子が捕虜収容所から戻ったそうだ!

ハウエ・ハウエ・ハウエハ! そりゃめでたい!今夜は酒盛りだ!

夏が過ぎ、秋が来てもこの感嘆の言葉は我が家で聞かれることはなかった。郵便は平常通り機能し始めたのに、フーゴからも姉からも兄からも、何の連絡も来ない。窓から見える森のカシ、ナラ、ブナの木々も色付き始め、やがて葉を落とし、教会の鐘が晩秋を告げる。

 秋の「聖マルティンの日」には、暗闇を提灯を下げた子供たちが歌いながら村を練り歩き、 クッキーや木の実をもらいながら家々を回る。砂糖はとても貴重だったけれど、この晩だけは子供たちにお菓子がふるまわれた。フランツもアニタも新聞紙で作った提灯を枝でくくりつけ、中に小さなロウソクを灯して村を歩く。

 この頃、やっと村にも電気が通ることになった。エッゲ家にも技師がやって来て、ケーブル工事が始まった。エッゲ夫人が屋根裏部屋にも張ってくれと言うと、技師は、

「難民に電気なんてもったいない!」

と、はねつけた。エッゲ氏も技師に賛同し、エッゲ夫人はそれ以上、何も言えなかった。

「ハウエ・ハウエ・ハウエハ!なんて明るいんだ!」

夕餉時にどこの家からも歓声が上がる中、引き続き私たち難民はオイルランプに火を灯した。

 冬になり、雪が積もると、子供たちはソリに夢中になった。ダンツィヒから持ってきた立派なソリは健在で、村の子供たちは競ってフランツと遊びたがった。なだらかな丘の斜面の上から、子供たちが笑いながら滑り降りてくる。

「ハウエ・ハウエ・ハウエハ!フランツのソリは最高だ!」 

苦労して持って来た甲斐があったというものだ。

 クリスマスが近付くにつれて、誰もが頭を抱えた問題が「子供たちへのプレゼント」だった。どんなに貧しくても、プレゼントのないクリスマスなど有り得ない。しかし、何か作りたくても素材がない。はて、どうしたものか。困ったときは、トニおじさんだ。相談すると、早速トニおじさんはどこからか古い椅子の革を剥がして持ってきてくれた。それは柔らかい上等の黒い革で、私は天にも昇る心地だった。この革を球状になるようにカットし、縫い合わせ、中に藁を詰めたらフランツ用のボールの完成だ。残りの革でギザにはアヒルの人形を、アニタにはイギリス兵が捨てていった軍服とナチスの旗の残りの生地で、指人形を作った。

「ハウエ・ハウエ・ハウエハ!母さん、ありがとう!やったー!やったー!」

プレゼントに喜ぶ子供たちの歓声も、この頃にはすっかりこの土地の言葉になっていた。

 クリスマスツリーには不自由しない。森からモミの木を担いで来れば良いだけだ。デコレーションは藁で作ったたくさんの星。準備万端、皆が無事にクリスマスを迎えられる喜び。

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 上:戦争孤児たちもクリスマスだけはケーキとプレゼントがもらえた。

 

 12月24日、私たちは村の小さな教会のクリスマス礼拝に参加した。この晩ばかりは、村人と難民たちで教会はいっぱいだ。皆でクリスマスの歌を歌い、祈った。

牧師が聖書を朗読する。

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

御言葉の中の「彼らの泊まる場所がなかった」という箇所に、こみ上げるものがあった。キリストもまた、難民のように馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのだ。目を閉じ、頭を垂れて祈った。

恵み深き父なる神さま。あなたは、この世に愛と正義を実現させるため、御子を遣わしてくださいました。そして今日がその喜びの日です。しかし、今この時にも、多くの人が愛する者を失った悲しみにもがき苦しみ、孤独に打ちひしがれています。どうか彼らの上にも、あなたの恵みがありますように。あなたの愛が届きますように。そして、どうか私がいかなる艱難の中にあっても耐えられますよう、強めてください。あなたへの感謝と賛美を、イエス・キリストのお名前を通して、御前に捧げます。

アーメン

    それから三日後、私のもとに一通の手紙が届いた。心臓が破裂しそうな不安におののきながら、封筒に記された送り主を見て、私は喜びに絶叫した。フーゴからだ!生きていたのだ!震える指で封を開け、読み始めると、私はそのままヘナヘナと床に座り込んだ。

    フーゴの手紙には、これまでの経緯が簡単に書かれてあった。包囲されたベルリンで手榴弾工場にいこと、終戦と同時にソ連軍の捕虜になっていたこと、解放されてすぐにライプチヒのフーゴの姉のところに行き、そこで私たちの居場所がわかったこと。私たちと長いあいだ連絡が取れなかった理由が、やっとわかった!

 そして、来週ここに来て一週間ほど滞在するとあり、私は飛び上がって義母を探しに行った。子供たちと買い物から戻った義母に、フーゴから手紙が来たと報告すると、義母は座り込んで、「おお、神様!」と泣き叫んだ。私の手から手紙をひったくると、義母は震える手でそれを読んだ。

「ああ、生きてる!生きてる!」

私たちは地面に転がったまま、抱き合って泣いた。キョトンとしているフランツとアニタを抱き締め、

「父さんに会えるのよ!」

と泣きながら笑った。